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【初代将軍『家康』の評価】:他の戦国武将に比べて人気が低い理由

徳川家康という名前は、日本の統一と徳川幕府誕生の代名詞です。彼は、日本の歴史、文化、社会を形成する遺産を持つ、日本で最も影響力のある指導者の一人と考えられています。家康のリーダーシップは、その軍事的戦術から政治的才能に至るまで、何世代にもわたって武士や学者にインスピレーションを与えてきました。それにもかかわらず、他の戦国武将に比べ、人気が低いと言われます。
では、家康にもし「通信簿」があったとしたら、どのような点数が付くでしょうか。この記事では、徳川家康の人生と遺産を掘り下げ、権力の座についたこと、軍事戦略、政治的功績、そして文化的影響について探ります。日本の戦場から権力の中枢まで、日本の歴史を変え、世界に大きな足跡を残した人物の物語を紐解いていきます。徳川家康の人生と時代を旅し、その成功の秘訣を発見し、家康に「通信簿」を付けてみましょう。

目次

家康はいかにして江戸幕府を誕生させたのか

徳川幕府初代、徳川家康の人質時代

三河国(みかわのくに)は、現在の愛知県東半部を指しています。かつては「三」の大字を用いて参河国(參河國)とも表記しました。

この国の小大名だった松平一族に生まれます。父は、松平広忠(ひろただ)。家康は、広忠の嫡子でした。
このころ、松平広忠は今川義元の庇護を受けていました。そのため、家康(幼名・竹千代)は今川の元に人質に出されることになりました。

ところが、途中行く先が織田信秀(信長の父)の所に変わります。その理由については、従来家来戸田康光の謀略説が有力でしたが、近年広忠が織田信秀に戦いで敗れたために広忠自身が竹千代の行く先を代えたとする説も出てきています。

なにはともあれ、竹千代の人質生活の最初の2年は尾張の織田の元でした。
さらにその後、もう一度今川義元の元に送られ、そこで少年期・青年期を過ごすことになりました。

桶狭間で永禄3年(1560年)に、今川義元織田信長に討たれた後、今川から自立し、やがて信長と結び、三河一国を手に入れることに成功します。19歳のことでした。

NHK「どうする家康より」織田信長

今川での人質時代は悲惨だったのか

「人質」と聞くと、とても不遇な生活をおくっていたのか、と想像してしまいます。ですが「どうする家康」を見た人は、「なんだか優雅な生活をしているな」と感じた方もおられるでしょう。

家康の人質時代は、「優遇されていた」と言っていいと思います。
その証拠として、3点挙げるとすれば、まず第一に教育面です。家康の教育は、義元の軍師「雪斎禅師」が行っています。

家康が雪斎に教えを受けたのは、8歳から14歳ぐらいまでの6年間ほどでした。人間形成にとって大切な時期を、当時の第一級の人物から指導を受けられたということは、その後の家康にとって宝となりました。

二点目は、元服に際して、「義元」から「元」の字を名乗りの一字として与えられています。始めは「元信」、ついで「元康」と名乗っています。主君の名の一字を与えられるということは、主君から「かわいがられている」、「重きを置かれている」ということです。

三点目は、家康は義元の妹の子、つまり姪である瀬名姫と16歳で結婚しています。瀬名姫は、義元の重臣「関口 親永(ちかなが)」の娘でもあります。自分の妹と重臣の間に生まれた娘と結婚させるなど、普通の人質だったらあり得ないことです。

NHK「どうする家康より」

人生の転機、桶狭間の戦い

家康の初陣は、永禄元年(1558)年、17歳のことでした。三河国加茂郡寺部城鈴木下野守重時(しげとき)を攻め、勝利しています。

おそらく義元は、子供のころの家康を見て、その才能を見抜いたのだろうと思われます。だから、雪斎という一流の師をつけ、英才教育を施しました。将来は、今川家の重臣として子や孫を支える武将としたかったのでしょう。

ところが、永禄3年(1560)、家康19歳のときに大事件が起こりました。桶狭間の戦いです。なんと、今川義元が当時弱小勢力だった織田信長に首をとられてしまいます。

義元の死によって、家康の人生はガラッと変わります。
この時、天は家康に味方しました。桶狭間の戦いの日、大高城に食べ物を運び込む仕事を成功させ、丸根砦を落とし、そのまま大高城の守りに就いていたのです。このことが、家康には幸いしました。

もし、義元の近くに戻っていたとしたら、義元と一緒に桶狭間(田楽狭間)で命を落としていたでしょう。家康には、こういう幸運がこの後も、幾度もみられます。

天下を取る人というのは、実力だけでなく、運も必要なようです。

NHK「どうする家康より」

松平から徳川に改姓

松平竹千代は、今川義元の人質時代に元服し義元の「元」の字をもらい「元康」と名乗っていました。
しかし、桶狭間で今川義元が討たれ後は今川から離れました。そして、織田と結ぶことになります。

一言で、「家康と結ぶことにした」と言うと、何か簡単なことだったように聞こえますが、この決断は家康にとっては大決断です。それこそ、悩みに悩んで決定したことでしょう。

この決断は、「吉」とでます。

このあたりの決断は、「実に見事」だったと思えます。
元康は、嫡子の信康と織田信長の娘「徳姫」を婚約させ、自らの名を「家康」と改めました。永禄6年(1563)家康22歳のことです。

この後、三河の国を統一し、朝廷から三河守(みかわのかみ)という官位を授けてもらう動きに出ました。しかし、「」という律令制に定められている官位を朝廷からもらうためには、家康が官位をもらえる身分、つまり源氏や平氏、藤原か、橘か、とにかく由緒正しい血筋でなければなりません。

地方の有力者であっても、「松平」などという出自がはっきりしない一族では、官位をもらうことは出来なかったわけです。

そこで、家康は
「自分は、清和源氏の子孫の新田流源氏の子孫である!」
「先祖は、現在の群馬県太田市あたりの徳川郷に住んでいたので『徳川』を名乗る」
と、主張したのでした。

中央の有力貴族に働きかけ、「徳川氏を名乗ること」、つまり「自分は源氏だよ」という主張を通させます。家康は官位を手に入れることに成功したのです。永禄9年(1566)、家康25歳のことでした。

余談ですが、この時家康は、仲介してくれた有力貴族に「仲介手数料をなかなか払わなかった」、という逸話が残っています。このあたりの逸話が「しぶちん家康」のイメージを生んだのかもしれません。

三河一向一揆に目を白黒させる

家康が徳川を名乗った永禄9年(1566)から、話を少し戻します。

今川から独立し、信長の娘を嫡子信康と婚約させたと同じ年の永禄6年(1563)、家康は「今川と全面戦争だ!」と思っていたときのことです。家康にとっては、思わぬ所からの反撃を受け目を白黒させることになります。

眼前の敵、今川氏からの反撃ではなく、自分の領地内の一向宗門徒からの抵抗を受けたのです。家康の、対今川戦突入の予定は狂い、三河一向一揆との戦いに全力投入せざるを得なくなってしまいました。

一揆の原因については、諸説ありますが、おそらく真相は「今まで一向宗を優遇していた今川氏から、家康に支配権が移ったとき、一向宗門徒が既得権を守ろうとして起こった」というあたりだと思われます。

家康が三河一向一揆で目を白黒せざるを得なかったのは、一向宗門徒の中に「自分の家来が多数入っていた」から、という点も見逃すことができません。

後に、家康の懐刀と言われる本多正信や、三方原で家康の身代わりとなる夏目広次(吉信)などもこのときは、一揆側でした。

この一向一揆側に、家康の反対勢力がいたことで、一向一揆討伐は、事実上の三河統一戦でもありました。ですから、家康は一向一揆制圧後、わずか数ヶ月で東三河の制圧も成し遂げたのです。

一揆鎮圧とほぼ同時に、家康は三河一国を制圧することに成功します。こうして家康は三河を平定し、朝廷から三河守の官位をもらうために「徳川」と改名する永禄9年(1566)を迎えたのでした。

NHK「どうする家康より)

家康、三方ヶ原で大敗を喫する

徳川と改名し、勢いに乗る家康は、東の遠江(とおとうみ)へ進出します。

そして、甲斐の武田信玄と駿河と遠江を分割する取り決めを結びます。これが家康27歳のとき、永禄11年(1568)年のことでした。この頃は、かろうじて武田との仲が保たれていたのです。

その2年後、元亀元年(1570)に「姉川の合戦」が起こり、朝井・朝倉軍を破ります。そして,この頃、家康は岡崎を信康に任せ、自分は浜松城に映りました。

そして家康が、武田信玄に大敗を喫することになった「三方ヶ原の戦い」が起こります。元亀3年(1572)、家康31歳の出来事でした。

浜松城の家康は兵8、000人。信長の援軍が3,000人。
これに対し、信玄は直接浜松城には向かわず、三方ヶ原に布陣しました。
家康が浜松城に籠城してしまうと、落とすのに時間がかかってしまうので、家康を「誘き出そう」とする作戦でした。

歴史に「もし」は無いが、もし、このとき家康が浜松城を飛び出さなかったら、無駄に兵を死なせることは無かったでしょう。
にもかかわらず、家康は飛び出してしまい、8,000の兵の1割に当たる800の兵を失ってしまいました。

古来より、「家康が、こんな無謀なことをしたのは、31歳という若気の至りによるミスだった。」とする説がまかり通っています。しかし家康はこのとき、城を打って出ざるを得ない状況にあったのだと思います。

「家康が籠城してしまうと、信玄はそのまま信長めがけて進軍してしまう。」
「四方に敵を抱える状態の信長は信玄に勝てない。」
「信長が敗れれば、遅かれ早かれ家康も滅ぶ。」
だから、「信玄が目の前にいる今、家康は信玄と戦わざるをえない。」

無謀というより、戦わなければ「徳川の滅び」が確定してしまう状況だったのです。

ですが結果は大敗北です。
この敗北の中で「よく生き残ったものだ」と、感じざるを得ません。

天の助けか、奇跡か、家康はこのときも、生き残ります。

ちなみに、家康の身代わりとなって死んだ夏目広次(吉信)の忠誠心の逸話は有名です。史実として本当に正しいかどうかは、証明されていませんが、個人的には、夏目さんの身代わり話は、日本人的で大好きです。

長篠・設楽が原の戦いの勝利で、三か国支配の糸口を開く

天正3年(1575)、三方原の戦いからわずか3年後、家康34歳のときに武田氏の運命を決定づける「(いわゆる)長篠の戦い」が起こりました。この戦いで、武田勝頼(かつより)は大敗し、武田家は滅亡に向かって転がり落ちていきます。

この戦いは、信長と同盟していなければ、家康は勝てなかったでしょう。
家康にとって信長との同盟維持は、生き残るために必須のものでした。

武田家が滅んだ後、家康は、三河・遠江・駿河の三か国を得ます。

さらに、天正10年(1582)年、家康41歳の時に「本能寺の変」が起きます。
「本能寺の変」後、家康は甲斐・信濃を手に入れ、五か国の大名となりました。

このように短く書くと、トントン拍子にうまくいったかのように思われますが、そんなに甘くはありません。

NHK「どうする家康より」

家康一家を襲う、苦難

天正7年(1579)7月、家康38歳のときに、家康一家に最大の不幸が訪れました。
このとき、嫡子信康は、21歳の若者に成長していました。妻として信長の娘の徳姫を迎えていましたが、夫婦仲はあまり良くなかったようです。

徳姫は、信長に「(自分の夫の)信康の素行の悪さ」について、12カ条にまとめて訴えたとされています。しかし、それに該当する一次資料は見つかっていません。つまり、「12カ条の訴え」が本当かどうかは分からないのです。

ともあれ、信長から詰問があったので、その弁明のための使者となったのは、家康の重臣筆頭の酒井忠次でした。忠次は、信長の前に出て申し開きを試みましたが、信長には刃が立ちませんでした。

通説では、信長から「信康は切腹、母の築山殿は殺せ」と、言い渡されたことになっています。「信康と築山殿を殺さざるを得なかった」のは、信長の命令による、という構図です。

ところが近年、この通説を見直す動きが出てきています。

信長からは、「信康と築山殿を殺せ」という指示は出ていなくて、二人の死は家康の指示によった、というものです。
つまり、信康派と家康派による徳川家内のお家騒動だった、とする説です。

この説が、真実だとすると、家康は子や妻を殺して、お家騒動をも乗り切ったことになります。

NHK「どうする家康より)

本能寺の変を生き残る

信康の死から3年後の天正10年(1582)3月、信長は武田氏を滅ぼします。

そのとき家康は信長の家来の立場に甘んじ、駿河から甲斐へ攻め込む役割を担っていました。
そして、武田一族の穴山 梅雪(あなやま ばいせつ)を寝返らせることに成功します。

これにより、武田氏を滅亡させた後の論功行賞で、信長から家康に駿河が与えられました。

新恩給与」は、同盟者にではなく「主君が家臣に与える領地」という意味合いをもちます。つまり、このころは家康と信長は同盟関係というものではなく、「主従関係になっていた」ことが分かります。

このときの新恩給与により、家康は、「駿河・遠江・三河」三か国の大名となりました。家康41歳のことでした。

かつて、自分が人質となっていた今川義元の版図を、そのまま自分のものにした形となります。家康にとっては、ものすごく感慨深かったことでしょう。

ところが、それからわずか数ヶ月後の、天正10年(1582)6月2日に、天下を揺るがす大事件『本能寺の変』が起こりますした。

家康にとっても命の危機でした。本能寺の変のとき、家康もわずかな家来を引き連れただけで、堺にいたのです。もしそこを、明智光秀に襲われたらひとたまりもありません。

どうにかして、三河に逃げ帰らなければなりません。この逃避行が、「神君伊賀越え」と後世に言われるものです。

このとき、一緒に逃げた穴山梅雪は、殺されています。それだけ厳しい逃避行でした。

なんとか、三河に逃げ帰ることに成功した家康は、即座に光秀討伐軍を組織し出陣しました。しかし、電光石火で中国から引き返してきた羽柴秀吉が、「山崎の戦いで光秀をすでに討ち取った」との知らせを受けます。

家康は、急遽兵を反転させ甲斐・信濃へ兵を向けました。
信長がいなくなった、甲斐・信濃を少しでも自分のものにしておこうという意図でした。

同じように考えて甲斐・信濃に進軍してきた北条氏政・氏直親子と戦いとなりました。しかし、41歳の働き盛り、脂がのりきった家康は、外交戦略を駆使して、娘の徳姫を氏直に嫁がせるなどして、北条氏と同盟を結びました。

そして最終的には甲斐・信濃の二か国とも、家康の領土とすることに成功します。
「狸親父め」、「食えない奴じゃ」
北条親子は、そう思ったことでしょう。

家康は、「「駿河・遠江・三河」に「甲斐・信濃」を加え、五か国の大大名となりました。

秀吉に臣従する

光秀を討った秀吉は、織田家の重臣の柴田勝家賤ヶ岳の戦い(天正11年(1583))で破り、信長の後継者としての立場を固めていきました。

それに対して家康は、信長の二男信勝と組んで、秀吉との直接対決に打って出ました。天正12年(1584)、家康43歳の時に起きた「小牧・長久手の戦い」です。

この戦いの後、家康は秀吉に臣従することになります。そして、豊臣秀吉の政権下で、家康は五大老の一人となりました。

NHK「どうする家康より」

天下分け目の関ヶ原

秀吉は、慶長3年(1598)8月18日に息を引き取りました。

このころ家康は、豊臣政権下で五大老の一人として政権の中枢にいました。そのころの家康は、石高250万石とも、255万石とも言われています。五大老の二番手、三番手の毛利輝元や上杉景勝が、ともに120万石なので、家康は、五大老の中でも圧倒的な力をもっていた、ということになります。

秀吉は、亡くなる直前の8月5日に、五大老宛の遺言状で「秀頼を頼む」と、依頼してます。

これに対し、「家康は密かに『天下は、力ある者の回りもち』という考えを持つようになっていた」わけです。
石田三成は、豊臣秀頼への政権委譲、つまり「天下は、豊臣世襲」と考えていたわけですから、いずれぶつからざるを得ません。

そしていよいよ、秀吉没後の慶長5年(1600)、家康59歳の時、関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍を破ります。

3年後、家康62歳の慶長8年(1603)、征夷大将軍に任命され、ついに「徳川幕府」を開きました。

ですが、わずか2年後の慶長10年(1605)、家康は64歳で将軍職を子の秀忠に譲ってしまいます。そして、自らは「大御所」として、実質的にはトップの位置に留まり続け、大阪夏・冬の陣を先導し、豊臣氏を滅亡させました。

石田三成を演じる中村七之助(ヤフーニュースより)

家康が、わずか2年で将軍職を退いたことの意義

家康が、2年で将軍職を退いたことは、どのような意義があったのでしょうか。家康が将軍職を退いたとき、三成たちは、「やられた!」と思ったはずです。

というのは、「家康が将軍職を退き、2代秀忠にその職を譲ったことで、将軍職は豊臣の世襲」だ、と言うことを天下に示したことになるからです。

これは、言うならば大阪方への最後通牒でもありました。
三成たちは、「こうなったら、家康を叩き潰すしか無い」と思ったことでしょう。家康の思わく通りに…。

こうして、時代は大阪の陣へ向かって突き進んでいきます。
慶長19年(1614)11月の冬の陣。そして、翌慶長20年・元和元年(1615)5月の夏の陣で、豊臣家は滅びました。

徳川の天下を確定した大坂夏の陣の翌年、元和2年(1616)4月17日、駿府城で家康は最後の時を迎えました。享年75歳でした。

家康の評価

織田がつき 羽柴がこねし天下餅 すわりしままに食うは徳川
という狂歌があります。まるで、徳川は苦労もしないで天下を手に入れたかのような歌ですが、これは正しくないですね。

確かに、織田信長や豊臣秀吉の先行の足固めはありましたが、おそらく信長や秀吉が天下を手に入れたとしても、家康のように260年の平和の礎を築くのは難しかったでしょう。

「江戸幕府」を築くまでの家康の「道」は、それこそ苦難の連続でした。そして、関ヶ原の戦いや大阪の陣は、日の本から戦を無くすための戦いでした。

家康は、長く続いた戦国の世に終止符を打った人物でした。さらに、その平和を維持する制度の基礎を創り上げた人物でもありました。

これにより、260年の平和の時が訪れました。

家康が築いた平和の世、江戸時代は、人々が安心して生活できる世の中になります。おかげで、江戸時代前半に人口が急増しています。

江戸時代前半の人口増加は、農業生産力の向上、疾病の減少、食料の安定供給などが背景にあるとされ、それらは家康がもたらした平和の恩恵でした。

家康の通信簿

「決断力 ー5」
「統率力 ー5」
「教養  ー5」
「経済感覚ー5」
「構想力 ー5」

【『徳川15代の通信簿』における筆者小和田哲男氏の評価による】

戦国時代を生き残り、最後に天下を取った人物なのだから、オール5は適切だと思います。
なかには、「どうする家康」にあるように「決断力の乏しい人物」として、家康を見る方もいるでしょう。

「三方ヶ原の家康を見ろよ、まさに『どうする家康』だろう。決断力などないでしょう」と。
しかし、三方ヶ原で信玄を素通りさせ、信長を殺されてしまったとしたら、徳川も滅んでいました。

本来は、信玄の罠にはまるとしても、城を打って出て信玄を追撃しなければ、家康は「詰み」だったのです。
31歳の若気の至りではなく、三方ヶ原の決断も、「家康の決断力の表れの一つだった」と思います。

三方ヶ原の激戦のみならず、その他の数々の修羅場を切り抜けられたのは、単なる運だけではなく、家康の通信簿のとおりの、優れた決断力、統率力、構想力が発揮されたからです。

私は、小和田氏の評価に納得できますが、あなたはどうでしょうか。

結論:徳川家康の不滅の影響力

徳川家康は、日本の歴史において、最も偉大な指導者の一人です。彼は、日本を統一し、安定と繁栄を築くことに成功し、日本の文化や社会に深い影響を与えました。

信長や、秀吉のような華々しさは、確かに薄いかもしれません。このあたりが、彼の人気を下げているようです。

しかし彼の業績は、日本の歴史を変え、日本の文化や社会に深い影響を与えました。彼が築いた政治、軍事、文化的基盤は、今でも日本社会に影響を与え続けています。

人物の「好き・嫌い」は別にして、家康の残した業績は、最高評価を与えて称えられるべきでしょう。

人の一生は 重荷を負うて 遠き道を行くが如し

家康が言ったとされる言葉です。
本当に言ったかどうかは別にして、いかにも家康らしい言葉です。

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