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本能寺の変:なぜ裏切った!光秀の後ろには黒幕がいた説

本能寺の信長の死は、光秀にとって想定外。本能寺の変の黒幕は信忠擁立を図る家臣団と、朝廷一派の共闘による「信長隠棲」を目指すクーデターだった。

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目次

本能寺の変には、黒幕がいた

光秀は 信長をなぜ裏切ったのか

光秀個人が、信長を殺したのではない。
信長を隠棲(幽閉)させ、嫡子信忠に家督を譲らせるために結託した家臣団と、朝廷のおもだった公家たちによるクーデターだった。
信長の死は誤算であり、本来は隠棲(幽閉)させることが目的であった。

これが、この本の趣旨。

明智光秀ほどの頭のよい武将が、合理的な計算をしたら「本能寺の変の単独犯行」は絶対にない、と感じる人は多いはず。
私も、そうだなあ。でも合理的な説明・解説で納得させてくれる説はなかなか見つからない。

その中で、斎藤忠氏の『天正10年の史料だけが腫らす明智光秀の冤罪:光秀は信長を殺してはいない』は、そこそこ納得できる説なので、紹介してみる。

本能寺の変のあらまし

通説に従うなら、信長の重臣である明智光秀が天下統一を目前としていた織田信長の宿所である京都本能寺を攻め、死に至らしめた謀叛。

その日は、天正 10年(旧暦)6月2日 、西暦で言えば 1582年7月1日。
光秀は、居城である丹波国(京都の北西部の山がちな場所の亀山城を出た。
京都盆地に入り、街道の分岐点で山陽道へ向かう道をとらず、京都へ向かうことを選択し、光秀は「敵は本能寺にあり」と家来たちに向かって叫ぶ。

その時の明智勢は一説に兵 1万 3000。光秀が謀反を起こし、本能寺に押し寄せたと聞くと、信長は「是非に及ばず」と言ったという。

信長は、寝間着のまま自ら縁先に出て、森蘭丸(乱丸)ら近習及など供回りの者約 100人で応戦すした。
しかし、多勢に無勢。やがて信長は炎の中で自害することとなった。
光秀は、すぐさま信長の嫡男で跡継ぎの信忠のいる二条御所も襲い、嫡男の信忠も討ちとる。

京都の異変をいち早く知った羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、備中(岡山県岡山市)から〝中国大返し〟を実施する。
電光石火の大返しの後、山崎の合戦で、秀吉は光秀を討ち取る。

これにより秀吉時代の幕が上がる。

光秀は、信長をなぜ裏切ったのか

明智光秀

光秀は、なぜ信長を裏切ったのだろうか。
歴代の大河ドラマでは、光秀が「備中攻めの任を解かれ、家康の接待役に回されたことへの不満」だとか、「人前で叱責され額を割られた事への不満」などの説が映像化されていた。

だが、「麒麟が来る」以後は、

光秀は、信長だけには天下を取らせたくなかったのだと思います。信長は、叡山を焼き、多くの僧を斬った。戦に勝てば、敵軍の女・子供・年寄など関係のない人まで斬りすぎた。父親の代からの家臣を、勝手に首にした。(いずれは我が身)
信長は、天下を取る力はあるが、治める力は無いと判断したのではないでしょうか? 天下を取れば、苦しむのは家臣と民衆、そんな国にはしたくないと思ったのでしょう。裏切り者のレッテルを貼られた光秀ですが、裏切り者でなく、国の為の謀反だったと思います。

ヤフー知恵袋より

 上記のように、「信長の人間性への不信感」だとする考えが多くなったようだ。

その中で、注目したいのは、近年見つかった資料を根拠とする
『光秀(惟任)は、信長を殺していなかった』とする説。

その中でも、ジャーナリスト斉藤忠氏の「天正10年の史料だけが晴らす 明智光秀の冤罪」は新視点として説得力がある。

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