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徳川秀忠てどんな人、【二代将軍秀忠の評価】

徳川秀忠の業績を探る、日本史の旅に出かけましょう。将軍として権力を握り、武士の時代に多大な影響を与えた彼の名声と歴史的意義にまつわる謎を解き明かすのが、この探検の目的です。徳川秀忠の評価と日本史への貢献の謎を解き明かし、彼の評価とその意味するところを明らかにします。この暗号を解くことで、この封建的なリーダーの真の価値と、彼が国家形成に及ぼした大きな影響を発見することができます。歴史愛好家であれ、単に過去の秘密に興味がある人であれ、この魅力的な旅は、徳川秀忠とその不朽の遺産をより深く理解させることでしょう。「秀忠に通信簿を付けるとすれば、どう評価するか」を念頭に起きつつ、隠された真実を解き明かし、この尊敬すべき歴史上の人物の魅惑的な物語に没頭してください。

目次

徳川秀忠の生涯と背景

秀忠誕生

秀忠(ひでただ)は、家康の三男として生まれました。母は、家康の側室「於愛の方(西郷の局)」。
幼名は、「長松(ちょうまつ)・さらに『長丸』とも呼ばれる」。

長松が生まれた年(天正7年・1579)に、家康の嫡男であった信康(のぶやす)が切腹しています。家康38歳のときでした。

次男は、秀康(幼名は於義伊(於義丸 / 義伊丸 / 義伊松))でしたが、秀康は家康から疎まれていたため、三男でありながら、秀忠が徳川の跡継ぎとなります。

そこで、長松(長丸)は代々徳川家の跡取りに与えられる幼名の「竹千代」に改名しています。

12歳の時に、秀吉と対面し秀吉から「秀」の字を賜って「秀忠」と名乗ることになります。

小牧・長久手の戦いの後の、秀康の役割

天正12年(1584)に小牧・長久手の戦いがありました。長松が5歳の時でした。

小牧・長久手の戦いというのは、信長の死後、「織田家の政権を奪ってしまおう」とする羽柴秀吉に対して、信長の次男の信勝と家康が手を組んで、秀吉の野望を食い止めようとした戦いでした。

細かい戦いを見ると、家康・信勝連合が勝ったこともありますが、全体的に見ると「秀吉の優勢勝ち」という結果で終了しました。

この戦いの後、家康と秀吉は手を結ぶことになります。

家康と秀吉の間の「講和交渉」の中で、家康は次男の秀康を養子という名の人質として、秀吉の元に送りました。

本来なら、人質は、「その家の跡取り」が出されます。ですから、後の秀忠が「徳川の跡取り」だったなら、次男の「秀康」ではなく、三男でありながら実質嫡男扱いだった「秀忠」が出されたはずです。

もしかしたら、この時点では、秀康が嫡男の位置にいたのでしょうか。それとも、秀忠は嫡男だけれど、家康の三男であることは間違いないので、

「秀康は、次男なのだから嫡男だと言っても嘘とは言い切れまい。仮に秀康が殺されることになっても、損失は少ない。」そう思ったのでしょうか。

それとも、この時点では「秀康が嫡男扱い」だったのでしょうか。
とりあえず、なぜ秀康が秀吉に養子に出されたのかは、「なぞ」です。

家康は、なぜ三男の秀忠を嫡男(跡継ぎ)としたのか

ところで、なぜ家康の後継者は次男「秀康」ではなく、三男「秀忠」なのでしょうか。

この兄弟の差は、二人の母の懐妊の状況が原因だったと思われます。

三男「秀忠」の母、於愛の方(西郷の局)は、家康の正式な側室でした。
正式な側室、つまり、「他の男性と接触が無い」状態で秀忠を解任します。

次男「秀康」の母は、於萬の方は、家康の正室の築山殿の侍女でした。
その侍女に、家康の手が付いて懐妊して生まれたのが「秀康」でした。

つまり、まだ側室になっていない状態で懐妊しているので、
「秀康は必ずしも家康の子と、断定できない」
と、考えられたのです。

秀康の幼名は、於義丸 (おぎまる)と言いました。この名前は、生まれたばかりのこの子の顔が、「ギギ」というオコゼのような魚に似ていたから」だと言います。

生まれながらにして、ちょっと差別的な名付けですね。
対して、三男秀忠は、徳川家の歴代の嫡男が名乗った「竹千代」という幼名を与えられます。

秀忠と、秀康の間には、幼年時代から確固とした差があったのです。

結局、秀吉に人質として送られるが・・・!

天正18年(1590)、秀吉は北条氏の小田原を攻めました。

家康は、苦境に立たされました。
このころ家康は、秀吉の妹の朝日姫を娶り、自分の母まで差し出した秀吉に屈しきれず秀吉の配下となっていました。

しかし、秀吉に臣従する少し前までは、秀吉に敵対する小田原の北条氏と同盟関係にあったのです。

信長の死で、空白地帯となった甲斐・信濃に、家康は攻め込みました。天正10年(1582)のことです。
そのとき北条氏は徳川と同じように、甲斐・信濃に攻め込んできました。

当然、徳川と北条は戦いになりました。そのとき、家康は自分の娘の徳姫を、北条氏直に娶せます。

氏直と徳姫の結婚で、徳川と北条は同盟を結ぶことになったのです。

家康と、秀吉の同盟と
家康と、北条氏政・氏直親子との同盟

家康は、この二つの同盟の間で、苦境に立たされます。
同盟者の秀吉が、もう一方の同盟者の北条氏を攻めると言うのです。

さて、「どうする、家康」

家康は、秀吉とともに北条氏攻めを決断します。

家康が「秀吉に従う」と決断した、と言っても秀吉はおいそれと家康を信じないでしょう。
では、家康はどうしたでしょうか。

なんと、嫡子長丸(この頃は、長丸と言っていました)を、秀吉の元に人質として送ったのでした。

長丸が、秀吉の元に送られたのは、天正18年(1590)の正月13日のことでした。
長丸は、その翌々日の15日に、聚楽第で秀吉に会いました。

このとき、秀吉は長丸を元服させて、秀吉の「秀」の字を与え「秀忠」と名乗らせました。秀忠12歳。
確かに、少し早めの元服(成人)でしたが、異例というほどのことでもありません。

秀吉、度量の広さを見せる

秀吉は、家康の子に自らの名から「秀」の一字を与え、さらに秀忠を家康の元に送り返したのです。

「家康、わしゃあお前を信用してるよ」

『どうだ、儂は度量が広いじゃろ』

秀吉の、したり顔が見えるようです。
秀吉にここまでされては、家康は逆らえません。
まさに「人たらし」、です。

こうして秀吉は、この年(1590年)の3月1日に北条を攻めるるために進軍を開始します。
家康も、秀忠を伴って参戦しました。

秀忠の初陣でした。

秀忠、関東方面の経営を任される

家康は秀吉の臣下となり、天正18年(1590)に秀吉に従って小田原攻めに参加します。北条氏を滅ぼした秀吉は、家康に江戸への移封命令を出しました。
それにより、家康は江戸城を居城とし、町づくりをすることになります。

しかし、家康自身は秀吉に従っているので、上方に身を置くことが多くなります。
そこで、秀忠を江戸に残し関東方面の経営は、秀忠に任されることになりました。

ということで、実際に江戸の町づくりを行ったのは、若い秀忠でした。

秀忠、嫁を娶る

文禄4年(1595)、秀忠は、秀吉の側室の淀殿の妹の「於江(おごう)」と結婚しました。秀忠17歳のことでした。

秀忠にとっては初婚でしたが、相手のお江さんは何と6歳も年上で、三度目の結婚でした。
よく、テレビドラマで「お江に頭の上がらない秀忠」という構図で描かれることがあります。

秀忠とお江の間、にこれだけの年齢差・結婚歴の経験差があっては「さもありなん」と思えます。

なぜ、秀忠は6歳も年上で、二度も結婚歴がある、出戻りの姫を娶らなければならなかったのか

お江は、信長が滅ぼした浅井長政の三女です。

長女の茶々は、秀吉の側室の淀殿です。

次女の「はつ)」は、京極高次の正室となっていました。

お江は、最初の結婚で、尾張大野城主の佐治一成に嫁ぎました。しかし、秀吉の命令で離縁させられます。
次は、秀吉の養子の羽柴秀勝に嫁がされました。

秀勝とは、死別します。

そこで、秀吉は、お江を自分の養女にし、秀忠に嫁がせたのでした。

秀吉にすれば、自分の跡継ぎの母である淀殿の妹を、徳川家に嫁がせれば、徳川家とのつながりをより強めることが出来ます。

例え、年齢が6歳も植であろうが、三度目の結婚であろうが、秀吉の力が家康(徳川家)を圧倒的に上回っている現状では、「いやだ」などとは言えません。

ということで、秀忠はお江を正室として迎えたのでした。

ちょっと脱線
お江と秀忠の間にはなかなか男子が生まれず、女子ばかり産まれていました。しかし、お江が怖い秀忠は側室を持たなかったとされています。
でも、本当はお江に隠れて男子を産んでいます。
1601年には、長丸(自分の幼名と同じなですね)を得ます。また於静の方にも保科正之を産ませています。

秀忠の、武将としての力量

秀康の初陣は、先に示したように天正18年(1590)の秀吉の小田原攻めのときでした。しかし、当然ながらまだ幼い秀忠には、これといった手柄はありませんでした。

文禄の役・慶長の役のときは、出陣せずに江戸の留守居役でした。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦い

秀忠が、武将として出陣したのは、22歳になった年の関ヶ原の戦いのとき、ということになります。

このときまで家康も、秀忠が武将としてどの程度できるのか、分からなかったでしょう。

秀忠は、関ヶ原の時、全軍を率いて会津の上杉景時攻めに出陣しました。慶長5年(1600)年の7月19日のことでした。秀忠の会津上杉攻めは、石田三成を挙兵させる、誘い水でもありました。

三成は、まんまと家康の策にはまり、伏見城鳥居元忠らを攻めました。

そこで家康は、下野の小山で「このまま上杉を攻めるか、それとも戻って三成を攻めるか」を、付き従う豊臣恩顧の福島正則たちに図りました。いわゆる小山評定です。

評定の結果、家康は豊臣恩顧の者たちに、光秀を攻める先発隊となることを命じました。

一方、上杉景勝の動きを封じ、会津から動けないようにする役目を任されたのは、秀忠ではなく秀康でした。

家康は、武将としては秀忠より秀康の方が上、と判断したのです。

秀忠の大遅刻

小山評定の後、家康は江戸城に戻りました。
一方、秀忠は中山道を通り西に向かいました。9月1日には、軽井沢に到着しています。

ところが、秀忠はそこから進路を変え小諸に向かいました。真田氏の上田城を攻めるのが目的でした。

真田昌幸と、その子信之信繁幸村)兄弟は、当初会津攻めに従軍するために小山の近くの犬伏まで来ていました。

犬伏とは、現在の栃木県佐野市です。小山市の隣です。そこに、石田三成からの密書が届けられました。

真田家は、家内会議の結果、昌幸と信繁(幸村)は、三成の求めに応じて西軍に属することを決めます。
そして信之は、そのまま東軍の徳川方に属すという、親子・兄弟が別々の陣営に分かれる決断をするのでした。

有名な、「犬伏の別れ」です。

なぜ信之は東軍に属したのかというと、妻が家康の重臣、本多忠勝の娘だったからです。

このようにして、真田氏は二つに分かれ、昌幸、信繁(幸村)親子は、上田城に戻ってしまいました。
秀忠としては、「真田氏を潰しておかないと、後がやっかいだ。」と思ったのでしょう。

「自分たちは、3万8千の大軍だ。上田城の真田などすぐに落とせる。」という、軽い気持ちで、上田城に向かったのでしょう。

秀忠軍には、真田信之がいました。秀忠は、信之に父昌幸と弟信繁(幸村)に開城勧告をさせました。すると、昌幸がそれに応じてきたのです。

『やはり、上田城を落とすなど簡単では無いか』
秀忠は、そう思ったかもしれません。

しかし、昌幸の行動は、単なる時間稼ぎでした。

秀忠は、城を明け渡させるために使者を送って、講和交渉を行いました。しかし、城を明け渡す記などさらさらない昌幸との交渉は、物別れに終わります。

いらだった秀忠は、上田城を攻めます。
「上田城など、儂の3万5千の軍で攻めればすぐに落とせる。」そう考えていたでしょう。
9月5日に攻撃を始め、6日、7日、8日…。城は落ちません。

秀忠は、城攻めをとうとうあきらめます。
中山道にもどって、上方へ兵を進める決定をしました。

中山道から、諏訪、木曽谷を通るルートで、西に向けて進軍を再開しました。

秀忠が、木曽谷あたりにいた9月15日、関ヶ原の合戦が勃発していました。
天下分け目の関ヶ原に、徳川秀忠は大遅刻したのでした。

家康、秀忠の面会を許さず

関ヶ原の合戦の結果は、みなさんご存じの通り家康の勝利で幕を閉じました。
戦に勝ったとはいえ、戦に大遅刻をした跡継ぎの秀忠をおいそれと許すことが出来ませんでした。家康はその後しばらく、秀忠が面会を求めてきても、面会を許しませんでした。

御実紀(台徳院殿御実紀)によると、秀忠に従軍していた榊原康政が、家康に事の次第を説明し、秀忠を弁護したことで、やっと家康の怒りが収まったと伝わります。

この「秀忠関ヶ原遅参」の逸話を聞くと、『秀忠は、たいした人物では無かったな』と思ってしまいます。
ですが、彼の評価は、もうちょっと彼を知ってからにしてください。

家康、大御所として君臨しつづける

慶長10年(1605)の3月21日、秀忠は10万の大軍を率いて伏見に到着しました。そして、4月7日、家康は将軍職を秀忠に譲ることを朝廷に願い出ます。

その許可は、4月16日におりました。これにより、秀忠は2代将軍となったのです。秀忠27歳、家康64歳のことで、家康が将軍になってから、わずか2年の将軍交代でした。

家康がわずか2年で、将軍を秀忠に譲った理由とは

なぜ、家康はたったの2年で権力の座を息子の秀忠に譲ってしまったのでしょうか。

よく言われるのは、「政権の徳川家世襲を、天下に示した」ということです。

関ヶ原の戦いで勝利したとはいえ、この段階では、大阪に豊臣秀吉の遺児、秀頼が残っています。「家康も歳だし、家康が死んだ後は、政権は秀頼に戻されるはずだ」と、考える人も多かったでしょう。

このように考える人々に対し、「今後、政権は徳川家が代々世襲していく」こと、「豊臣に政権を返すことは無い」ということを示した訳です。

二元政治で、秀忠の経験値を高める

家康は、将軍職を秀忠に譲った後、駿府城に入ります。そこで、大御所となったのでした。

「大御所として、朝廷の管理下から離れて自由な存在となり、実質的には将軍の上に位置して政治を行う」これが、家康の考えだったのかもしれません。

「駿府に大御所家康がいて、江戸に将軍秀忠がいる」

この二人三脚態勢によって、しばらくの間幕府政治が行われることになりました。このツートップ態勢を普通「二元政治」と呼びます。

ですが、実際は頭が二つあるわけでは無く、幕府の首脳部は、あくまで駿府の大御所家康でした。頭である家康が考えたことを実行に移すのが、江戸の将軍秀忠、という仕組です。

大阪討伐を決めたのは、家康

「江戸幕府を安定させるためには、大阪の秀頼をなんとかしなくてはならない」
大御所家康も、将軍秀忠もそう考えたでしょう。

しかし、「秀忠を殺す」という決断は、「主殺し」「身内殺し」の汚名を切ることでもあります。家康は、この汚名を秀忠に負わせないようにするため、自らがそれを行うことを決断します。

この家康の決断により、大阪冬の陣・夏の陣を経て、徳川政権は安定します。

ここまでの秀忠は、「万事、大御所様の成すがままに」と、一切秀忠色を表に出すことはありませんでした。

秀忠、豹変する

大阪の陣で豊臣を滅ぼし、徳川政権を安定させた直後の元和2年4月17日、家康は亡くなります。
すると、それまで全てにおいて控えめだった秀忠が豹変するのです。

秀忠は、家康死後強烈な政治を行い始めます。

秀忠が行った、幕府安定のための施策

秀忠による、大名再配置政策 【弟、六男「松平忠輝」改易など】

家康ですら手が付けられなかった徳川家の腫れ物を、切開手術してしまったのです。

これにより、例え「徳川一門であっても、幕府政治にマイナスに作用する勢力は取り除かれる」というルールを、天下に示しました。

秀忠の政権下で改易された有力外様大名は、福島正則を始め23家の大名に及びました。
徳川一門や譜代大名でさえ、16家が取り潰されています。

秀忠の振るった大長刀で、近世幕藩体制骨格が出来上がったと言えます。

秀忠は、ただ有力勢力を取り潰しただけではありません。
例えば、弟の10男頼宣を紀州和歌山に封じるなど、新たな譜代大名を据えて、幕藩態勢の強化を図りました。

家康死後の、大々的な大名再配置政策によって、幕藩体制の基礎が確立されたのです。
大名再配置政策は、学校でも「家康の業績」と教えられがちですが、違います。

これは、2代秀忠の業績なのです。

秀忠による、幕府組織の確立

その他、秀忠の業績として見逃していけないのは、「幕府組織として、『老職』後の老中を定めた」ことです。

家康統治の時期は、家康との個人的なつながりを重視した、「側近政治」だった、と言えます。
それに対して、秀忠は「幕府の政治機構」の中に位置づけていきました。

秀忠の、海外貿易政策

秀忠は、元和9年(1623)7月に、将軍職を子の家光に譲っています。
つまり、大御所家康の死が1616年、家光に将軍職を譲ったのが1623年とすると、「秀忠が幕府の頂点に立てたのは、わずか8年間だったのか」と、考える人もいるかもしれません。

しかし、家光に将軍職を譲った後も、家康と同じように大御所として、実質的なブレーン・権力者は秀忠でした。このことを、忘れてはいけません。

江戸時代260年の平和の礎を築くことになる貿易統制も、実は秀忠の功績です。
寛永元年(1624)に、江戸城の西の丸に移った後、秀忠は貿易統制に乗り出したのでした。

寛永8年(1631)に、それまでの、朱印船貿易方式を、奉書船貿易に切り替えます。これにより、キリスト教の禁止が徹底されました。また、日本人が渡航できるのは奉書船に限られることになりました。

寛永8年(1631)の時の将軍は、3代家光です。しかし、実際に貿易のやり方を変えたのは、大御所の秀忠でした。

このあたりも、誤解が多いところです。単純に、「家光の時代の事だから家光がやったのだろう」と考えたら、大間違いです。

秀忠の死

「奉書船貿易」により、貿易統制システムを作り上げた次の年の、寛永9年(1632)正月24日、秀忠は江戸城で没します。享年54歳でした。

まとめ 徳川秀忠の通信簿

秀忠は、確かに戦国時代の戦国武将としての力量は、不足していました。
戦では、大きなミスも犯しています。

それにもかかわらず、家康が秀忠を2代将軍にしたのは、なぜでしょうか。

家康は、戦の無い世では「武勇一点張りでは、国が治められない」ということを、良く知っていたのでしょう。
そして、秀忠には、「武勇以外の、平和の世で役立つ才能がある」と見こんでいたのではないでしょうか。

家康が生きている間は、実に従順に「万事、大御所様の成すがままに」という姿勢を貫いています。

しかし、家康が亡くなるがいなや、決断力をもって、大なたを振るい江戸時代260年の礎を築いていったのです。創業者家康の陰に隠れ、目立たない2代目という印象を人々に与える「秀忠」ですが、戦国から平和の時代への切り替えの時期に、秀忠ならではの才能を発揮しました。

さて、この秀忠について、「徳川15代の通信簿」の作者小和田哲男氏は、どのような評価を下しているでしょうか。

小和田哲男氏による『秀忠の通信簿』

決断力 ー3
統率力 ー3
教 養 ー4
経済感覚ー3
構想力 ー3

これは、低すぎでは無いでしょうか。
決断力が人並みの3だとしたら、家康が出来なかった「忠輝の改易」も「福島正則の改易」も出来なかったでしょう。

私は、家康死後の秀忠は、「決断力ー5」と評価します。
ただし、江戸幕府成立以前は、確かに「決断力ー3」です。よって、トータルして「4」

同じ理由で、統率力と、構想力も家康死後は「5」、トータル「4」

よって、私の評価は、

決断力 ー4
統率力 -4
教 養 ー4
経済感覚ー4
構想力 ー4

です。
あなたは、どう評価しますか。

ちなみに、
江戸の町をつくったのは家康ということになっていますが、家康はほとんど江戸にいませんでした。そこで実質、江戸の町づくりの責任を担ったのは、秀忠でした。

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