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持統天皇が【歴大遷宮】を止め、永代の都「藤原宮」を造営し、伊勢神宮の【式年遷宮】を始めたのは、なぜか

伊勢神宮の式年遷宮を始めたのは持統天皇「どうして式年遷宮を始めたのか。」それまで天皇が代替わりするごとに都を変えていたのを止め、永代の都の造営を始めたのは天武・持統天皇「どうして永代の都の造営を始めたのか。」明治天皇が伊勢神宮を参拝するまで一人も参拝しなかった伊勢神宮をたった一人参拝した持統天皇「どうして持統天皇は伊勢神宮を参拝したのか。」
これらの政策は、持統天皇の優れた政治力による。

目次

古代から代わらない伊勢神宮というのは本当か

「悠久」の伊勢神宮
伊勢神宮は、古代からその姿を一切変えていないと信じる人も多い。
「今建っている敷地の隣に、寸分違わない土地が用意されており、20年に一度、これも寸分違わず新しい社殿が建てられる。」

 だが、実際は違う。
 目の前に、古い社殿があるにもかかわらず、新しい社殿の床面積を拡張する。
 柱を太くする。
 飾り金を増やす。豪華にする。社殿の配列を変える。
 このような変更が、意図的に加えられていた。

 ただし、これらの修正は、明治時代半ばにおこなわれた式年遷宮以降、古来の形に戻されている。

式年遷宮とは何か

式年遷宮はいつから始まったか

式年遷宮」という言葉は、遠い昔から存在していた言葉かというと、そうではない。文献に始めてみられるのは「南北朝時代後醍醐天皇の吉野行宮:1337年~後亀山天皇後小松天皇への譲位の時:1392年)」だ。

つまり、

「式年遷宮」という言葉が一般化したのは、14世紀。

式年遷宮の「式年」とは何か

「式年遷宮」「式年」とは、「延喜式」の「式」を指している。
つまり、「延喜式」に定められた「年(年月)」のことを指す。

延喜式は、菅原道真を追い落とした藤原時平が醍醐天皇の命令を受けて作り始めた法律(律令)の施行規則のようなもの。
905年延喜5年)、から編纂を始めたが、時平は途中で死んでしまったので、弟の藤原忠平が編纂を引き継いだ。『弘仁式』『貞観式』とその後の式を取捨編集し、完成は927年延長5年)。
その後修正を々、施行は、なんと40年後の967年康保4年)。

ここに式年遷宮が定められたので、10世紀には「式年遷宮」の概念はあった。

延喜式が定まる前から 式年遷宮は 存在した

式年遷宮の記録は、「持統天皇」の代から始まっている。
持統天皇の即位は、持統天皇の4年(西暦690年)。持統天皇は、即位の時に伊勢神宮の遷宮を行っている。

式年遷宮の始まりは、7世紀

ということになる。
すでに、式年遷宮を行っていたので、延喜式を作ったときに改めて「式年」を明記して定めたということになる。

ちなみに、伊勢神宮には内宮と外宮がある。それぞれの式年遷宮の年は違っている。
ここでは、古代の内宮の遷宮についてのみ記しておく。

古代の伊勢神宮 内宮の遷宮はいつ行われたか

第1回 持統  690年
第2回 元明  709年
第3回 聖武  729年
第4回 聖武  747年
第5回 称徳  766年
第6回 桓武  785年
第7回 桓武  792年
第8回 嵯峨  810年

古代の式年遷宮は、20年に一度ではなく19年に一度だった。第3回の聖武の時は20年になっているが、この前年に聖武の皇子が病没している。そのために、1年延期して20年になっているが、次の代4回目で修正されている。

つまり、古代では、数えで20年実質19年に一度で行われている。
これが、数えではなく満で20年で計算されるようになるのは、江戸時代になってからだ。
だが、戦国時代など120年近く式年遷宮そのものが途絶えたり、いろいろな事情で式年の年が守られないこともあったので、実際は、臨機応変に行われていたと見てよいと思う。

伊勢神宮だけではない その他の神社の式年遷宮

式年遷宮を行っているのは、伊勢神社だけではない。奈良時代や平安時代になると住吉大社(大阪)・香取神宮(千葉)・鹿島神宮(茨城)の三社でも、式年遷宮が行われるようになった。

そして、平安後期までには諏訪神社宇佐神宮貫前神社下鴨神社などなど他の多くの神社でも、式年遷宮が行われるようになる。
だが、春日大社はやや遅く、中世14世紀以降になってから始まったようだ。

遷宮から随破修理へ

だが、古代や中世は財政難の時代でもある。現実に即し、全面的な遷宮ではなく、壊れたか所だけ修理する「随破修理」の制度に多くの神社は移行している。

日本後紀 812年 神祇官通達
「住吉、香取、鹿嶋の三社では従来、20年おきにすべて造り替えるのが長年のしきたりとなっているが、弊害が少なくない。今後、正殿以外は破損の状況に応じて修理を行うこと」

多くの神社が、随破修理に移行したのに、伊勢神宮のみは、「式年遷宮」を守り通した。
伊勢神宮は、式年遷宮出なければならない理由があった。
その理由については、後段で触れる。

なぜ建て替え前提でつくるのか

「なぜ、伊勢神宮は式年遷宮でなければならなかったのか」を考える前に、
伊勢神宮は、どのような構造で建てられているのかを知る必要がある。

伊勢神宮は、「建て替えを前提」に造られている。
掘立柱の上に、茅葺きの屋根が載っている構造になっている。

敷石を引かず、土中にそのまま柱が立っている。
当然、腐る。
また、屋根は茅葺きなので、20年に一度は、吹き替えが必要になるのは当たり前だ。

伊勢神宮は、そもそもこのような構造なので、建て替えなければ長くは持たない。
では、第1回の持統天皇の遷宮の時に、掘立柱と茅葺きの技術しか無かったのかと言えば、そんなことはない。
690年代には、すでに多くの伽藍建築物が建立されている。飛鳥寺や、建築中だった法隆寺など、その後1000以上ももつ建築物がたくさん建っている。

腐らずに1000以上も立ち続ける建築技術を持ちながら、持統はあえてすぐに腐る構造で伊勢神宮を造り直した。

なぜ式年遷宮が行われるようになったのか

面白い事実がある。

事実1 【歴大遷宮】
天武・持統天皇以前は、天皇(大王)が代替わりするごとに新しい場所に、新しい都を造営していた。

事実2 【都の定着】
天武・持統天皇以後は、悠久の都を営むようになった。

事実3 【式年遷宮】
伊勢神宮の式年遷宮は、持統天皇から始まった。

持統天皇のときに、なぜ都の歴代遷宮を止めたのか

持統の夫、天武天皇の代に至るまでは、歴代の天皇(大王)が代替わりするごとに、新しい王宮を造営していた。そして、その都は、後の伊勢神宮と同じように掘立柱を使用していた。

なぜ、「代替わりするごとに都を変えるのか」については、古来より謎とされている。
「死の穢れ」を避けるため、「父と子が別居することが習わし」であったため、など諸説ある。
有力なのは、

新都の「造営」自体に意味があった。

とする説だろう。
大和王権時代は、王権が安定していなかった。自分の次は、自分の子が王権を継承するとは限らない。
兄弟、叔父・甥、いとこ、などなど不確定。

そこで、新しく王位についた政権は、前政権の流れを払拭するためにも、新都造営が必要だった。
だが、壬申の乱を勝ち抜き、それまでの中央勢力を一新した天武・持統王朝の時に、王権は安定した。

これまでの不安定要素を拭い去るには、どうすればよいか。
この政権が、正統であり、悠久であることを示す必要がある。

そのためには、代替わりごとに遷都するのではなく、
「都はここですよ」と、安定した都、代々続く都を造営する必要がある。

そこで生み出された都が、永代の都「藤原京」だった。
これにより、都の歴大遷宮の歴史は終わり、その後の平城京・平安京など永代の都の時代に移る。

代わりに、伊勢神宮の式年遷宮が始まる。

持統天皇は、なぜ「伊勢神宮の式年遷宮」を始めたのか

天武・持統朝の王権が定まると、持統はそれまでふらふらしていた都を永代の都として造営した。
だが、そうなると今まで都を新しくすることで、取り込んできた神道的な「皇室の清浄さ」、「新しい命の再生」をどこで行えばよいのか。

持統は、皇祖神を祀る伊勢に目を付けただろう。
天武・持統朝は、皇統の正統な流れを汲んでいることを証明する場所が必要だった。それこそが伊勢神宮だった。

だが、おそらくそのときの伊勢神宮は、朽ち果てていたろう。
そこで、都の歴大遷宮に代わり、伊勢の地で式年遷宮を行うこととする。これにより「皇室の正統と清浄、再生」を願えるし、それを下々にアピールできる。

持統天皇は、そうお考えになったのではないだろうか。
ちなみに、「天皇という呼称がいつから始まったのか」について、諸説ある中で、天武・持統朝からだとする説がある。
王権が定まる天武・持統朝なので、なるほどと思う説だ。

さらに、古事記日本書紀編纂も、天武・持統の命令による。

なぜ、明治天皇まで、伊勢神宮を参拝した天皇が、持統天皇だけだったのか

遷(うつ)らない都、藤原京を造営し、
古事記や日本書紀の編纂を命じ、
伊勢神宮が式年ごとに遷(うつ)る制度を整えたのか。

明治天皇が参拝するまでの間、歴代天皇の中で、唯一持統天皇のみ自ら伊勢神宮を参拝したのはなぜか。

🔶皇室の安定を願い、それを創り出した。そして、それを恒久的に維持するための施策として、施策を実施した。

天武・持統の王権が定まり、名実ともに天皇中心の世の中を作り出した。
その政権を内外に知らせ、維持するために永代の都「藤原京」を造った。
皇室の正当性を強固にするために歴史書を作った。
皇室の永遠の清浄を内外に知らせ、願うために伊勢神宮の式年遷宮の制度を確立した。
自らの皇室安定計画に巻き込んだアマテラス大御神に対しては、どうしても自ら伊勢神宮を訪れ、皇祖神を祀る必要があった。

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