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日本史上屈指の暗君と言われる『足利義政』とは、どんな人だったか

室町幕府、8代将軍が足利義政。
銀閣寺を建てた将軍として有名だが、この将軍は、ころころと意見を変えてしまうことで有名な将軍だった。

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日本史上屈指の暗君:足利義政

室町幕府も、江戸幕府も同じ15代まで続いている。

だが、室町幕府の将軍は、初代の尊氏を除いたら、3代の義満と8代の義政くらいしか知られていないだろう。

3代義満が、金閣寺に代表される北山文化を築き、対して8代義政は、銀閣寺に代表される東山文化の中心とされる。

文化的には有名だが、政治的には日本史上屈指の暗君とされる人物。

義政のプロフィール

室町幕府第六代将軍・義教(よしのり)の次男。

兄が早くに亡くなり、跡継ぎとなった。

宝徳元年(1449年)元服すると同時に第8代将軍となった。

寬正5年(1464年)、弟の義視(よしみ)を養子として、跡継ぎと定めた。

だが翌年に、実子として義尚(よしひさ)が生まれる。

すると、跡継ぎを義視ぁら実子の義尚に変更してしまう。

これが原因の一つとなって応仁の乱が起こる。

文明5年(1473年)、義尚に将軍職を譲り、東山に隠居する。

延徳元年(1489年)、義尚が死んでしまったので、一時政務に戻ったが、翌年に病死する。

第10代将軍職には、義視の息子の義稙(よしたね)が就任した。

応仁の乱と義政

応仁の乱は、応仁元年(1,467年)に始まり、終結が文明9年1477年。

多くの教科書に、「応仁の乱後の時代を戦国時代という」と書かれている。

この応仁の乱は、将軍を支えるべき三管領の一つである畠山氏の継嗣問題、さらに同じく三管領の斯波氏、そして将軍家自体の継嗣問題などが複雑に絡み合って起こる。

義政の跡継ぎ問題で、まず弟の足利義視を後継者とした。

しかし、妻の日野富子義尚(よしひさ)を産み、富子に『自分の子を跡継ぎにしてくれ』と頼まれると、ころっと態度を変えてしまう。

これにより義視との軋轢が生じて応仁の乱が起こった。

応仁の乱は、義政の優柔不断が招いた乱だったとも言える。

足利義政

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