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維新の源流としての水戸学NO8(会沢正志斎の新論)

本日のポイント!

  • 会沢正志斎の新論が幕末の人々の心を揺さぶった
  • 磯浜の異国船事件
目次

はじめに

 社会科教師OBの尚爺と申します。

 「水戸学ってどんな学問」をハテナとして、
 水戸学について考えてきました。今回は第8回目となります。

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 本日も、『西尾幹二先生の「GHQ焚書図書開封11 維新の源流としての水戸学」(徳間書店)』を読み進めます。

GHQ焚書図書開封11: 維新の源流としての水戸学

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新論について

会沢正志斉の新論

会沢正志斎とはどのような人物か

会沢正志斉

 会沢正志斎は、藤田幽谷の弟子でした。幽谷の子である藤田東湖と共に後期水戸学の中心人物です。水戸藩大9代藩主の斉昭(敬三郎)も幽谷に学びました。
 この3人が生まれたのは、

会沢正志斎・・・1782年

・徳川斉昭・・・・1800年

・藤田東湖・・・・1806年

 ちなみに、斉昭が第9代藩主になったのは1829年(文政12年)のことでした。

会沢正志斎の新論には、どのようなことが書かれていたか

 ある世界百科事典には新論について以下のように説明されています。

《後期水戸学の大成者会沢正志斎の主著。 一八二五年(文政八)成稿。幕末における内外の危機、とくに対外的危機を克服するために書かれたが、西洋の脅威は直接的な軍事的侵略ではなくて、キリスト教の浸透や通商に伴う民心の動揺、離反に焦点をおいてとらえられるため、西洋諸国は卑しむべき夷狄であり、接近してくれば打ち払うべきだと強調される。それどころか、意図的に攘夷を鼓吹することによって、民心を結集することすらがねらわれている》。

 このように説明されています。

 ハッキリ言ってピント来ません。

新論が書かれたのはいつで、広まったのはいつ

 新論は1825年に書かれています。出来上がった当時は、藩主斉脩(なりのぶ)によって、公刊を差し止められていました。 「これは危険思想だ、こんなことを打ち出したら水戸藩が危うくなる。」そう感じたのかもしれません。 
しかし、斉昭が藩主となってからも公刊はされませんでした。
 公行が許されたのは、1857年のことです。

 ペリー来航が1853年のことですから、いよいよ世の中が騒然としてきてやっと公行が許されました。
 しかし、ちょっとわからないのは、斉昭が藩主となってもなぜ公刊されなかったのかという点です。
 ちょっと不思議です。

 おそらく、公刊は許されなかったが、憂国の志士たちが自ら写本し、次々と読み手が広がっていったので、取り立てて公刊する必要がなかったということなのではないかと推察します。
 本当のところは私にはわかりません。

会沢正志斎が新論を書いた1825年とは

諸外国の日本への接近(維新の源流としての水戸学より)

 1825年に幕府は、外国船打払令を出します。

 その1年前が、「大津浜事件」です。北茨城に出現したイギリス船に対し、藤田幽谷が、息子東湖に「命を捨てて打ち果たしてこい」と命じたあの事件です。
 さらにその1年前、大洗磯浜の沖に異国船が現れました。
 このような時期に新論は書かれたのです。

 大洗沖の異国船事件について

 脱線になりますが、大洗の事件ですので触れないわけにはいきません。

 以下大洗町誌を引用します。

文政に入るとますます情勢は深刻となる。文政5年(1822年)5月に領内遠沖へ異国船が現れ「(続水戸紀年)」文政6年(1823)5月にも、川尻・平磯・磯浜の漁船が異国船に乗り込む(「続水戸紀年」)など、異国人との遭遇が現実のものとなった。また同年6月9日には、祝町の海上5町(約550メートル)ほど沖に武装した捕鯨船が現れ、平磯の漁船が乗り移ったが、この時は藩兵が多数出動し50匁砲20挺、100匁砲10挺が湊に配備された。(「続水戸紀年」)
そして文政7年(1824)5月28日に大津浜へ英国人12名が上陸した事件は、特に大きな衝撃を領内に与えたが、その直後、磯浜の1里ほどの沖合にも異国船が現れ、村民たちにも大きな動揺が起こった。(「磯浜誌」)
 こうした状態の中で、藩は、文政8年(1825)5月24日に小泉伝三郎、佐野七郎兵衛を海岸防御鉄砲指引に任命し、小泉を磯浜、佐野を川尻担当とした。(「続水戸紀年」)(「磯浜誌」)は、この年「海岸防衛役が1日に二人ずつ海岸を巡視した」ときしている。そして、同年6月には、眺望の良い磯浜権現台に夷船防御のための官舎が建てられ「望詳館」と号し(「磯浜誌」)

〜徳川斉昭は、天保4年(1833)に就藩するとすぐに、自ら湊・大洗地方の海岸を訪れ、遠見番所より視察するなどしていたが(「常陸日記」7月には、湊か磯浜へ山野辺氏の館を築き、その辺りに山野部氏の知行地をひとまとめにして、海防の任務にあたらせるという計画を発表した。(「水戸市史」)〜北方海岸が良いとのことで助川(  日立市)に決まった。

 〜磯浜の防備も手薄にはできないとのことで、天保5年(1834)〜磯浜日下ヶ塚にも、 これまでの防衛に加えて「海防差引役」という藩士を派遣することにした。
〜天保13年(1842)海防差引役は廃され、先手同心頭が定詰、つまり土着させられることになり、ここに本格的な「海防陣屋」が誕生することになった。    (大洗町誌より)

海防陣屋跡地周辺から海を望む
安政2年に現れた異国船

 大洗町誌を読むと、当時の混乱ぶりが感じられる。海からの危機が現実に迫っていることを現地に住む人たちも肌で感じたことだろう。

新論には何が書かれていたのか 

 幽谷と東湖の大津浜に関する出来事を幽谷の弟子である正志斎が知らなかったとは思えない。
 日本国を取り巻く現状に、師である幽谷父子が死を覚悟したのと同じように、相沢も命を削る思いで新論を書き上げたのだと思う。
 新論は次のような構成になっている

國體(国体)上・中・下

・形勢

・虜情

・守禦(しゅぎょ)

・長計

 国体というのは、日本の国の在りようです。

 形成というのは、政界情勢の分析です。

 虜情というのは、外国が日本を食い物にしたくてうずうずしている状況の説明です。
 守禦というのは、どうすれば日本の国を守れるかの説明です。国防論ですね。
 長計は、国体そのものを見直す、長期的な展望です。

 このような構成になっています。

国体について

謹んで考えてみるに、
「神州」すなわちわが国は太陽の昇る国であり、
「元氣」すなわち万物の根本となる気がはじまるところである。
「天日之嗣」すなわち天皇は「世々宸極を御し」、
続いて万世一系、一貫してこれは変わることがない。

天皇は大地全体の元首であり、
わが国の天皇政治はすべての国の「綱紀」
すなわち規範である。天皇の御威光は世界を照らし、
「皇化」つまり天皇のご影響が行きわたるところに遠
い近いの違いはない。

 ところが、「西荒の蠻夷」
つまり西洋諸国は、「脛足の賤を以て」、
賤しい身でありながら、世界を股にかけて荒らし回っている。
彼らは「眇視跛履」すなわち見方・やり方が間違っているから、
あえて「上國」すなわち日本を凌ごうとする。
どうして彼らはこれほどまでに驕り高ぶっているのか、と。」

 「日本国は、日の本、元気の本であり、万世一系の天皇がシラス国である」 と日本の国体について説明しています。
 また夷狄の国がやりたい放題にやっていると現状を憤っています。

「形勢」について

則ち東の勢に似たる者あり(説明・なかなか国力があるように見える)。
熱馬ゼルマン(説明・ドイツ)は西洋の諸蕃(説明・ヨーロッパ各国)より之を視れば、
然れども、宇內(説明・世界全体)より之を大觀すれば、則ち宗周のあるにあらず
(説明・周の最盛期のような尊厳はもっていない)。

故に爾言ふ(説明・それゆえに、以上のようにいったのだ)。 而して 神州(説明・日本)は滿淸(説明・満洲や清国)の東にあること、なほ燕の齊と趙とに蔽はるゝが如し(説明・燕という国が斉と趙を緩衝国としていたのと似ている)。然れども今は四邊(説明・いま日本の周囲の海は)皆、賊衝(説明・外国勢力の通路になっている)なれば、

則ち亦、燕の獨り兵を受けざるが如くなること能はずして(説明・燕が敵から攻められなかったのとは事情が異なり)、周の韓と魏との郊にある如き者あり(説明・韓と魏の近隣にあった周のようなものだ)。且つ佛郞察フランス・伊斯把イスパニア・諳厄利アンゲリヤ諸國の如き(説明・東アジアに進出しているフランスなどの諸国は)、其の奉ずるの法(説明・宗教)は皆、(説明・日本を狙っている)鄂羅(説明・ロシア)と同じ。

 つまり、日本を取り巻く情勢は緊迫しています、ということ。

 大洗や大津浜と同じように異国船の脅威を感じた人は、早くから、遅い人でもペリー来航のころから、ロシアだけで無く、西洋の国々も日本をねらっている、ということがじっかんされたことでしょう。
 孝明天皇も、新論を一冊献じられ、大変に喜んでこれを読み、世界の情勢を知ったとあります。

 人々の目を開かせる本でした。

虜情について

 外国は、日本と違っていますよ。 
日本のような儒教を尊ぶ国ではですよ。
 やりたい放題やりますよ
 とにかく日本の情と、外国の情の在り方が違うのです。

 というような危機感あふれる内容が書かれています。 

 ただし、「キリスト教への危機感などちょっと偏見がすぎるのではないかな」と現代人の目線から見ると、思えなくもないのですが・・。
 もしかすると相沢正志斎は分かっていて書いていたのかも知れません。

守禦(しゅぎょ)について

 国防について書かれています。ここで目を引いたのは、正志斎が、
 「国(人々)がまだ戦うぞという気持ちをきちっともっていない」と指摘していることです。
 武力による現状変更を試みるのは戦争です。

 しかし、武力による現状変更を仕掛けられた場合、それを防ぐために武力を用いるのは戦争ではありません。防衛です。 ロシアは戦争を仕掛けていますが、ウクライナは戦争ではありません。防衛です。

 正志斎が言っているのは、「戦争を仕掛けろ」ということではなく、「防衛するという心構えが日本人にはまで出来ていない」という嘆きだったのではないかと思います。

長計について

 長期的な展望に立って、国をどうすればよいのか、その方策をいろいろ考えていこうということです。
 正志斎(水戸学)は、本来「名分を正す」ことが根本です。

 新論の中でも、「ゆるんでしまった封建体制を引き締める」ととれる部分もあります。
 しかし、名分論でいけば、倒幕は悪のはずだし、下の身分の者が、上の身分の上級武士に変わって政治を行うのは悪のはずです。

 論理に自己矛盾があるように感じるところもありますが、それは現代人の感覚なのでしょう。
 遠い未来を見ながら国体をどうすれば良いのかを示します。つまり「尊皇」となるところは矛盾がありません。

終わりに

当時の多くの人がこの新論を読むことで、心をたぎらせたようです。
「俺は明日からたばこを止める。そして本を読み刀技を磨き日本国のために頑張る」
こういう人もいたといいます。

 

会沢正志斉

 本日もありがとうございました。

 

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