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「え!?」草薙剣とは別の剣を三種の神器としたって本当

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南朝の正当性、三種の神器のうちの宝剣はそもそもニセモノ?

 水戸学では、三大特筆と呼ばれるものがあります。「神功皇后を天皇として扱うか」「大友皇子を天皇として扱うか」「南北朝のうち、南朝を正統、北朝を閏統とするか」という問題です。

 この3つの大課題のうちの「南朝正統論」について、水戸学ではその根拠を「三種の神器をもっていたのが南朝だから」という点を上げています。
 しかし、宝剣は平家滅亡の時に壇ノ浦で安徳天皇とともに海中に沈んで行方不明になったはずです。光圀は草薙剣が南朝にないことを知らないはずがありません。
 ではどうして 水戸学は「無いはず」のことを根拠に「南朝正統」を主張したのでしょうか。
 大疑問、大ハテナです。
 このハテナを、『奪われた「三種の神器」皇位継承の中世史(講談社現代新書)』から追究してみましょう。

「え!?」草薙剣とは別の剣を宝剣としたって 本当

 結論から言いますと、壇ノ浦で失われた草薙剣をあきらめ、別の剣を宝剣としていたのです。
「え!?、本当?、それでいいの。」
 と思わず「・・・。」の気持ちになりますが、

  寿永2年(1183年)に伊勢神宮の祭主大中臣親俊(おおなかとみのちかとし)が後白河に贈った剣を宝剣としたのでした。
 この剣は「神宮御剣」と言われているそうです。

神宮御剣が三種の神器の一つとなるまでの経緯

海中に没した宝剣

元暦2年(寿永4年・1185年)3月24日、敗戦色濃くなた平家軍を見て、二位尼(清盛の妻時子、安徳天皇の祖母)が宝剣を持って入水した。同じく按察局(あぜちのつぼね)が8歳の安徳を抱えて入水した。(吾妻鏡による)
神璽(勾玉)や鏡は、どうなったかというと、幸いにも神璽は海上に浮かんでいるところを見つけられた。また鏡もどうにか救い出された。
二つの神器は見つかったが、宝剣は海底に沈んで、その後懸命の探索にもかかわらず見つけ出すことは出来なかった、とあります。

国家的プロジェクトとしての宝剣探索

 後鳥羽ら朝廷は、執念で宝剣を探し出そうとしました。国家的なプロジェクトとして、「吉記」の元暦2年(1185年)5月6日の条には、22社の神社で祈りが捧げらた様子が記録されています。翌年には、12社、翌々年には、7社と数は減っていきますが毎年執り行われていました。
その後も、後鳥羽の宝剣探しの執念は衰えず、27年後の建暦2年(1212年)5月に、藤原秀能(ひでよし)を派遣して、最後の宝剣探しをしました。しかし、宝剣はついに見つかりませんでした。

宝剣の代わりを創る

 宝剣探しは、実は文治5年(1189年)にひとまず打ち切られています。
後鳥羽たち朝廷は、法家(法律の専門家)にどうすれば良いかを検討させました。
文治6年(1190年)正月3日に後鳥羽の元服の行事が執り行われることになりました。このときに、宝剣が必要となります。そこで、どうしたかと言いますと、「昼御座(ひのおまし)の剣」を宝剣の代用とすることに決定したのでした。
この代用宝剣は、その後も使われ建久9年(1198年)の土御門天皇の践祚、承元(じょうげん)4年(1210年)順徳天皇の践祚の時にも、この剣が使われました。

代用宝剣は、いつまで使われたのか

 承元4年(1210年)11月、順徳天皇が伊勢神宮奉幣使を派遣するため、神宮官庁へ行幸する時がありました。この時をねらい、後鳥羽上皇は一つの名案を思いつきます。
 その名案とは、
 寿永2年(1183年)に伊勢神宮祭主、大中臣親俊(ちかとし)が後白河に贈った剣を神器として採用する、という案でした。
 後鳥羽の提案は、朝議にかけられ満場一致で可決されたのです。この剣が「神宮御剣」でした。

新たな宝剣、しかし・・・

 1210年に、公的には新たな宝剣が確定しました。しかし、その2年後に後鳥羽は最後の宝剣探しを壇ノ浦で行っています。どうしても、宝剣なしに自分は天皇になったというコンプレックスを拭い去ることが出来なかったのだと思います。

 「神宮御剣」は「准宝剣」と言われることもありますが、現実には「宝剣」そのものでした。朝廷内部では、由緒と合意形成によって「神宮御剣」は草薙剣と不変のもの、「神器不変」という論理を貫徹しました。これによって、三種の神器としての宝剣問題は一応決着を見ることになりました。
 しかし、この論理が許されるなら、北朝方の二条良基の屁理屈「三種の神器が天下のどこかにあれば、朝廷にあるのと同じ」「宝剣は「分身」で、宮中にあるのと同じ」も許されてしまう気がします。
 光圀が判断したように、「神宮御剣」が「新たな分身」よって、南朝の持つ宝剣は本物、というところがぎりぎりの線でしょう。

結論として

 海中に失われた草薙剣に代わり、新たに「神宮御剣」が宝剣となった。
 南北朝時代、その宝剣を有していたのは南朝方だった。よって、光圀の言うとおり、大義名分から言えば「南朝正統」は妥当ということになる、そう言って良いでしょう。

 

 

 

 

 

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