奪われた「三種の神器」 皇位継承の中世史 (講談社現代新書)
- 作者:渡邊大門
- 講談社
水戸学はどうして南朝を正統とするのか
南北朝時代 三種の神器は南朝・北朝のどちらが持っていたのか
南北朝時代の始まり
そもそも,南北朝時代はどのようにはじまったのでしょうか。
後嵯峨法王の後,天皇を誰にするかという問題が生じました。
後深草天皇(持明院統→北朝)と亀山天皇(大覚寺統→南朝)のどちらの皇統が継承するかという問題です。
なぜ,天皇になることに必死になるかと言いますと,多くの中学生は
「名誉の問題」
ととらえる傾向がありました。
確かに,名誉の問題もあるでしょうが,それ以上に「経済」の問題が大きいのです。膨大な収益があがる荘園の掌握権こそが,南北朝それぞれの関心事です。しかし,この点には今は触れません。(いつか触れます。)
今回は,「三種の神器」にのみ焦点をあて,水戸学の三大特筆の一つ「南北朝のどちらが正統か(南北朝正閏問題)」を考えます。
後嵯峨天皇の在位期間は1242年から1246年の概ね4年間になります。ちなみに後嵯峨天皇が崩御されたのは,1274年(文永9年)のことでした。つまり,退位後約30年存命です。お生まれは,1220年(承久2年)でしたので,皇位に疲れたのは,22歳の時。退位は26歳です。
後嵯峨天皇の退位後,大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)のどちらが,後継するかという問題が起こっていました。
この両統は幕府から提案された「両統迭立」案,互いの統派で交代交代に天皇を出すという案でひとまず決着しました。
しばらくの間は,大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)は両統迭立の原則にほぼ従って交互に天皇を出していました。しかし,後醍醐天皇が,両統迭立を一方的に破棄しました。
1321年(元亨元年・げんこう)に即位後,後醍醐は院政を廃止し天皇親政を進める改革を始めたのです。後嵯峨の退位の約80年後のことでした。
後醍醐は践祚したときに有名な北畠親房たちを登用します。
鎌倉幕府滅亡と神器の行方
天皇親政をねらう後醍醐達は,「正中の変」「元弘の変」などで鎌倉幕府の討幕運動を進めました。
しかし,討幕運動がうまくいかず,つかまって隠岐に配流されます。
鎌倉幕府に捕まる前に,後醍醐は三種の神器を携帯して山城国の笠置に逃げました。
三種の神器は,天皇であることの証です。三種の神器が無ければ北朝は,後醍醐に代わる天皇を擁立することはできないと踏んだはずです。
ただし,西園寺公宗の妻の日記「竹むきが記」によると鏡は内侍所に残っていたとあります。
もしかすると,後醍醐が持ち出したのは,「宝剣」と「神璽(勾玉)」だけだったのかもしれません。
北朝方はどう動いたか
後醍醐が,神器を持って逃げ出したことを知った持明院統の後伏見上皇は,素早く対応しました。
後醍醐が逃げ出した約1月後には,光厳天皇(北朝初代)が践祚しています。「後伏見(上皇)→光厳ラインの践祚」はすでに「後白河(上皇)→後鳥羽ラインの践祚の先例」があります。太上天皇の詔があれば,三種の神器がそろっていなくとも践祚できるという特例です。
「剣」については,宝剣となった「神宮御剣」の前に使われていた「昼御座(ひのおまし)の剣」があったので,それを代用したようです。
この時点で,後醍醐は,「先帝」となり,安徳と同じような立場になりました。事実上の「廃帝」です。
光厳天皇の内心はどうだったか
どうやら後鳥羽と同じように,「何かしら体裁が整わない」という気持ちがあったようです。
また,光厳の周りにもその雰囲気がありました。
後醍醐天皇が鎌倉幕府につかまったあと三種の神器はどうなったか
光源天皇が践祚してから十日ほどあと,9月29日に後醍醐は,六波羅探題に捕らえられました。
花園天皇の日記「花園天皇宸記」に剣璽(剣と勾玉)返還の経緯が書かれています。
○10月4日 幕府から剣璽返還の打診
○10月5日 参議ら六波羅に剣璽受け取りに出向く
・検知(剣璽が本物かどうかの確認作業)
※ただし,だれも実物を見た者はいません。本来は天皇ですら見ることが出来ません。それぞれ櫃に入っているのですが,璽の櫃が壊れていて,検知官は璽を見たようでした。もっとも,見ても本物かどうかは分からないですが。
・新しい櫃に剣と璽を納め封
ということで,三種の神器は鎌倉幕府と北朝に渡ったとこになっていました。
南朝の巻き返し
この後,新田義貞や足利尊氏らの活躍で元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が滅びます。
南朝の巻き返しの好機が来ました。
尊氏は,後醍醐を京都に呼び戻します。このとき南朝は三種の神器を取り戻しました。
しかし,後醍醐天皇の建武の新政の「天皇独裁体制」は行き詰まり,後醍醐と尊氏は決別します。
決別後の後醍醐と三種の神器の行方
建武3年(1336年)尊氏が京都を攻撃すると,後醍醐は延暦寺に逃げました。当然三種の神器を持って逃げています。
そんな中,1336年に尊氏が擁立する光明天皇(北朝2代・光厳上皇の弟)が践祚しました。もちろん,三種の神器が無い中での践祚です。
光明 践祚 の 根拠 は、 寿永 の 後鳥羽 や 元弘 の 光 厳 の 例 に ならい、「太上天皇詔」で処置しています。
室町幕府開幕
室町幕府成立後,後醍醐は京都に入り事実上尊氏に幽閉される状態となりました。
さらに,三種の神器も,尊氏達に引き渡すことになります。ところが,江戸中期に成立した史書「続史愚抄」にもあるように,「このとき後醍醐から引き渡された三種の神器が「偽物」であると記されていました。この事実が,大きくクローズ・アップされることになります。
後醍醐出奔
建武3年(1336年)12月21日,後醍醐は楠木一族の護衛のもと,京を後にします。当然三種の神器も携行しました。
このことについて『大乗院日記目録』には,『日本には南北に分かれて,二人の天皇が存在することになった』,とあります。
南北朝時代の幕開けです。
後醍醐天皇がなぜ京を出て吉野へ潜幸したかというと,
『保暦間記(ほうりゃくかんき)』に,北畠顕信(あきのぶ・親房の子)が伊勢で挙兵したことにあるようです。
北畠親房の『神皇正統記』には,『後醍醐が三種の神器をきちっともちだしたことを「誠に奇特の事」であった』と書いています。
後醍醐は逃げるときに,常に神器の携帯を忘れませんでした。
延元4年(1338年),後醍醐は後村上天皇に譲位しました。
後村上天皇の践祚は,「三種の神器」によるものでした。つまり正統な践祚です。特例的な方法で践祚した北朝の光厳や光明さらにその後の北朝方の天皇の践祚に対し,南朝の後村上などは,正統な三種の神器をもって践祚しています。
南朝が継続できたのは,この三種の神器によった訳です。この事実を北畠親房は「誠に奇特の事」と表現したということです。
北畠親房による三種の神器の説明
北畠親房は「神皇正統記」を書きました。
親房が,「神皇正統記」を書き上げたのは,常陸国の小田城や関城で北朝方と戦っている最中です。
親房がすごいのは,戦時中でもあり資料として持っていたのは「皇代記」という記録だけだったということです。
たったこれだけの資料を参考に執筆したのですから,親房のそれまでに蓄えた知識量,学者としての力量が推し量れます。
では神皇正統記には,三種の神器についてどのように書かれているのでしょうか。
親房は,三種の神器の鏡は「正直」,璽は「慈悲」,剣は「知恵(決断)」を象徴しているとします。つまり,天皇が備えていなくてはならない徳目を表すというのです。
この点からも,三種の神器を持たない天皇は「正統」といえないと親房は言います。ですから,北朝の光厳天皇が神器のないままに践祚したことに触れ,「偽ものの天皇」と断じました。
このような論立てで,三種の神器をもつ南朝の後村上天皇こそが正統と主張します。
正平の一統(1351年)
後醍醐天皇が没する頃,南朝は圧倒的に不利な状況にありました。
しかし,事態は急転直下します。
尊氏の弟直義が,尊氏の武将高師直討伐のために兵を挙げるため,南朝に降伏してきたのです。
直義は,兄尊氏と対立したために,南朝と和睦を図ったということです。
この後,一時尊氏と直義は和議を結びました。しかし二人はすぐに決別し,今度は尊氏が南朝に和議を申し入れてきたのです。
このとき尊氏が,南朝方に示した和議の条件は,
○ 光厳,光明の二人の上皇,崇光天皇(北朝3代),皇太弟直仁
(なおひと)親王を河内国東条に移す。(京から出す)
○ 後村上天皇の親政を実現する。
この南朝の巻き返しの動きを「正平の一統」と呼びます。
正平の一統の時の北朝(武家方)の悩みは三種の神器の扱い
正平の一統が実現するまで,北朝も南朝も自分たちこそ,本物の三種の神器をもっていると主張していました。
しかし,洞院公賢(とういんきんかた・藤原公賢)の日記『園太暦(えんたいりゃく)』 の中に,
正平6年(1351年),公賢が北朝の三種の神器を南朝方に差し出すことになりました。そのときに,何と「昼御座(ひるおまし)の剣」や「壺切の剣」までも)南朝に差し出されています。
「壺切の剣」というのは,立太子のときに天皇から授けられる剣です。皇位継承者の証とされる剣です。
北朝方にあった三種の神器(とされるもの)に加え,「昼御座の剣」や「壺切の剣」までも,なぜ南朝方に差し出したのかは不明です。真意までは分かりませんが北朝の光厳天皇は,これらすべてを南朝に差し出すことを了承しています。
全くの推論ですが,光厳天皇の胸の内には,『自分たちは偽りの践祚をしてしまった。偽りは正さなければいけない。』という思いがあったのではないでしょうか。
北朝方にあった神器が南朝に戻ると,南朝方は神楽によって神慮を慰める祭りを行いました。
北朝の神器が偽物だったなら,なぜそこまでしなければならなかったのか不思議ですが,とにもかくにもこの時点で神器は間違いなく南朝の手元にあります。
それでも北朝が正統だと主張する屁理屈とは
正平の一統後,南北朝は正平7年(1352年)に決裂します。あっという間の決裂でした。南朝方は上野の新田氏とともに挙兵し尊氏を攻撃したのです。
尊氏は,再び北朝方に立ち南北朝の和睦は決裂しました。
しかし尊氏には困った問題がありました。北朝方の三人の上皇と直仁親王は京から遠ざけられて射ましたから,尊氏には戴くべき天皇が存在していなかったのです。
そこで,京都にいた尊氏の子,義詮(よしあきら)は,離れ業をやってのけました。
光厳の第二皇子,弥仁王(いやひと・後の後光厳天皇)を践祚させたのです。このような践祚の例は前例として全くありません。
・神器が無い
・神器が無い場合は,「太上天皇の詔」による先例があるが,太上天皇が
一人も居ない。
そこで義詮はどうしたかというと,
継体天皇の践祚を例とする
・「太上天皇の詔」も「三種の神器」も践祚には必要ない
という論理を新たに創り上げます。
北朝方の「三種の神器不要論」ともいうべき論理です。
この論について,二条良基は『永和大嘗会記(えいわだいじょうえきき)』の中で,
○三種の神器が天下のどこかにあれば,朝廷にあるのと同じである。
○神鏡と宝剣は「御代器」「分身」であり,もともと伊勢神宮と熱田神宮にあるのが本来の姿。
神器がどこにあろうが宮中にあるのと変わらない。
・政治さえうまくいっていれば,三種の神器など合っても無くてもかまわないという論
ここまで来ると屁理屈です。屁理屈ですが強引に北朝方の天皇をこの論理で践祚させました。
南北朝合一
明徳3年(1392年)に南北朝を合体させたのは,第3代将軍足利義満です。
南北朝合体の条件は3つ
1 神器を南朝の後亀山から北朝の後小松に「護国の儀」によって譲渡する。
2 皇位継承は,南北朝の交代で行う。
3 南朝廷臣の経済援助のため,諸国国衙領を与える。
後亀山は,この条件を受け入れ,神器を後小松に渡しました。
ただし,宝剣については『綾小路宰相入道記』によると,「宝剣は元暦のときに改訂に沈んでしまったので,三種の神器は,神鏡・神璽・昼御座剣(ひるおまし)である」と記され,宝剣の経緯について触れられています。
これによって,南北朝の合一がなりましたが,私には大きな疑問が残りました。
宝剣は,「昼御座剣」とあることです。宝剣は「神宮御剣」のはずです。
いったい「神宮御剣」はどうしたのでしょうか。
宝剣をまた「昼御座剣」にもどしたのでしょうか。それとも,南朝は,本当の宝剣「神宮御剣」をその後も隠し持ったということでしょうか。
大きな疑問が残りましたが,南北朝合一がなったことで,三種の神器は北朝に渡りました。
水戸学は,このような三種の神器に関わる歴史を捉え,大義名分からして本来は南朝が正統であると主張するわけです。
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