歴史雑感– category –
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『愛子様の天皇可能性を議論せずは、本質外し』の記事、本質がずれてる
「国民の76%が支持する『愛子様、天皇待望論』に従って、『女性天皇』『女系天皇』に目を向けないのは、本当に歴史の枝葉末節だけを見ていて、『本質を見ていない』」ときう主張は正しいのか。皇位継承の『本質論』』について追究する。 -
穎右の母「吉本せい」は、笠置と穎右の結婚、そして妊娠をいつ許したのか?
1943年(昭和18年)ごろ、笠置シヅ子こと亀井静子(ブギウギのスズ子)は運命の人吉本穎右と出会った。二人は翌年の1944年(昭和19年)には結婚する約束が出来ていた。このとき、吉本関係者、とりわけ穎右の母親『吉本せい』は、二人の結婚に反対したとされる。『吉本せい』は、最後まで二人の結婚に反対だったのだろうか。また穎右の子『ヱイ子』は、どうなったのだろうか。 -
美空ひばりデビューのために踏み台にされた悲運の歌姫、ブギウギの「笠置シヅ子」
朝ドラ「ブギウギ」で元気いっぱいの歌声を披露する花田鈴子。この鈴子のモデル笠置シヅ子は、ブギの女王と言われる。一斉を風靡した歌姫笠置シヅ子ではあったが、1957年(昭和32年)に、あっさりと歌手を引退している。シヅ子の引退の陰には「ベビー笠置... -
笠置シヅ子の夫:「吉本穎右との恋」と忘れ形見の 愛娘「ヱイ子」
笠置シヅ子(実名「亀井静子」・ブギウギの「花田鈴子・福来すず子」)の運命の人は、吉本興業の御曹司「吉本穎右(えいすけ)」。二人の間には女の子(ヱイ子)が生まれる。しかし、静子と穎右が一緒に暮らすことが出来たのは、ほんの数ヶ月。正式に結婚することは出来なかった。穎右は、娘のヱイ子が生まれる約一月前この世を去った。このブログでは、ブギウギ花田鈴子のモデル亀井静子(笠置シヅ子)と、吉本穎右の恋の顛末について追究する。 -
紫式部と清少納言ライバルとされた二人の実名は?:本当に実在したのか?
紫式部と言えば「源氏物語」、そして清少納言と言えば「枕草子」。どちらも日本が誇る世界的女流文学家。紫式部は、2024年の大河ドラマの主人公にもなっています。ところで、紫式部の本当の名前は何と言うのでしょうか。また、清少納言の方はどうでしょうか。そもそも、このような優秀な女性が平安時代に本当に実在していたのでしょうか。 -
笠置シヅ子の付き人『小林小夜』のモデルはだれ?:茂木さんという女性?
福来スズ子の元に、東北弁(のような)田舎娘の小林小夜(さよ)さんが押しかける。ポンコツキャラクターだが、ポンコツながらにスズ子を支える付き人。この愛すべき小夜ちゃんの実在のモデルは、誰なのだろうか。 -
笠置シヅ子の二人の先生とは誰?:ブギの女王と女エノケンと呼ばれた?
笠置シヅ子の芸能界での輝かしいキャリアの裏には、二人の名伯楽(人を見抜く力のある人物)の力が存在していました。一人は音楽の名手「服部良一」。もう一人は喜劇の巨星「榎本健一(通称エノケン)」です。本記事では、これらの二人が笠置に与えた影響と、彼女がなぜ「ブギの女王」と同時に「女エノケン」と呼ばれるようになったのかを探ります。 -
確執は本当か:笠置シズ子のブギの時代から、ひばりの哀愁の時代へ
時代は笠置シズ子のブギからひばりの哀愁の時代へ。戦後の混乱期を経て日本は連合国の占領から解放。シヅ子も新たなスタートを切り心弾ませていました。しかし、この新たな時代は笠置にとって苦難の始まりでもあったのです。美空ひばりの成功により、ブギの女王から日本的哀愁の時代への回帰が始まりました。福島通人や旗一兵の影響でひばりの時代は確立されましたが、ひばりの成功は、笠置の衰退の始まりでもあります。笠置とひばり、音楽史に深く刻まれた二人の歌の足跡と、確執の真相を追いましょう。 -
『ブギウギ』五木ひろきマネジャーのモデルは、2人いる
1941年、「笠置シズ子(この時は、シズ子)とその楽団」を結成。だが、わずか3年数か月の1944年に、楽団のマネジャー中島信が笠置に無断で楽団を他の興行師へ転売してしまう。その結果「笠置シズ子とその楽団」は解散し、笠置は場当たり的な興行生活を余儀... -
スズ子は梅吉と本当の親子になれた:史実の笠置は、音吉の墓もつくる
「わては寂しい。飲んべえで働きもせんと、情けのうてだらしない、何の役にもたたへんお父ちゃんやけど、寂しい。」というすず子。それに対して、梅吉は、「決まってるやろ。親子やからや。当たり前やないか」と返す。二人のわだかまりは解け、『ホンマモンの親子』になれた。こうして梅吉は、郷里香川に帰っていった。この先二人は、別々の人生を歩んでいくのだろうか。史実を元に推察する。