ブギウギ、スズ子に恋の季節が訪れる。お相手は、9歳年下の村山愛助(水上恒司)。村山愛助のモデルは、吉本穎右。「ワテより十も下や」と、スズ子が悩むのもよく分かる。穎右は笠置シヅ子(実名「亀井静子」・ブギウギの「花田鈴子・福来すず子」)の夫になるはずだった運命の人。穎右は、吉本興業の御曹司。二人の間には娘(ヱイ子)が生まれる。しかし、静子と穎右が一緒に暮らすことが出来たのは、ほんの数ヶ月。二人は正式には結婚していない。さらに穎右は、娘のヱイ子が生まれる約一月前この世を去ってしまう。このブログでは、ブギウギ花田鈴子のモデル亀井静子(笠置シヅ子)と、吉本穎右の恋の顛末について追究する。
静子と吉本の御曹司、吉本穎右との出会い

笠置シヅ子こと亀井静子が最愛の人となる吉本穎右(えいすけ)に出会ったのは、戦果が烈しくなった1943年(昭和18年)6月28日のことだった。
当時の笠置は、松竹歌劇団が無くなってしまい、意には染まないが、渋々「地方への巡業」や戦時下で増産増産という体制に陥っていた「工場慰問」をして、細々と活動を続けていた。
名古屋への巡業の際、旧知の間柄だった辰巳柳太郎が出演している劇場の楽屋を訪ねた。
笠置はそのとき、先客としてその場にいた眉目秀麗な青年(自伝『歌う自画像』より)に出会う。
ただし、このときは、互いに言葉を交わすことは無かった。
後日、今度は、笠置が出演していた太陽館という劇場に、吉本興業の名古屋主任が先日の眉目秀麗な青年を伴って訪れた。
そして、この青年を、「吉本興行の御曹司で、『笠置の大ファンだ』」と紹介する。
青年は、笠置に緊張した面持ちで、一枚の名刺を差し出し、
「自分は、吉本穎右(えいすけ)と申します。」
と名乗る。



恋の始まり
吉本穎右(えいすけ)が笠置の出演する太陽館を訪れたとき、笠置と穎右は初めて言葉を交わした。
会話の中で、
「明日、大阪に行く用事がある」
と、穎右は笠置に話す。
すると笠置は、
「自分も明日、神戸の相生座(あいおいざ)という劇場に行く予定だから、一緒の汽車で行きましょう。」
と誘った。
穎右は即座にOK。
二人は翌日、同じ汽車に乗る。
約束の日、笠置が名古屋駅に着き穎右を探していると、吉本興業の支配人が来て、
「穎右さんは、もう汽車に乗っていますよ」
と告げた。
笠置は、
「荷物が多いから、穎右さんを呼んできてください。」
と支配人に言う。
支配人は、『荷物持ちなら自分がするのに』と思ったが、考え直して穎右の元へ走り、笠置の言葉を伝える。
穎右は、すぐに笠置の荷物を運ぶためにホームに降りてきた。
会って間もないこの時点で、笠置は何やら穎右を尻に敷いている感じがする…。
さらに穎右は、大阪に行くはずなのに、大阪を通り越して笠置の目的地の神戸まで同行した。
笠置を見送ってから、大阪にとんぼ返りをしている。
献身的に女性に尽くす、初々しい青年の姿がそこにある。



『ワテより十も下や』、吉本穎右との恋を育む
当時、吉本穎右は早稲田の学生。年は20歳。
笠置は、このとき29歳。
穎右は、笠置の9歳年下。
『ワテより十も下や』
ということで初期の二人の関係は、笠置が穎右を弟扱いし、穎右も姉として笠置に甘えるという姉弟的な間柄だったようだ。
穎右が笠置の家に遊び行ったり、
笠置が、穎右の吉本家別宅(東京市ヶ谷に吉本家の別宅があった)に遊びに行ったりしていた。
このころ、笠置の家には、義母うめ(ブギウギ・ツヤのモデル)が病死し、弟八郎(ブギウギ・六郎のモデル)が兵隊に取られて一人になってしまった義父音吉(ブギウギ・梅吉のモデル)が同居していた。
笠置と穎右が姉弟のような間柄だったといっても、同居の家に穎右が来てたのでは音吉としては、居場所に困ったことだろう。
自然の成り行きで二人は、すぐに恋人関係に移行していく。



笠置シヅ子は、知的でハンサムな男性が好み
二人は、もともと一目惚れだったのだろう。
穎右は、わざわざ笠置の楽屋を訪ねるほど笠置が好きだったし、
笠置も最初の出会いから、穎右に荷物運びをさせているし、自分を神戸まで送らせている。
笠置は、知的でハンサムな男性がタイプだったようだ。
松竹歌劇団のときに恋心を抱いた、益田貞信もこのタイプだった。
だから、早稲田の学生で映画俳優かと周囲に思わせる程の眉目秀麗な吉本穎右は、笠置にとって理想の男性だったはずだ。
「9歳年上」という年齢差に多少の壁は感じたかもしれないが、互いの気持ちが前向きなのだから、その壁が崩れるのにそう時間はかからなかった。
二人は、1944年(昭和19年)の暮れに結ばれた。



笠置シヅ子の最も幸せな時期
笠置と穎右が愛を育んだ時期は、日本の歴史上最悪の時期だった。
1944年7月、サイパン島が陥落。
これにより、本土に米国の攻撃が直接及ぶ可能性が高まる。
こうなると、学生と言えども徴兵を免れることはできない。
さらに、そんな時期穎右は当時死の病と恐れられた結核にかかってしまう。
日本が一番苦しかった時期であり、穎右の健康がむしばまれてしまった時期でもあるが、二人にとっては恋が深まる最良の時期だったのかも知れない。



二人の最良の時期は、わずか3年たらず
1944年の暮れから、1946年のわずか3年足らずの期間が二人にとっての愛の時間だった。
1944年、穎右は結核のため喀血(かっけつ)している。
そのために、学徒動員は免除になる。
笠置は、敵性歌手というレッテルを貼られ、歌手としては「地獄だった」と当時を振り返るような不遇を味わっていた。
それにもかかわらず、愛は深まり、二人は結婚を誓う。



数ヶ月の同棲生活
1945年5月25日、東京に大空襲があった。
このとき笠置は、京都で公演中だったので難を逃れることができた。
だが、三軒茶屋の借家は全焼。
さらに財産は全て焼失。
笠置は、無一文となった。
義父の音吉も無事だったが、笠置と一緒にいられなくなり、しかたなく郷里の香川県引田に戻っている。
同じように、市ヶ谷にあった吉本の東京の別宅も焼失している。
そこで、穎右と笠置は、その年の年末まで借家で同棲生活をおくことになった。
二人が一つ屋根の下で暮らすことができたのは、この半年あまりのほんのわずかな時期だけだった。
仕事も少なく、金も無く、健康にも恵まれない夫婦だったが、このわずかな期間は何物にも代えがたい最良の期間だったのではないだろうか。



穎右の死
戦後の1946年(昭和21年)、穎右は早稲田大学を中退し、吉本興業東京支社の社員として働くことになった。
それに伴い、二人の同棲生活は終わりを告げる。
笠置は46年の1月21日に、吉祥寺の服部良一(ブギウギ羽鳥善一のモデル)の家の二階に仮住まいすることになった。
さらにその年の4月には、服部の家を出て、目黒に知り合いの女性を頼って引っ越しをしている。



笠置の妊娠
二人は別々に住むようにはなったが、その間も愛は深まっていった。
その年(46年)の5月の末には、笠置と穎右と、穎右が笠置のために雇った笠置のマネージャーの三人で、箱根に旅行した。
そして46年(昭和21年)10月、笠置は自分が妊娠していることに気付く。



吉本穎右の病
47年(昭和22年)1月、笠置は、世田谷に一軒家を借りて引っ越した。
そこで、穎右が付けてくれたマネージャーと一緒に住む。
このころ、穎右の結核は次第に悪化していった。
穎右は、兵庫県西宮市の実家に戻って療養に専念することになる。
1947年の1月14日、笠置は東京駅で穎右を見送った。
そしてこれが、穎右との永遠の別れとなる。
穎右の死
穎右は、1947年5月19日にこの世を去った。
享年24歳。



出産
穎右の死の知らせは、出産を間近に控え笠置が入院している病院に届いた。
最愛の人を亡くした悲しみ、そして笠置にとって33歳になろうという年の初産なのに、付き添ってくれる身内は一人もいない。
心細かっただろう。
笠置は、穎右が残した浴衣と丹前を探し出し、産院の壁につるしてもらった。
その穎右の丹前と浴衣だけが、このときの笠置の心の支えとなる。
6月1日笠置は、陣痛に襲われる。
笠置は、穎右の浴衣を壁から外してもらい、それをぐっと抱きしめ産みの苦しみに耐えた。
「彼の浴衣を抱きしめると、彼の匂いがして、『自分はひとりぼっちでは無い』と感じられた」
という。
笠置は、女の子を出産した。
ヱイ子と名付けた。



終わりに:「笠置シヅ子」の運命の人、吉本穎右との運命の恋
日本が歴史上最悪の時期を迎えているとき、笠置とその恋人吉本穎右は、ごく短いが最も幸せな時期を迎えていた。
二人は、結婚を誓っていたが、穎右の病死(肺結核)により、その二人の願いは果たせずに終わる。
だが、穎右の死の約一月後、笠置はたった一人で愛娘「ヱイ子」を出産した。
ヱイ子が生まれる前に、父である穎右が死んでしまったため、ヱイ子は私生児として育つ。
笠置の意地
笠置シヅ子こと亀井静子さんは、自分が生まれるとき実の父親は病死していた。
実の母親は、自暴自棄となっていた。生まれたばかりの笠置を育てられず、亀井うめ(ブギウギの花田ツヤ)に託した。
笠置は、その事実を知らずに育つ。
だが、自分がもらい子であることを知ってずいぶん悩んだことだろう。
そして、自分に子が生まれることになったが、その子は全く自分と同じ境遇で生まれることになった。
生まれる前に実の父親(吉本穎右)が病死している。
実母(谷口鳴尾)と同じように、自分も穎右とは結婚できず吉本家の人間にはなっていない。
吉本家からは、笠置の子ヱイ子を引き取る話も出ていたらしい。
だが、笠置はその申し出をガンとして拒んだ。
ヱイ子を自分と同じ境遇にしたくなかったのだろう。
笠置は、女で一人でヱイ子を手放さずに育て上げた。










コメント