2023年5月– date –
- 常陸佐竹氏
鎌倉公方満兼が定めた 関東八屋形(関東八館)とは何か
常陸の佐竹氏と小田氏、下総結城氏と千葉氏、下野の小山氏、宇都宮氏、那須氏、長沼氏(大掾氏を当てることもある)、この八つの家に鎌倉公方満兼は「御屋形」の号を与えます。関東八屋形(八館)です。 - 新聞雑感
「エイリアンみたいなのが取れた」原英莉花、腰のヘルニア手術の終了を報告
原英莉花選手、緊急ヘルニア手術。成功し、リハビリに入った。「25歳までに花を咲かせる」と誓い勝負の年と位置づけた今季だったが、「勝負は次に預け」となった。 - 江戸時代・徳川
「桜田門外の変」の裏話【有村次左衛門哀話】
桜田門外の変で、井伊直弼の首を挙げた有村次左衛門は、変後に自刃して果てた。数えで23歳の短い生涯だった。だがこの次左衛門には、変の前日に仮祝言をあげた妻がいた。桜田門外の裏話哀話。 - 思想史
本居宣長が完成させた『国学』とは、どんな学問
国学の礎を築いた本居宣長は、朱子学の「理」の学問を批判し、日本人的な真心の「妙理」を解いた。 - 江戸時代・徳川
徳川家康の側室お万の方が生んだ、越前宰相結城秀康
『どうする家康』で、湯殿の家康を世話するお万。お万さんの色っぽさが反則級だった。さて、このお万が産んだ子が家康の次男、結城秀康。結城秀康の生涯に焦点をあてて描かれた小説が梓澤要氏の『越前宰相 秀康』。父家康に認められず、不遇に育ちながらも無骨に生きる。最後は越前の宰相として、父にも一目置かれる存在となる。 - 江戸時代・徳川
家康は「三方原で脱糞しなかった」し、「『しかみ像』の絵も描かせなかった」
「三方原の戦い」は、家康最大の危機。武田信玄に手痛い敗北をきし、逃げ帰るときに馬上で脱糞をした。そして、この屈辱を忘れないために、いわゆる「しがみ像」の絵を描いて、常に身近に置いた、という話が伝わる。だが、「どうする家康」の中では「脱糞逸話」は、扱われていない。さてこの話、どっちが本当なのか? - 戦国時代
家康は、「いつ」どういう理由で「松平から徳川」に改姓したのか
1566年、家康は東三河、奥三河を平定し、念願の三河の国統一に成功する。こうなると、家康も官位がほしい。だが、家康が官位を得るには、秘策「松平姓から徳川姓へ改姓してしまおう」作戦が必要となる。はたして、その作戦が必要な理由とは。 - 戦国時代
徳川家康など三河松平一族は、どのような家系の一族か
征夷大将軍になれるのは、源氏の血筋を引くものだけ。では、祖先が諸国を流れる僧であった家康も、源氏の血族だったのだろうか?、三河松平一族とはどんな一族か? - 歴史雑感
鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府の共通点と違い
教科書はすべて幕府という言葉を使っているので、鎌倉幕府も室町幕府も江戸幕府も、似たようなものと錯覚する。だが、 約700年も続いた武家政権下の三つの幕府がすべて同じものであったはずがない。その違いとは? - 日本らしさ
「日本」が「日本」という国号になったのは いつからか
日本が日本になったのはいつか。荒く言って6説ある。① 推古朝説(601~607年ごろ)② 孝徳朝説(大化の改新645年ごろ(③ 斉明朝説(659年ごろ) ④ 天智朝説(670年ごろ)⑤ 7世紀後半説(670年~702年の間)⑥ 8世紀初頭説 ア)文武朝説(702年ごろ)イ)元明朝説(712~720年ごろ) 私個人は、7世紀後半説で天武・持統朝の680年から690年代と考える。
12