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『どうする家康』、「大高城で」「三方原で」「サボる部下に」そして「平和の世が訪れて」

目次

『どうする家康』 用心深いのか、優柔不断なのか

 日本人なら誰でも知る徳川家康は、天下を統一し260年の平和の世である徳川幕府の基礎を築いた人物である。1542年に生まれ、江戸幕府を礎を盤石とし、亡くなる 1616年まで、常に 『石橋をたたいて渡る』と言われ続けた。(一説には『石橋をたたいても渡らない』とも言われたとか。)

 例えば、このようなエピソードがある。
 永禄3年(1560年)織田信長が今川義元を攻めた。いわゆる桶狭間の戦い。家康は、大高城に布陣し今川勢の先鋒として織田軍を攻撃していた。
 しかし、考えられないことが起こる。当主の義元が信長の奇襲にあい、桶狭間で戦死をとげてしまったのだ。

 義元戦死の報は いち早く家康に伝えられた。もし大高城でぐずぐずしていたら、孤立して命を落とす危険もある。
 だが家康は、動かない。その報が伝えられていたにもかかわらずだ。

 ここは義元殿からお預かりした城である 風聞を信じて撤退し もし流言であったら義元殿になんと申し分けをするのか

 と 、家康は考えた。
 命の危機の中、城から動こうとしない。

 そんな折、敵の織田方ではあったが母方の叔父にあたる水野信元が、親戚のよしみで家康を訪ねてきた。そして、直々に義元の戦死を伝える。

「命の危機である。至急大高城から撤退されるべきである。」

と促す。
 しかし家康は、

 叔父といえども 信元殿は織田の人間だ。計略ということも考えておかなければならぬ。

 と言い張り、撤退の命令を出さなかった。
 家康が大高城から撤退したのは、その後 八方手を尽くして情報を集め、完全に義元の死亡が確認されてからのことだった。

大高城訪問記念

 また、このようなエピソードもある。
 家康

「少しも危うきと思うところにて 馬に乗らぬものなり」

 と、言ったという。

  山道や崖など、少しでも『危ないかもしれない』と感じたときには、『必ず馬から下りて歩いた。』と言うのだ。

  また、

『膝を隠すほどの川を徒歩(かち)渡りするに、高尻掲げて渡るは、あまりに用意に過ぎたれど、陥溺の患(かんできのうれい)なし』

『膝の高さほどの川を渡るのに、尻をはしょる必要はないようだが、溺れるよりは用心をするに越したことはない』 

と言うのだ。

 『どうした家康』
 あまりにやりすぎでしょうと、ちょっと突っ込みをいれたくなるが、

 家康の『石橋をたたいて渡る(それでも渡らない)』慎重さは、結果的に260年続く平和の世である江戸幕府を創る。 『猪突猛進することなく、慎重に現状を見定め、用心深く対処することの大切さ』を、家康からは学ぶべきであろう。

『どうした家康』 慎重な家康が、無謀な戦いを挑んので敗れた「三方原の戦い」の後に描かせた自画像

 元亀3年( 1572年)、武田信玄が京都を目指して進軍を開始した。
 武田軍は、総勢35,000人の大勢力である。その武田軍は、徳川家康がいた浜松城を無視して上洛を優先する。

 家康にすれば、自分の家の庭を無断で通られるようなもので、プライドを傷つけられる状況だった。
 さて、慎重な家康はこのとき30歳。現在ならまだまだ若い。しかし、当時としたら脂が乗りきる年齢と言っていいだろう。おそらく戦にも慣れ、『自分はやれる』という、多少の自負心も出てきた時期だったはず。

『どうする家康』
 家康に訪れる『決断の時』の中でも、最大級の『決断の時』の一つだった。
 このとき、徳川勢は8000人。ただし、信長からの援軍が3000 人あったので、合計では、 11,000人ほどの軍勢となった。これでも、武田と比べたら1/3の兵力差である。

 『 戦っても家康に勝ち目はない』
 幸いにも、武田軍は家康など 相手にしていない様子だ。

 さらに、援軍を差し向けた信長は、
 『武田と戦ってはならなぬ』
 と、内密に諸将に命じていた。
 落ち着いて考えれば、『今回は武田軍をやり過ごし、状況の変化の時を待って、 新たに対応を考えるのが最上の策』だ。

 ところが家康は、全軍出陣を命じたのだった。
 『どうした、家康!』
 普段の家康からは、想像しずらい判断。
 おそらく、30歳という微妙な年齢がそうさせたか。

 武田が如何に強大であっても 、この家康を無視する信玄を、このまま上洛させては、儂のプライドが傷つく。

 と、感じていたのではないだろうか
とにかく、徳川軍は出撃した。1572年の三方原の戦いである。

 当然の如く、家康軍は たちまち武田軍に蹴散らされる。家康は命からがら浜松城に逃げ帰る。
 真偽は定かでは無いが、物語として面白いのは、
 「逃げ帰る途中、余りの恐怖で馬上脱糞をし、帰城後に『これは焼き味噌だ』と言った。」という逸話がある。

 家康は、この敗戦を自らの教訓とし、負けたときの自画像を描かせ、その絵を身近に置いて『生涯の戒め』としたという。

徳川美術館:「しかみ像」

 ただでさえ、石橋をたたいて渡る家康だが、戒めを深く心に刻み、なお緻密で『慎重』な武将となるべく、さらに自らを戒めていった。

役目をさぼり、居眠りをする家臣たち。『どうする家康』

 徳川家康が 豊臣秀頼の居城である大阪城を攻めていたときのことである。
 家康の幕舎では豊臣方の夜襲を警戒して、毎夜、近習たち数人に寝ずの番を命じていた。夜を徹して見張りを続け、異常があればいち早く対処する役目だ。

 しかし連日の戦いで、近習たちも疲れきっていた。朝まで起きて監視を続けるという任務を怠り、途中で眠りこけてしまう者が多くなっていた。
 さて、『どうする家康』

 そんなある日の深夜、家康が大声で不寝番の近習を呼ぶ声がする。

『今、鉄砲の音が聞こえなかったか』

『いいえ 聞こえませんでした。』

 近習の一人がそう答える。家康は、ほかの近習にも順番に同じ事を尋ねていった。
 だが、どの者も同じように否定する。

 家康は、次の日の深夜も同じように不寝番を呼びつけた。

『今もまた鉄砲の音がしたようだが。』

と、尋ねる。

『いいえ そのような音は聞こえませんでした。』

 昨晩と同じように、近習たちは次々と答えていく。

『そんなことはない。さては役目を怠って眠り込んでいたのであろう。』


 毎晩のように家康が同じ質問をするので、要領のよい者が

『そういえばさっき、銃声が聞こえたようです。』

 と調子を合わせて言った。
 すると家康は、手文庫から銭を出して、

『うむ、良く知らせてくれた。これからも役目に励むように。』

 と言って、その者に与えた。
 それ以後、不寝番の侍たちは 一睡もせずに 警戒に当たるようになったという。

 実は、最初から銃声などはしなかった。
 不寝番の怠慢を自発的に正すように、家康が仕組んだことだったのだ。

 一歩間違えば、「タヌキ親父」
 と思わないことも無いが、
 『家康の人使いの妙』として伝わる逸話である。

戦争の無い世をつくるには、『どうする家康』

 徳川家康が 征夷大将軍となって江戸幕府の基礎を築いたのは、慶長8年(1603年)である。
 そして、元和元年(1615年)、豊臣方を滅亡に追い込んだ大阪夏の陣を境にして、以後武器は倉にしまって武力を行使しないことを天下に 布告した。

 世に言う『 元和偃武(げんな・えんぶ)』 である。
 『偃武』の『偃』とは、『伏せる』ということで、『偃武』とは、武器を伏せてしまっておくこと。つまり、『武器を使用しない、戦争の無い太平の世が訪れた』ことを意味する。
 『元和の世の平和宣言』が『元和偃武』である。

 そして、家康は、「今後は『武』によらず『文』をもって世を治める」と宣言した。
  この文治の精神は、以後約300年近く続く徳川幕府の基本姿勢となる。

 日本は、なんと17世紀から時の政権が『平和宣言』をしていた。世界にこのような国はないだろう。
 子供に聞かせ、誇りを育てたいエピソードの一つだ。

 こんなエピソードもある。
 ある年 岡崎に豪雨が降り、矢矧大橋が 流出してしまった。
 家康は、すぐに修復するように命じたが、重臣たちは口をそろえて「橋はつくり直さない方が良い」と家康に進言する。

 重臣たちは、

矢矧川は、万一敵が攻め寄せてきた時には、天然の要害となります。 この際、橋をかけるのはやめて、今後は船で往復するのが感銘と存じます。

 というのだ。
 すると家康は、

 戦のことのみを考えて、 往来する 旅人に迷惑をかけてはならない。 早急に橋の工事にかかれ。
 要害というのは 時代によっても人によっても異なるものである。
 私は往来する者に不便をかけて、人の心に要害が生じる事の方を恐れる。

 と、言ったという。

 家康は、庶民の生活安定を旗印とし 慈愛深い政治の実現を目指す。だが同時に平和維持のために、武力を使わせない施策をうつ。諸大名に参勤交代や大名の配置換えを命じるなどして、常に動静を把握し、油断することは無かった。このしたたかな姿勢こそ、平和を築く礎であった。

 武による侵略を、はなからあきらめさせる施策。
 自らの仲間と連携を取りやすい配置。
 そして、文治(教育)。
(経済政策は、苦労したようだ。令和4年12月20日の今日、黒田日銀総裁の一言で一気に600円も株価を下げた。また、首相の決断で、増税が決められ給料アップに赤信号だ。やはり現代も経済では苦労している。)

 閑話休題。
 時代は違っても、家康の施策は、現代でも学ぶべき点が多い。


 なにはともあれ、家康の緻密で慎重な政策によって、平和な世は、実に300年近く続くこととなった。
 次は、日本政府の番だ。
 「どうする岸田首相」
 「どうする、日本」

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