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鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府の共通点と違い

日本人なら誰でも知っている「幕府」という単語。でも、『幕府って何』と改まって尋ねられると、『うん?』と詰まってしまいがち。追い打ちに『鎌倉幕府と室町幕府と江戸幕府はどう違うの?短く説明して。』などと言われたら、「これは困った」となるのでは…。

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鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府の共通点と違い

自分が授業していたときの反省として、「武士の政権」に関する学習で「幕府」という単語は当たり前すぎて、生徒たちにしみじみ解説していなかった。

当然の用語として、シレっと扱った。
「そもそも幕府って何」と、質問された経験も一度もないので、そのままにしてしまっていた。

改めて考えてみると、多くの生徒(日本人)は『武士権力が運営する政府』といったようなイメージを「幕府」という用語にもっていたかもしれない。

それで間違いか、というと間違いではない。
だが、日本史に表れる3つの幕府である鎌倉幕府と室町幕府と江戸幕府は、一言で片付けるには、それぞれ違った性質をもっていた。

まあ、中学校学習指導要領上は、細かく分けて扱う必要は無いのだが、それでもやはり3つの幕府の性質は異なっている。

白河上皇を警護する武官(宮内庁所蔵)

そもそも「幕府」とは何か、「朝廷」と どう違うのか

「『幕府』って何」、いう質問に対する答えとしては、
もともと「幕府」とは、『戦時のときに、大将が部下たちに指令を出す幕で覆われた場所」、というくらいの意味だった。

要するに、朝廷から戦争の総司令官に任命された人が、戦争指揮のために作った野外の指令所のこと。
「場所」を指した「幕府」という言葉が、武士の世になったことで「朝廷の外で、侍のトップが指令を出す組織体」という、態勢・機構を指す言葉になった。

建前的には、朝廷のもとに出先機関としての幕府が存在する。この建前を覆そうとする時期がなかったわけではないが、概ね700年近く幕府が存在する期間が続いた。

日本の国体(国の形)としてすごいのは、
武家の世になってもなお、権威の長としての天皇を頂点とする「朝廷」と、権力の長としての武家の「幕府」が共存したことだ。

武士とは

武士の館(清浄光寺蔵)

中学校の社会科の特徴は、「歴史の大きな流れを捉える」という点にある。
その大きな流れとして、「そもそも、武士って何?」「なんで、歴史に登場してきたの?」という『問い』に答えられるようにする。(理解させる。)

そこで、「武士の登場」の前に、生徒たちは「日本には、公地公民(土地はすべて朝廷のもの)」という時代があったことを学ばせておく。

「天皇中心の世の中」とその崩壊

天皇が権威と権力の両方をもっていた時代、天皇は、「人々に土地を私的に持つこと」を禁じた。天皇を中心とする朝廷は、天皇の権威と権力を保持するために、律令(中国の法律を真似てつくった日本の法律)をつくり政治を行った。(律令体制)

だが、人々がそれで納得するわけがない。
一生懸命働いても、田んぼや畑などの土地が自分の土地じゃあない。おまけに高い税を取られる。働いて得た収穫を大量に取られてしまっては、労働意欲がわくはずがない。

「これじゃあ、やってられねえぜ」と思う人々が増えていく。
朝廷も、これではだめだと思い、律令を変更して、「土地の所有を認める」方向に軌道修正をする。三世一身法や墾田永年私財の法などは、記憶にある方も多いだろう。

やがて律令制はゆるみ、土地の私的所有が認められるようになっていった。

権門勢家の時代(荘園制)

土地私有解禁のせいで、土地を所有したのは、土地に根ざす人々ではない。有力貴族や寺社仏閣などだった。
それらの権威者・権力者が土地を所有して荘園が広まる。

いつの世も、権威・権力のある者が得をしがち。「土地を自分のものにしていいよ」となると、個人より、権威と権力をもつ貴族や神社、お寺などが優位。

有力な貴族・寺社仏閣が土地や人民を私財化し、自分たちは都にいたまま、全国各地の荘園からテナント料みたいな形で「あがり」を徴収した。

貴族の屋敷(久保惣記念美術館蔵)

武士の誕生

「荘園の所有者はだれですか」という「問い」がある。
一見簡単なようなこの「問い」に答えるのは、簡単なようで、実は難しい。

荘園の成立問題にかかわるのだが、ここでは省略してごく荒く言うと、
「現地豪族」などが、「貴族や寺社仏閣」に土地を寄贈する。

「この土地をあなた様の土地にしてください。そして、管理を私に任せてください。」

すると、寄贈された貴族や寺社仏閣は、より位の高いつまり、権威をもつ貴族(例えば藤原氏とか、天皇を退いた院とか)や、寺社仏閣(伊勢神宮とか春日大社とか)に寄贈する。

「現地の権力者」⇒「中央から現地に土着した貴族など」⇒「中央の貴族など」⇒「上皇や、藤原氏のトップなど」(必ずしも単線で構造ではない点には注意)

このようにして、荘園の所有者が二重三重となり、複雑になっていく。
まあ、とにかく最終的な所有者は日本の権威のトップにいるものなので、現地の雄略者は、おいそれと荘園に手を出せなくなる。

このようにして、全国の荘園が、上皇(院)に集中することで、院が力を持つ時代、院政の時代とが訪れる。

だが、権威者たちは、京にいる。
現地の権力者たちは、実質的に自分がその土地を管理しているので、他の権力者間とのいざこざが生じたなら、自力で自分の土地を守らなければならない。
武力で自分が管理する土地を守らなければならなかった。

自前で鎧や刀、槍、弓などを揃え、事があればみんな力を合わせて戦えるよう備えた。
この時代、田を潤すための水問題、土地の帰属問題などなど、イザコザが日常茶飯事化していた。

このようにして、現地豪族の元、武装した農民たちが武士の始まり。
こうなると、それまでは朝廷の権威で全国から招聘していた人々を兵士として組織することが出来なくなった。

そして、朝廷も武士の力に頼らざるを得なくなった。

ただ、勘違いしてはいけないのが、武士の誕生の頃の武士は、あくまで「農民」だということだ。
農民が、自分たちの土地を守るために、場合によっては誰かの土地を奪うために武装したものであり、本質は「農業労働者」だ。

荘園絵図(神護寺蔵)
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