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第5代佐竹秀義、西金砂山城の戦いで頼朝に敗れる

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佐竹氏、頼朝と戦う

安元3年(1177)、平氏討滅を図る鹿ヶ谷事件が起こりました。
事件をいち早く察知した清盛は、逆に白河上皇の執政を禁じ、上皇を政から遠ざけてしまいます。この結果清盛に権力が集中し、平氏の知行国は32国に達しました。全国の地行国数は66国ほどですので、実に全国の半分程度を平氏が占めたことになります。
 しかし、平氏打倒の動きはそれでは止まらず、平氏絶頂期の治承4年(1180)、密かに以仁王が源三位頼政の後ろ盾を得て、平家追悼の宣旨を発したのでした。
 しかし、この二人は初期の段階で敗死してしまいます。

 このあたりは、令和4年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で描かれています。

平家追討に至る頼朝の大まかな軌跡

  •  石橋山合戦での頼朝の敗北
  •  安房への脱出
  •  下総千葉常胤の合力
  •  同じく、上総広常の合力
  •  勢いを増した頼朝軍による富士川の戦い、平維盛軍を大敗させる
  •  鎌倉入り

 本来、勢いのままに京へ攻め上りたい頼朝に対し、本音は佐竹攻略を望む坂東武士達。
 ここからが、佐竹との絡みとなります。

ウィキペディアより

自分の領地を取り戻したい千葉常胤

前のブログで示したように、千葉常胤は相馬御厨を北から進出してきた佐竹氏に奪われた格好になっています。千葉常胤は京へ攻め上るより、本音は「自分の領地を取り戻したい」というところにありました。そこで、まず下総の領地にいた藤原親政を討つために兵を進めます。(源平闘譲録

 さらに、千葉氏だけでなく、上総氏や三浦氏など、常陸北部の佐竹氏に脅威を感じている関東南部の坂東武士は、京に攻め上るより、常陸佐竹氏討伐を主張しました。

頼朝が佐竹討伐を決意した時、佐竹第4代隆義はどこにいたか

 頼朝の挙兵時、佐竹は勢いに満ち「権威境外に及び、郎従国中に満つ」(吾妻鏡)と言われるほどの勢いでした。この時の当主は第4代、佐竹隆義でした。この隆義は、平家に従って京都にいました。京都での役職は大番役です。大番役とは、主として内裏と院御所の警護をする役職です。
 「佐竹に4代隆義がいない今が好機」
 頼朝に従う坂東武者たちは、そう思ったことでしょう。

 南関東の源氏方の武者(平家の血筋の者が主力) 対 北関東の平氏方の常陸源氏佐竹氏

 このようなねじれた構造となりました。
 「吾妻鏡」では、頼朝方の一方的な攻撃で南関東方の勝利として描かれています。

金砂山城の戦い

 治承4年(1180)10月、頼朝勢は坂東武士たちの進言を聞き入れ、鎌倉を発ち常陸に向かいました。11月常陸国府石岡に着くと、頼朝たちは一つの謀略をめぐらします。
 佐竹一族で縁者である上総広常を使者に立て、佐竹氏が頼朝に見参する機会を設定します。佐竹の留守を預かっていたのは5代秀義です。流石に秀義は西金砂山城を出ることはありませんでしたが、隆義の庶兄の太郎忠義は、まんまと上総広常の誘いに乗り、国府石岡に向かいました。常陸に赴いた忠義一行が、国府前の巴川にかかる大谷橋に差し掛かったところ、待っていた頼朝が、忠義一人を橋の中央に招き、忠義はそこで上総広常に殺されたとあります。(吾妻鏡)
 ただし、大谷橋の首塚にある石岡町教育委員会の説明では、大谷橋で討たれたのは佐竹義政となっています。

大矢橋首塚の説明文

 その後、下河辺行平、和田義盛、熊谷直実らが北へ赴き、西金砂山城を攻め立てました。この城は、山奥の天然の要害です。

先日、私も自分の足で登ってみましたが、登って行くだけでも体力を削がれます。攻めずらい城だったでしょう。

西金砂山神社本殿から眼科を見下ろす(尚爺撮影)

佐竹勢は、高い崖の上から大木や岩石を投げ落とすので、頼朝勢はなかなか城に近づけなかったと記録されています。

西金砂神社への参道
西金砂神社への参道②
西金砂神社本殿
西金砂山城跡 
西金砂神社の足元にある城跡 この場所だけ平地 一面の草の原 
(社会科 尚爺撮影)


 この城を落とすために、頼朝たちは、またしても一計を考えだしました。
 5代秀吉の大叔父にあたる佐竹義季(よしすえ・佐竹初代昌義・義光からだと3代昌義の末っ子)に使者を送り、「味方すれば、佐竹の領地の全てを義季に与える」という条件を示したのです。
 義季はこの提案に乗り、城の裏手の間道から広常勢を城内に引き込みました。この義季の裏切りにより、難攻不落のはずの西金砂山城は落城、秀義は命からがら花園山の金剛王院満願寺(廃仏毀釈により、花園神社)に逃げました。

頼朝が、逃げた佐竹秀義をそれ以上追わなかったのはなぜか

 佐竹氏は、奥州藤原氏と深く結びついています。つまり、これ以上追えば秀義は奥州に逃げ込みます。奥州に逃げた秀義を攻めることは、奥州藤原氏と戦をすることになるからです。

この時点で奥州藤原氏と闘う力は頼朝にはまだありません。
 佐竹の「奥州と繋がりを持つ」という政策が秀義の命を救いました。

その後、佐竹秀義や佐竹氏はどうなったのか

戦後、当然ながら佐竹領の奥七郡は没収されました。佐竹の領土は、御家人の宇佐美氏に「多珂郡・佐都東郡」、二階堂氏に「久慈東と西郡)、伊賀氏に「佐都西郡」、大中臣氏に「那珂東・西郡」を与えられました。

三郷を鹿島神宮に寄進

 頼朝は、旧佐竹領のうち、世谷(瀬谷とも・常陸大田)・大窪(日立)・塩浜(日立)の三郷を鹿島神宮に寄進しました。この三郷は、佐竹旧領の東側にあり、塩の道を抑える場所です。塩は生活の生命線です。

この寄進から頼朝と鹿島神宮のかかわりが深まります。

相馬御厨の処遇

 相馬御厨は、千葉常胤に与えられました。頼朝の佐竹討伐の元々の原因は、千葉氏の相馬御厨奪還にあったようなものですから、「常胤はしてやったり」という心境だったでしょう。

佐竹全領土を与えられるはずの佐竹義季には、何が与えられたのか

 佐竹を裏切って内通した佐竹義季には、佐竹の領地のうち一郷だけが与えられました。たったの一郷を得るために、「裏切り者」というレッテルが貼られたのです。後に頼朝に冷遇され怒りを買って幽閉されたりもしました。


 ヤンキー中学生たちが最も嫌うのは「裏切り」でです。現役教師として問題が発生したとき、生徒に向き合う場合の鉄則は、その生徒が「自分は友を裏切っている」という感覚を持たないよう配慮することでした。この点には特に注意しながら指導しました。

「裏切り」を最も嫌うという中学生の感覚は、おそらく日本人の心に染み込んでいる根本的な感覚なのでしょう。権謀術作を『良し』とする中世武士であっても、「騙されるのは騙される方が悪いが、裏切りはダメだ」という感覚があったのだと思います。

文責 尚爺

西金砂神社由緒の碑 (社会科 尚爺撮影)

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