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林羅山と方広寺鐘銘事件の謎:林羅山は曲学阿世の学者という評価は正しいか

林羅山は、日本の文化を語る上で重要な役割を果たす優れた儒学者として知られています。彼の学問的教派である朱子学は 江戸幕府の御用学です。つまり朱子学は、江戸時代の人々はもちろん、その後の日本社会の人々の「心」を培う基礎的な教えとなり現在に至っています。

ですが、彼が江戸幕府内で 御用学者としての地位を固めるまでの出来事、とりわけ方広寺鐘銘事件を取り上げ、林羅山は「曲学阿世(きょくがくあせい)」の学者である、というマイナスの評価もあります。

大坂冬の陣の原因となったとされるのが、方広寺鐘銘事件です。このとき林羅山のとった行動は、徳川家康が望むような行動であり、具体的には「鐘銘に刻まれた文言」を、家康が望むように読み解いたといわれます。この行動は、学者として正しい行動ではないとして、林羅山は「曲学阿世」の学者であるという評価をする人もいます。
林羅山は、江戸期の人々、日本国民の道徳性を培った江戸期朱子学の創始者であり、高い評価を得ていることは間違いありません。
その一方、自分の学者としての魂を曲げ、時の権力者にへつらった人物であるとする評価もあるわけです。

本稿では、この林羅山の評価について考察し、彼が本当に曲学阿世の学者であったのかを明らかにします。
「曲学阿世」の評価は正しいのか、それとも正しいとは言えないのか。それらの真実に迫るために、歴史の闇に踏み込んでみましょう。

『本稿は、上記「江戸幕府と儒学者」を参考にしています。』

目次

本稿の要点

・羅山は、「王道」による政治の実現、という「志(大目的)」を持っていた。
・徳川家康は、王道による政治を実現できる為政者になると信じた。
・そのため、羅山は、朱子学の教えに反する行為、「方広寺鐘銘の文言の解釈」を行った。
・羅山の行為は「曲学」の誹りは免れない。
・羅山は「志(大目的)」実現のための、小さな過失は仕方がない、という現実主義的な考えをする人物だった。
・羅山の行為は、「阿世(徳川にへつらう)」行為ではなかった。
・結論:羅山の行為は、「曲学」であるが、「阿世」ではない。

林羅山は、どういう人か

林羅山は、天正11年(1583年)の8月に京都四条新町に、林信時(法号を林入)の長男として生まれました。
幼名は、菊末麻呂。
名を信勝。字は子信。

羅山は号ですが、その他にも道春(どうしゅん)など生涯を通じ、いくつかの号を用いています。

羅山が生まれた天正11年は、あの信長の本能寺の変の1年後です。
つまり、羅山は戦国の末期に生まれました。

林羅山

林家の先祖の出自

林家は、もともとは加賀の国の土豪だったと言われます。
ただし、羅山が生まれたときには、林家は京都に住む中流階級の町人になっていました。

羅山は、父である信時の実の兄である吉勝の養子となります。
吉勝は、米穀商を営んでいました。
本来なら、この米穀商の跡取りになる予定だったわけです。

幼少時から、飛び抜けて頭のよい子どもだった羅山

羅山は、他の江戸期の学問的偉人の多くがそうだったように、子ども時代から飛び抜けて頭のよい子どもだったという逸話がたくさん残っています。
羅山の息子の林鵞峰(がほう)が書き残した「羅山先生年年譜」を見ると、

羅山先生は、8歳にしてその優秀さは他の子を抜きん出ていた。
実父の信時も学問の人で、学問の客と一緒に「太平記」を読んでいたことがあった。
8歳の羅山は、父たちのそばにいて、「太平記」を読んでいるのを聞いていたのだが、あるとき「太平記」をすらすらと暗唱し出した。
それをみて、父をはじめ、その場に居合わせた人々がみんな驚いた。

というような逸話が見られます。

また、12歳のころの記述には、

すでに字を完全に習得し、儒教関係の本はもちろん小説類も読みこなし、ほぼ有名な本を読んでいて、一度読んて得た知識はすべて記憶し、忘れない。

というのです。
その様を見た人は、
「この子の耳は、まるで袋のようだ」
入れたものが、そのまま留まっている、とびっくりしたと書かれています。

羅山の記憶力は、三国志出てくる諸葛亮孔明のようです。
尋常ではない記憶力の持ち主でした。

建仁寺に出される

「羅山先生年譜」の15歳の時の記録に、次のような記述があります。

東山にあること、既に3年。
その間、羅山の修行を見て、東山の僧たちは考えました。
「この子は、俗な世界においておくには惜しい。このまま禅僧にすれば、大人物(偉大な僧)になるだろうから、出家をさせよう。」

東山の高僧たちは、羅山に出家するよう勧めました。
ところが羅山は、それを断り頑として出家を拒否します。
そして、とうとう密かに寺を抜け出して家に逃げ帰ってしまいました。

家に帰ってきた羅山に、父母が「どうして寺を逃げ出したのか」と訪ねると、
羅山は、「出家をすると言うことは、父母と縁を切ると言うことです。私は、そのような親不孝を望んでいません」と言ったと言います。

18歳で朱子学に目覚める

羅山のもう一人の息子の鳳岡が書いた「羅山先生行状」には、次のような話が出てきます。

羅山が18歳になった、慶長5年(1600年)に、
羅山は朱子学に目覚めたという記述があります。

具体的には、「ついに眼を宋儒の書に着けた」とあります。
宋儒の書とは六経や四書つまり、朱子学を指します。
羅山は、「18歳の時に朱子学に目覚めた」ということを示す内容です。

21歳で、儒学の公開講義を行う

慶長8年、西暦でいうと1603年に江戸幕府は開かれました。
そして、この年21歳となった羅山は、「儒学の公開講義」を行っています。

「現代で言えば、21歳の早熟の青年が儒学の講義をしただけだろう。そんなに珍しいことでもないでしょう?」

というような意見もあるでしょう。

しかし、この当時の常識としては、とても画期的なことだったのです。
中世世界では、学問も「門外不出」の財産だったのです。
秘伝を勝手に、そこいらの人に伝授することはタブーでした。

「学問に関する講義は、朝廷の許しを得て、特別な人を対象として実施されるもの。」
これが、この時代の常識でした。

ただし、江戸幕府が開かれ平和の時代が訪れると、このタブーは徐々に弱まっては行きます。

羅山は、そのタブーを破る初期の人間の一人でした。
それまでは特別な人しか聴けなかった「儒学の講義」を、公開で行ったのです。
弱冠21歳の若者が行った、それまでの既成概念を覆しす出来事だったのです。

羅山は、規制の枠にとらわれないエネルギー溢れる若者だったようです。

家康の耳に羅山の噂が届く

一介の民間人が、「儒学の公開講義を開いた」という噂は、当時明経博士という職にあった清原秀賢という人の耳に届きました。

秀賢は当然、「一介の民間人が何と言うことをするのだ」と激怒し、朝廷に告訴します。
羅山の噂は、同時に征夷大将軍となったばかりの徳川家康の耳にも届きました。

家康は、笑いながら「若者が公開で儒学の講義をしたからと言って何の不都合なことがあるだろうか。好きにさせておけばよい。」といいます。

将軍家康が、こう言ったので朝廷は何も言えなくなってしまいました。
これによって告訴は沙汰止みとなり、羅山が罪に問われることは無くなりました。
さらに、この一見の後、羅山は「儒学者」として世間に名を売ることになります。

羅山の師、藤原惺窩

藤原惺窩

羅山が、朱子学者として世に出るようになった頃、羅山に魁(さきが)けて朱子学者として有名な学者がいました。
藤原惺窩です。

惺窩は、羅山の22歳上の人物です。生まれは1561年。
惺窩は歌人として有名なあの藤原定家の11世の孫でした。

本稿は、羅山について語ることを主眼としていませんが、少しだけ惺窩について説明します。

惺窩は、藤原の冷泉家に生まれました。
生まれは播磨国(現在の兵庫県あたり)の細河荘。
18歳の時に、父が戦で死んでいます。
父の死の時には、既に仏門に入っていましたが、父の死を機に、京都五山の一つ、相国寺に身を寄せることになりました。

そこで禅の修行をしながら、儒学を学ぶことになりました。
儒学を学ぶ内に、儒学思想に強くひかれ、惺窩は還俗し本格的に儒学を学ぶことになります。
そして、近世初期の日本の朱子学流行の機運を創り上げたのでした。

招かれても、終身仕官をしなかった惺窩

惺窩は、多くの大名に招かれ儒学を講義する学者となりました。
家康にも請われて講義をして、家康から禄を与えるから仕官するように頼まれます。しかし、惺窩はそれを受けませんでした。

惺窩にとって重要なのは、仕官より、弟子の育成、教育だったようです。

惺窩に手紙を送りつけ、無理無理に議論を繰り返した羅山

この惺窩に対して、若い羅山は、手紙を送りつけ無理無理に議論を始めます。
穏やかな惺窩は、羅山を叱りもせず、議論に応じます。

おまけに、羅山は22歳も年上の惺窩に対して考えが違う点については、歯に衣を着せぬ批判の言葉を書き連ねました。

『惺窩の解釈を質(ただ)す』
などと、手紙に書かれたら普通の人なら怒ってしまったでしょう。
ですが惺窩は誠実に、羅山の考えについての自分の考え・考察を書いた返事を送り返してくれていました。

羅山の惺窩に対する尊敬の念は、一生涯続いた

羅山は若くはありましたが、すでにその読書量は半端ではありません。さらに一度読んだ書物の内容を忘れなかった、と言われる才能の持ち主です。

このような知識をバックボーンとし、羅山はモノごとを分析的に峻別的に捉える傾向がありました。
対して惺窩は、豊かな人生経験を生かし、モノごとを総合的に融和的に捉える傾向がありました。

この二人の議論ですので、必ずしも結論が一致するという事ばかりでは無かったのです。ですが、羅山は終生惺窩に対して尊敬の念を持っていました。
また、惺窩も才能豊かな羅山に対して期待が薄れることは無かった、と言います。

ただし、惺窩は羅山の「若さ故の客気(かっき)」を危惧したとあります。
惺窩は、羅山の客気、「早り過ぎる気持ち」「相手を圧倒しすぎる雰囲気」のようなものを危惧したのでしょう。

羅山も、惺窩の戒めを「肝に銘じて書きとどめた」とあります。

方広寺鐘銘事件

慶長10年(1605年)、羅山は、惺窩の推薦もあって、家康に会うことが出来ました。
そして2年後、家康の採用試験を受け、幕府に登用されました。

家康は、知識豊かな羅山を、「歩く辞書(行秘書)」として採用したようです。
こうして羅山は幕府に雇われる身分になりました。

慶長19年(1614年)、羅山は32歳。家康に仕え始めて8年目のこの年、大坂冬の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件が起きました。

従来、多くの人が、『方広寺の鐘に刻まれた文言が、「徳川を呪詛している」という言いがかりをつけて、豊臣家を滅ぼすきっかけをつくったのは林羅山だ」と考えてきました。

方広寺とは、京都東山区に現在も残る天台宗の寺院です。
この寺は天正14年(1586年)に、奈良の東大寺に習って大仏を安置する寺として、豊臣秀吉が創建しました。

ところが、慶長元年(1596年)に大地震が起きます。
この地震で、寺は崩壊してしまいました。

そこで家康は、秀頼に
「お父上である秀吉公が創建した寺ですから再建をされてはいかがですか。」と、勧めます。

秀頼は、「そうだな」と思い、再建を始めましたが、何と今度は工事中に舵がおこり、せっかく途中まで建て直した寺が焼け落ちてしまいました。
これが慶長7年(1602年)のことでした。

そして、慶長15年(1610年)秀頼は、再び工事を始めました。
慶長17年、大仏殿が完成。
慶長19年、梵鐘の鋳造も完了し、いよいよ開眼供養と堂供養を行うことになりました。

開眼供養を前に、奉行の片桐且元を中心として、齟齬が無いよう、数度にわたり家康に勧め方を確認します。
家康も、開眼供養予定日の一月前までは、「何も問題ない」と言っていたのです。

ところが、予定日まであと一か月を切った頃から、雲行きが怪しくなってきます。

まず、天台宗の僧侶、南光坊天海が言います。
○「真言宗と天台宗の僧侶が共に出席するが、真言と天台どちらが上席に座るのか」、と。
これで、一悶着。

さらに、金地院崇伝
○「梵鐘の銘に不吉な語が見られます」と言います。
これが有名な方広寺鐘銘事件となります。

「国家安康 君臣豊楽」の『「国家安康」「家康」という文字を分断する呪詛だ』と言うのです。

この事件は、「人々の騒ぎ」となりました。
周到に準備を重ね、家康にも数度にわたり直に面接して「問題がないか」を確認しながら開眼供養の準備を進めてきた豊臣方は、大きな恥をかかされ、窮地に追い込まれました。

金地院崇伝
南光坊天海

方広寺鐘銘事件における林羅山の歴史的役割

「国家安康 君臣豊楽」という文言が徳川に対する呪詛だ、というのは言いがかりに過ぎません。

この言いがかりの企ては、家康本人、あるいは金地院崇伝や、天海僧正の発案による豊臣追い落としの陰謀だったのだと思われます。

では、林羅山は、この件にどう関わったのでしょうか。
この当時、羅山はまだ若く幕府の文書係程度の役職でした。
つまり、世間で通説扱いされる、「この陰謀の黒幕は林羅山である」という説は、真実では無いでしょう。

では、羅山は全くこの件と関わっていなかったのか、というとそうとも言えません。

羅山の書いた「勘文(かんもん)」

方広寺鐘銘事件に、羅山はどのようにかかわったのでしょうか。
羅山は、この事件の過程で「勘文(かんもん)」と呼ばれる文章を書いています。

「勘文」の「勘」とは、「モノごとを『審理』する」というような意味を持つ言葉です。つまり、羅山の書いた「勘文」とは、「方広寺鐘銘事件を『審理』した文章」という意味になります。

方広寺の鐘銘について、羅山が「勘文」で指摘した点は、大きく3つあります。

①「家康の呼称」に「僕射」という言葉を用いた点。
②「国家安康」という表現がある点。
③「君臣豊楽」という表現がある点。

①「僕射」とは、大臣という意味です。「僕射」と同じ意味の言葉に丞相」があります。羅山は、「丞相」と言う言葉があるのに、「僕射」を用いたのは、「家康を射る」という意味で不吉だ、と書きました。

②「国家安康」という言葉は、「家康の名を鐘銘に遣い、さらに「家」と「康」の間に「安」を挟んで、家康を分断した。これは、家康の腹切り状態を意味して不吉だ、と書きました。

「君臣豊楽」という言葉は、「豊臣を君とし、子孫の殷昌(いんしょう・【豊かに栄えること】)を楽しむ」と読めるので、豊臣の繁栄を願っているので、実は徳川を呪詛する表現だ、と書きました。

これらは、当然家康の意に沿う解釈です。
この事実から、後世の学者の中に、『羅山は朱子学の教えを曲げ、権力者に阿(おもね)る「曲学阿世」の学者である』と、評価する人も現れたわけです。

林羅山は曲学阿世(教えを曲げ、世に阿る)学者と言えるか

林羅山の行為は、どう評価されるべきでしょう。
朱子学は「心学」です。「心の在り方」「日本人としての正しい道徳心はどうあるべきか」を問う学問です。

林羅山は、その第一人者であり、日本の心学(日本人の道徳心)の基礎を培った学者の一人であることは間違いありません。

その羅山が方広寺鐘銘事件について書いた「勘文」の内容は、「曲学」(自らの学問の趣旨を曲げている)であり、
「阿世」(家康という権力者におもねっている)であり、まさに「曲学阿世」の学者という評価になるのでしょうか。

羅山は文書担当の官吏に過ぎなかった

この頃の羅山は、家康に仕えて8年になりますが、まだまだ若く役職としては、一介の文書係に過ぎませんでした。

つまり、方広寺鐘銘事件の首謀者として関われるような高位の者ではありませんでした。
羅山が書いた「勘文」も、羅山の考えを書いたというものでは無く、家康のブレーンであった金地院崇伝や、天海僧正が家康に述べたことを記録する書記官役に過ぎなかった、と考えるのが妥当です。

「曲学阿世」の学者である、という羅山に対する評価は妥当か

堀勇雄氏の『林羅山』に、羅山について次のような表記があります。

「流石の五山のおべっか坊主たちも思い及ばぬ牽強付会の珍説で、曲学阿世の魁たるものである。戦争挑発者家康という悪魔に、魂を売渡した羅山の醜悪な心底が、ここに明白に露呈されている。」

「林羅山」(堀勇雄)より

家康を悪魔と呼び、極端な表現をする方だが、この方は、羅山をこのように評価しています。

また、辻達也氏は、羅山について次のように述べています。

「曲学阿世という語がこれほどぴったりと当てはまる例は少なかろう。林羅山はこのとき32歳。当時としてはもっとも充実した活動をなし得る年齢だ。才気溢れる羅山は、その知識と能力とを、すべて家康への追従に降り注いだのである。」

日本の歴史13『江戸開府』より

この方も、羅山を「曲学阿世」の代表のような人物、と評価しています。

「曲学阿世」という評価に対する反論

羅山が32歳の働き盛りといっても、崇伝や天海と肩を並べたときはどうでしょう。
とても、自分の意見を言うような立場では無かったでしょう。
「勘文」の内容は、羅山の創作ではなく、崇伝や天海の意見を、文章の第一人者として格調高く、読みやすくまとめたものだったのではないでしょうか。

確かに、羅山がたんなる文書官だったとしても、羅山は当時の漢文の第一人者であったわけです。その羅山なら、家康・崇伝・天海ら幕府の中枢が鐘銘の意図を曲解して解釈している』と、当然分かったはずです。

それにも、かかわらず、「勘文」を書いたのだから、羅山の行為は『朱子学に対する「曲学」の行為である』と評価されても仕方がない、と思われます。

しかし、羅山は「阿世」の人だったのでしょうか。

羅山は、現実主義者だった

朱子学の教えに、「治国平天下」という言葉があります。
朱子学を何のために学ぶのかと言いますと、「治国平天下」の実現を目指します。

この言葉は、『大学』の中に出てくる言葉です。
『覇道の政治を改め、王道の政治の実現を目指す。』

羅山にとって、豊臣の世は、「天性残虐・乱暴にして、権謀機変をむね」とする「覇道」の世でした。

このような世の中を改め、『「王道」による政治の実現を目指さなければならない』と考えました。
そして、『「王道」による政治を実現できる人物こそ、徳川家康である』と、家康を評価し期待しました。

羅山の家康への期待を表す逸話があります。

「道」の解釈を巡って

あるとき、家康から,羅山に質問がありました。
朱子学でいわゆる四書と呼ばれる書物の中の『中庸」の中に、

「子曰く、道はそれ行われざるかな」という章があるが、これをどう解釈すべきか、と。

この章は、一般的には「『道』という理想は、行われないものだ。」
と解釈されていました。 

それに対し、羅山は、

『時の主君が暗愚であったため「道」が行われないのを、孔子が嘆いた』
そのことを記しているのだ、と家康に答えました。

つまり、「儒教の理想」である『徳化』による王道の政治を実現できるほどの為政者が出現すれば、『治国平天下』は実現できるのだ、と主張したわけです。

そして、『治国平天下』、『道』の実現が出来る為政者こそ、徳川家康であると考えました。

朱子学の究極的な目標である『道』による『治国平天下』の世の中を実現するという羅山の『志』を実現するためには、小さな過失はやむを得ないことだ、と妥協する姿勢も大切だと羅山は考えたのだと思います。

羅山の「勘文」は、家康を世に出すために行った「曲学」でした。
しかし、家康に阿(おもね)ること、自分の出世を狙うことが目的だったのではありません。「理想の世の実現」のために、小事に目をつむった羅山の行為を「阿世」の行為と言い切ることはできないと思います。

現実に、家康のあと270年に及ぶ平和の世が実現したわけです。

まとめ:方広寺鐘銘事件に関する朱子学者、林羅山の評価

羅山は、戦国時代の「覇道」の政治から、「道」による「治国平天下」が実現される「王道」の世の実現という『志』を持っていました。

この大目的の実現のためには、現実的な方策が必要になります。
その一環として、「豊臣(覇者の政治の残照)」を滅ぼし、「徳川(王道を実現できる新しい政権)の世を実現させなければなりませんでした。

そこで、羅山が行ったのは、本当は、「これは曲解だ」と分かっていたのに「方広寺鐘銘文の解釈」を、家康や崇伝・天海らが言ったように記録しました。

この行為は、「曲学」の行為と言わざるをえません。
しかし、大きな「志」の実現のために行った行為であり、『「阿世(世に阿る)」の行為では無かった』のではないでしょうか。

結論:羅山の行為は、「曲学」の行為ではあったが、「阿世」の行為では無かった

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