- 常陸佐竹氏
上杉禅秀の乱と佐竹一族 山入氏の反乱
山入氏の反乱 13代の義盛の時代は、佐竹の安定期でした。 しかし、佐竹家存亡の危機が訪れます。応永14年(1407)、13代義盛が43歳の時に嫡子がいないまま亡くなってしまったのです。 当然、跡目を巡って、一族のみならず国人層も交えて紛争が起こりま... - 常陸佐竹氏
常陸の最後の南北朝の戦い 難台山合戦 と佐竹一族
常陸の最後の南北朝の戦い 難台山合戦 難台山城とは 難台山城は、現在の笠間市と石岡市の境界にあります。関城が落城し南朝の巨人畠山親房が常陸を去った後、久しく沈黙していた南朝方勢力が、常陸の北朝方に最後の戦いを挑んだ場所です。 難台山城後... - 常陸佐竹氏
失地回復を成し遂げた10代貞義の後継、11代佐竹義篤は 鎌倉府重鎮の道を歩む
14世紀中盤の大者の死 大物たちの死亡年 いつの時代でもそうですが、14世紀の中盤の大物たちの死も、時代に変化をもたらしました。 佐竹の暗黒時代である鎌倉時代を乗り切り、失った領地回復を進めた佐竹10代貞義が1352年に亡くなります。 その2年後の135... - 常陸佐竹氏
観応の擾乱と常陸守護としての佐竹氏
佐竹貞義に続き、足利尊氏の下、常陸守護大名の足場を築いた佐竹11代義篤と、観応の擾乱の関係 - 常陸佐竹氏
常陸の 武家方佐竹と公家方小田と、南北朝の動乱
常陸に遠流になった後醍醐の臣、万里小路藤房を預かった小田治久、対して佐竹の庶子月山周枢と尊氏の師夢窓疎石の人間関係を頼って武家方となった佐竹。どちらに日が当たるか。 - 常陸佐竹氏
佐竹一族が息を潜めて生きた、鎌倉時代140年の不遇
鎌倉時代の140年間、佐竹一族はひたすら息を潜めてこの不遇の時代を生き抜きます。それにしても140年は長い。 - 常陸佐竹氏
第5代佐竹秀義、西金砂山城の戦いで頼朝に敗れる
途中本当に岩が落ちてくるのではとハラハラしながら西金砂山を登ってみました。これを攻めるのは難しい。その西金砂山城の佐竹vs頼朝軍の攻防について - 常陸佐竹氏
平家と結び付いた佐竹昌義、皇嘉門院と結び付きさらに家勢を高める
昌義は常陸大掾と血縁。勢いに乗る昌義は、下総の有力者に自分の娘を嫁がせ下総国にも進出。さらに次男義宗を上洛させ、皇嘉門院に仕えさせた。 - 常陸佐竹氏
佐竹昌義は、何のために常陸佐竹に入部したのか
佐竹家譜によると、「勅詔(ちょくしょう)に因って常州に下向した」とあります。つまり昌義は、天皇の命令で常陸入りしました。 - 常陸佐竹氏
900年間生き残った佐竹家、義光と昌義の根本思想
源義光の墓はどこにあるのか 義光は、京都の武士を目指した義家とは違い、地方での勢力拡大を目指します。基盤の地域は、陸奥の南から常陸の北部でした。 そんな義光に訪れた試練に、源義国との戦いがあります。 義国は、兄義家と足利基綱の娘の間に生...