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失地回復を成し遂げた10代貞義の後継、11代佐竹義篤は 鎌倉府重鎮の道を歩む

目次

14世紀中盤の大者の死

大物たちの死亡年

いつの時代でもそうですが、14世紀の中盤の大物たちの死も、時代に変化をもたらしました。

佐竹の暗黒時代である鎌倉時代を乗り切り、失った領地回復を進めた佐竹10代貞義が1352年に亡くなります。
 その2年後の1354年には、南朝復興を夢見て都から遠い板東へやってきていた南朝の重鎮北畠親房が、奈良県賀名生(あのう)で亡くなります。

更には、その4年後の1358年に、足利幕府を開いた足利尊氏が亡くなりました。

佐竹、足利の次の代たちの死はさらに早く、1362年には佐竹11代目の義篤が死亡。
1367年には、2代将軍足利義詮が38歳で、及び鎌倉公方足利基氏は28歳で死亡しています。

  この頃、有力守護達は、室町幕府と折り合いが悪くなるとすぐに離反して南朝と結び付く動きが見られました。その結果、力を無くしているはずの南朝はダラダラと存続し、南北朝の統一は3代足利義満の1392年まで伸びます。

すぐに願える有力守護たちの憂鬱

 この頃の守護大名は、まだ戦国大名のような力を十分には持っていません。何々国の守護ということで領地を持ったとしても、その領地内には荘園などがあり、荘園を地盤とする国人勢力が存在しています。それらの在地勢力を自分の被官としないと権力は保てません。
 

 さらに、力を付けてきた守護大名たちですら、南朝につくか北朝につくかは悩みどころです。武家方の北朝についてみたり、自分の主張が通らなければあっさりと公家方の南朝に寝返る、こうした状況が見られました。始まったばかりの室町幕府は、南北両朝を天秤にかける有力御家人の存在に右往左往する状態が続いていたのです。
しかし時代は着実に、中央集権体制から分国化、本格的な力の時代へと歩みを進めていました。

守護大名と戦国大名の違いを一言で言うと

【守護大名】

⚪︎中央から任命された守護が領国を治める
⚪︎領国内に、荘園を持つ有力者(名主)国人などが、守護とは別勢力として存在
 ♦︎国人たちを主に権威と血筋で従える。

【戦国大名】

⚪︎(多くは)下剋上によって守護大名などを倒し、実力で領地を獲得
 ♦︎領内の有力国人を実力で従える。

幕府が安定するまでの概要と 京と板東の情勢

室町幕府の安定と更なる対立

正平12年/延文3年(1358年)に初代足利尊氏から2代義詮(よしあきら)にバトンが渡りました。しかし、この頃はまだまだ有力守護が自分勝手な行動を取ることが多く、幕府が安定したとは言えない状況でした。
 このような状況下で2代義詮は、自分の育った板東から兵を京に呼び寄せます。

関東執事 畠山国清軍を京に呼び寄せる

 正平13年/延文4年(1359年)、南朝と南朝方になびいている守護大名たちを攻めるために、2代義詮は坂東から執事畠山国清軍を京に呼び寄せました。
 この畠山軍には、佐竹一族(山入氏)の佐竹師義(もよろし)も従っていました。

畠山軍は、南朝を攻めましたが、当時の幕府の実情を物語るかのように味方同士の仲間割れが発生します。

畠山軍の仲間割れ

 畠山軍友軍の足利義詮執事細川清氏と土岐頼康が、味方の仁木義長を攻めようとしたのでした。味方に責められてはたまったものではありません。仁木は南朝方に寝返ります。
 この後もあれやこれやのゴタゴタで、何と仁木を攻めようとしていた細川清氏も南朝に寝返ってしまいます。この当時は、このような感じで、昨日まで北朝方、今日からは南朝方、さらに北朝方へ・・・、と言うようなことが頻繁に起こっていました。
 細川清氏は、1362年に従兄弟に討ち取られます。
 ゴタゴタの中で戦果を上げられなかった畠山国清は失脚し、鎌倉に帰ってしまっていました。(1361年)

斯波義将(よしゆき)の管領就任と幕府の安定

鎌倉に帰った畠山国清に対し、かつて足利直義派だった武将たちから国清の執事罷免の嘆願が出ます。立場が危うくなった国清は、領国の伊豆へ逃げました。そして伊豆の豪族たちを集めて反基氏の旗揚げをしようとします。しかし、協力しようとする豪族は無く、一人基氏と戦い敗れ降伏します。国清の最後は定かではありません。その場で殺されたとも、流浪の末に死んだとも言われます。

義詮執事 細川清氏失脚後の執事(初代管領) 斯波義将(よしゆき)

執事細川清氏が失脚し南朝側に寝返った後、空席だった執事の席に若干13歳の斯波義将が就きました。執事はこの後、管領と改められ、義将は初代管領となります。この後義将は失脚する時期もありましたが、初代、3代、5代、7代と幾度となく管領の座に返り咲きました。義将は斯波氏の最盛期を築いた人物とされます。

室町幕府の安定期

 約240年に及ぶ室町時代、室町幕府は鎌倉や江戸幕府に比べると不安定だった印象を受けます。あえて言えば南北朝を統一した義満の頃から、応仁の乱前頃までの100年弱の期間が、比較的安定していた時期だったと言われます。

ただし、「京と鎌倉」という観点から見ると、2代義詮(よしあきら)のころが一番の安定期です。京の義詮と、鎌倉の基氏が危ういながらも、足利の世の安定という同じ路線を進んでいました。

しかし、京と鎌倉の協力的な関係は、長くは続きませんでした。

義詮と基氏以後の 室町幕府と鎌倉府の対立

正平21年/貞治(じょうじ)6年(1367年)2代将軍義詮と初代公方基氏が亡くなります。3代将軍は有名な足利義満、そして鎌倉公方には足利氏満が就きました。

  二人は、それぞれ幼く就任しています。正平22年(1368)義満は10歳氏満は9歳での就任でした。幼すぎて自らは判断できなかったでしょうが、京と鎌倉は、この後「関東諸国の守護の任命権」や「官途の推挙権」をめぐって対立を深めます。

権威の西国と実力の東国の対立です。

常陸守護 佐竹義篤 鎌倉府重鎮となる

佐竹氏の方は、生涯尊氏に従った父貞義の死後、文和3年(1354)に佐竹11代 義篤が当主となっています。義篤の代では、徐々に京から鎌倉に重点を移し、東国武士として鎌倉府で重きを置かれる存在となっていきました。

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