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水戸光圀が創った 前期水戸学「水戸学を一言で言うと」NO1

水戸学を一言で言うと「尊皇の立場からの歴史学、及び思想と行動学」
 水戸学は、前期水戸学と後期水戸学に大きく分かれます。前期水戸学は、「列」と「伝」。つまり個人中心の歴史、思想学です。後期水戸学は、「志」と「表」つまり、制度史中心。水戸学は、個人学から組織学へ移ります。
 そして、それをつなぐ中期水戸学。「中国の学問思想中心」から「日本とは」という視点に移ります。
 水戸学は、大きく三つの時期に分かれます。

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目次

本書の目次

 この本は13章構造になっています。
第1章     少年・水戸光圀の決意
第2章     『大日本史』編纂のはじまり
第3章     光圀『大日本史』の主要モチーフ
第4章     前期水戸学の主張
第5章     幕府老中に堂々と忠言した18歳の藤田幽谷
第6章     シナの道徳史観から脱却した皇道史観の近代性
第7章     水戸学中興の祖、藤田幽谷の位置とその意義
第8章     厳正なる父に鍛えられた藤田東湖の三度死を決する人生
第9章     後期水戸学『新論』の原文を読む魅力
第10章     後期水戸学『新論』と現代グローバリズム
第11章     『弘道館記』『弘道館記述義』瞥見(べっけん・ちらりとみること)
第12章     意気天を衝き、人を圧する藤田東湖の風情
第13章     「天狗党」顛末

 やや章立てが多いですが、内容が豊富と言うことです。
 また、一つの章の中にも10項弱の項立てがされています。
 そこで、一つから三つの項を一つのブログにまとめることで読み進めていくことにしました。
 では始めます。

維新史の前提

『明治維新はなぜ明治革命と呼ばれなかったか』
 西尾氏の最初のハテナです。

革命ではなく、維新。日本では革命と言う言葉が似合いません。歴史上農民などの市民レベルから日本国を転覆させる動きはありませんでした。保元の乱、平治の乱にしても承久の変にしても、天皇に勝っても朝廷を滅して自らが天皇になる(新しい国を創る)ような事例はありません。
明治維新も

『体制の転覆ではなく、体制を一新』


 革命ではなく維新です。
 江戸時代が明治となっても、日の本としての日本は残り、徳川家も残っています。日本人はあまり違和感を持ちませんが、外国の人からすると「そこが変だよ日本人」という感覚で、明治維新という日本の歴史を眺めているかも知れません。
 「それまでの日本の秩序を転覆させたのに、なぜ徳川が残った」と。

 維新後も徳川家が残ったのは、「初代徳川家康の深慮による」という説があります。

『(徳川)内部に天皇家への忠臣を配置し、万が一の日のために用心深く封印しておいた』

 というのです。
 「徳川が朝廷と対立する日が来たとき、朝廷側につく徳川を創っておく。そうすることで、どちらが勝っても徳川の一派は必ず生き残る。」
 家康公なら、考えそうなのでこの説が真実味を帯びるワケです。

 もう一つ、西尾氏の次のハテナ
『尊皇攘夷』が『尊皇開国』に一転したことで、水戸藩にはどのような変化をもたらしたか。
 尊皇攘夷から尊皇開国へ、たったこの二文字の違いが、当時の水戸藩や日本の国にどのような影響を与えたのでしょう。
 

 今から、30数年前、私は水戸の三の丸小学校というところの教員でした。三の丸小学校は、藩校弘道館の真ん前にある学校です。水戸市には、水戸教学の時間という時間が設定されていました。郷土に関する学習の時間なのですが、水戸の小・中学校では、郷土を学ぶ時間に水戸学についても学んでいたわけです。

 あるとき、この時間の研究授業の授業者を仰せつかり、授業づくりに取り組むことになりました。昭和から平成に移ったころのことでした。

 私は、「天狗書生の乱」を扱おうと思い、近所の方に取材を申し込みました。
 取材OKをいただいたお宅に、いさんで出かけたときのことです。
 当時おそらく90歳前後のおばあさんが、きちんと正座して私を迎えてくれました。そこで、私は取材趣旨をお話しし、「天狗書生の乱をどのように理解されているか」「大正期に幼年時代を過ごされた方に、何らかの影響があったのか」を聞かせていただく予定でした。
 しかし、趣旨を聞き終わったあと、おばあさまは、キッと瞳を開き私を見つめ、
「では先生ご自身は、天狗側ですか、書生側ですか」と聞かれました。

 はっきり言って怖かったです。
「うかつなことを答えてはダメだ」
 自問自答が頭の中を駆け回る感覚は初めてでした。
 実は、その後おばあさまからどんなお話を伺ったのか、全く覚えていません。ただただ、「うかつなことは言えない」「よっぽどのことだったんだ」という印象だけが残りました。
 このとき私は天狗書生の乱を授業にかけることをあきらめてしまいました。
 今私が、「天狗書生の乱」を授業に欠けるとしたら、どのような授業をするだろう。
  

 さて、西尾氏はこう述べます。

『維新の直前に水戸家の人々を襲った悲劇、一家一眷属を真っ二つに割った藩内部の「内戦」のむごさ』
 『徳川幕府が内蔵していた二重性の矛盾』
 『水戸藩の最後を襲った悲劇は新旧体制の交換を裏側で血をもって贖った代理戦争』 『慶喜が一橋家の世継ぎとなった後最後の将軍となり、皇室に恭順の意を表して無血開城』をしたことで、~
 『徳川家もぎりぎりの名誉を守り』
 『国家を分裂から救い』

 「水戸は、御謀叛の家柄」との考え方については、先ほど触れました。
 水戸学を家の学問とする水戸藩は、「朝廷と徳川幕府が争ったときには、朝廷側につく。」という教えです。
 家康公が、そう仕組んだのかどうかは別として、結果的に朝廷側につくことを家の教えとしてきた水戸藩出身の慶喜は、列強の餌食となることから国そのものを救い、徳川は壊滅を免れました。
 水戸藩の慶喜ではなく、幕府将軍の慶喜の立場としては、水戸学の根本的な教えに従うべきなのか、幕府側の代表として水戸学の教えを断ち切るべきなのか悩まれたことでしょう。

 

 戦わずに逃げた将軍
 みすみす大政を朝廷に奉還した将軍
  意味不明な将軍

 このような見方も確かにあります。
 しかし、水戸学を行動原理とする慶喜にとって、適切に世の中の流れを見抜いた先見性に満ちた行動だったのではないでしょうか。

 血みどろの内紛をもって、水戸藩は見事に「魁(さきがけ)」としての役割を成し遂げた。確かに明治維新時に、優秀な人間がすべて殺され、死んでしまっていたのは悲しい。
また、水戸藩に過激派が集まり、良民を加害する逸脱行為があったことも悲しい。この逸脱行為によって、水戸藩の評判が一気に落とされてしまったことも悲しい。
 慶喜が、卑怯な将軍と一部で今でも評価されていることが悲しい。

 水戸に住まう者にとってはこう思えるのです。

『慶喜のしぶとい立ち回りと簡明な判断』

 しかし、日本は列強国の植民地にされることから免れました。また血で血を洗うような内紛劇を最小限に留めることができた。それは、誰のおかげなのか。その点について考えていただければ幸いです。

 そこで、改めて『水戸学とは何か』ということが知りたくなりませんか。
 当時も(今もそうなのですが)幕府官僚は事なかれ主義というか、問題先送り主義になる傾向にあります。
 水戸藩は、幕府の内部にあって、これを壊したのです。このパワーが水戸学にはありました。

 パワーを失いつつある現代日本は、もう一度過去を学ぶ意義があると感じます。

水戸学を一言で言うと、「尊皇」そして「大義名分」

 『尊皇攘夷』『大義名分』は中国や朝鮮から入ってきた言葉ではないそうです。どちらも日本独自の言葉です。
 この言葉は、水戸学の根幹をなす造語です。

 水戸学を一言で説明するなら、「尊皇」「大義名分」を踏まえた歴史学。そして、その歴史を踏まえた哲学及び行動原理(責飯島)


 西尾氏は、『大義名分』を次のように説明しています。

『天皇に忠誠を尽くすことが臣下としての道』

 「大義名分」をわきまえるということが、水戸学を考える上で根本的な視点となるようです。一言で言うと「尊皇」ということでしょう。
 物事を考えるとき、「これは尊皇として正しいか」という視点で考えるのが、水戸学の根本です。
「深作安文氏の考える水戸学とは」へ】

水戸学は前期と後期に分かれる

『水戸学は大きくいって前期と後期に分かれ、前期は水戸黄門で知られる水戸光圀の時代』『後期は九代藩主・徳川斉昭の時代
 と説明されています。
 また、「中期水戸学」を立てる人もいます。

高須芳次郎 『日本近世転換期の偉人』

 高須氏の著書『日本近世転換期の偉人』は、光圀を知る上で参考になります。
 

『水戸義公(水戸光圀)が「大日本史」という尊皇思想を本にした空前の大著を編述しようと志したのは、十八歳の時である(説明・正しくは三十歳のときのようです)。
 一体、義公は歴史物語の類いが好きであった。中にも支那の司馬遷が創った「史記」を好んで読んだ。この「史記」がふとした事情のもとに義公に深い感激を与えたのである。
 義公の叔父(本当は伯父)尾張敬公(徳川義直)も、史書が好きであった。』

『~(徳川義直)は、儒臣堀杏庵(ほりきょうあん)に命じ新たに国史編述を命じた。それは、『類聚日本紀』と題するもので、正保三年(説明・1646年)十一月、七十巻を完成したのである。』

 『敬公は義公と親しく語ったとき『類聚日本紀』の内容と趣旨とを告げ、
 「今日幕府が諸侯の仰ぐところとなっているのは、上に万世一系の天朝を戴き、奉っているからである。故に天朝の御洪恩(説明・大いなる恩義)を寸時も忘れては相成らぬ。それについては、私らは第一に尊皇の精神を宣掲(説明・はっきり示すこと)すべき必要がある。その近道は何か、国史を編述して、そこに尊皇の道を明らかにすることだと思う。」
 
 義公は、若々しい心を以て、感激した調子でこう云った。
 「御身の言葉を聞いて、自分も非常に力強く感じる。それについて尚内密に話しておきたいことは、記事の取捨、軽重じゃ。自分は万事尊皇という立場から取捨を行い、軽重を決し、また正理(説明・正しい道理)の発揚をきしたい。」

「こうして義公は、叔父(叔父)敬公から国史や史書についての嗜好・興味ならず、一つの信念・見識を与えられた。そして内外の歴史を読んでゆくうちに、深く公の心を打ったのは、『史記』のうちにある、「伯夷伝」だった。(説明・伯夷と叔斉という兄弟のエピソード)

(「維新の源流としての水戸学」より)

 伯夷伝は、一言で言うと兄は弟を思い、弟は兄を思って国王の座を譲り合ったお話です。(伯夷伝参照)

光圀の世継ぎ問題

 伯夷伝の伯夷と叔斉については、光圀自身が似たようなことを経験していました。
 光圀は、徳川頼房の三番目の子どもで、普通は頼房の後は、一番上の子ども(頼重)が水戸藩を継ぐのが自然だと光圀には思えました。
 兄を差し置いて家督を継ぐと言うことは、光圀にとって孝悌の道つまり兄弟の道に背くことだと感じられたのでしょう。
 跡継ぎとなるべきは兄であり、兄を無視して後を継ぐのは正しい行いではないと。


 光圀は水戸藩を継ぐにあたり条件を出します。
 高松藩を継ぐことになった兄頼重の子と、自分の子を互いに養子にし合うという条件でした。そうすれば、自分は水戸藩を継ぐが、子の代には兄の子に水戸藩を返せるという発想です。

 光圀は自分の考えに対して堅固苛烈に行動する面が見られます。
 このような光圀が創り上げた「前期水戸学とは」。

伯父と伯父について  

 オジという漢字を書くとき、伯父と書くのか叔父と書くのか迷うことがあります。実は伯夷伝がこの伯・叔のもとになっています。
 兄は伯夷ですので、父の兄の方は「伯」を使った伯父。画数が少ない方が年上です。
 弟は叔斉ですので、父の弟の方は「叔」を使った叔父です。

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