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聞く力 藤原頼長

藤原頼長
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一国の首相の「聞く力」

ウィキペディア:聞く力

「聞く力」というと、どこかの国の総理大臣を思い出す。
 「私は聞く力がありますから」とおっしゃる。

  確かに聞く力は大切。ただし、ただ聞いていれば良いというものではない。
 諸々の意見を聞いて、その上で自らの責任で正しく決断することが出来なければ、一国の梶取などできはしない。

 大切なのは「判断力」そして、勇気を持って「決断」する力だ。

 

保元の乱での源為朝と藤原頼長

ウィキペディア:保元の乱図

  鎌倉殿の13人前半の主人公源頼朝の父、源為朝は保元の乱に敗れて命を落とした。
 保元の乱は、1156年に起こった崇徳上皇と白河天皇との対立。原因としては、摂関家内部の対立にがある。

 この戦乱では、源氏・平氏ともに一族がそれぞれ上皇側、天皇側に分かれて戦った。身内同士の戦いである。頼朝の父為朝は、崇徳上皇側に付いた。
 為朝は、無類の戦上手で知られる武士の頭領である。その為朝が上皇側の戦略会議で次のように発言した。

「私は長いこと九州におりまして、あの辺りを征服しました。その途上で、たくさんの戦をやってきました。その経験に基づいて申し上げますが、勝つためには夜襲が一番です。今、ただちに天皇方に夜襲をかけ、三方から火を放ち、一方で待ち伏せをすれば敵は皆殺しです。直ちに夜襲をかけましょう。そうすれば夜が明けないうちに勝敗は付いてしまいます。」

ところが、その意見に対し

夜襲などというものは、身分賤しき武士が、それこそ10騎なり20騎なりの小勢で戦うときに用いる戦法。仮にも上皇様の軍がそのような賤しいまねなどできません。

という意見も出る。

 意見を良く聞く左大臣・藤原頼長は

戦いは、正々堂々とやるものだ。天皇と上皇とが位を巡って争う時に夜襲などという小細工は通用しない。

と述べる。そして最終的な作戦として、

味方の兵力も不足しているから、明日になって、奈良の興福寺の僧兵や十津川の兵の応援を待って合戦を始めたい。

 ところが、その夜、なんと天皇側から逆に夜襲をかけられてしまう。そして、あっけなく崇徳上皇は敗れた。

 敵には、為朝の兄弟の義朝(よしとも)がいた。同じ源氏の有能な武士で、為朝同様に戦上手として知られている。

ウィキペディア:保元の乱人物関係図

トップの聞く力とは

 保元の乱は、天皇側の勝利で終わった。
 崇徳上皇側に為朝、後白河天皇側には義朝という同じ源氏の有能なブレーンがいたのに、なぜ崇徳上皇側が敗れたのか。

 崇徳上皇側のトップも天皇側のトップも同じように、源氏の戦上手な専門家の意見を聞いたはず。また、身分だけ高い外野が的外れの進言をし、同じように的外れな意見を聞いただろう。

 ではどこが違ったのか。それは確実にトップの差だ。

 後白河天皇方のトップは藤原忠通。彼は、「聞く」だけではなく正しく「判断」した。
 正しく判断する力が、一国のトップに必要な力。

        ※【逸話については、尚爺が一部改変しています。史料通りではありませんのでご注意ください】

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