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敵が自国に迫る時、「武力抵抗」or「恭順」の議論の中で「中立」を選んだ長岡藩 河井継之助の少年期・青年期

継之助

 司馬遼太郎氏が描く「峠」の主人公、長岡藩の河井継之助の生き様は、今なお多くの人に影響を与えている。
 継之助が生きた江戸最末期は、現代日本が置かれている状況をイメージさせる。薩摩・長州を中心とする新政府軍が、旧幕府軍(奥羽越列藩同盟)に襲いかかってくる状況が、ロシア・中国が日本に押し寄せる状況をイメージさせるのだ。

 長岡の人々は断固として戦うという「抗争派」と、戦っても勝てないので武装解除して従うという「恭順派」に分かれた。
 そのなかで、河井継之助は「抗争」でも「恭順」でもない第三の道を提案する。『独立して特行する』、つまり『武装中立案』だった。

 長岡藩と継之助の運命やいかに。

目次

河井継之助とはどのような人物か『幼年時代』

 継之助は、子供のころから「なぜ、どうして」を口癖とする少年だった。頭のよい子には、よく見られる特性だろう。
 さらに、ケンカを売られたら相手が年長だろうが、体が自分より大きかろうが、頓着せずに応じて突っかかっていく。結果、負ける。

 あるときは、頭から鮮血をしたたらせながら家に帰ったことがあった。しかし、親には何も言わない。親を気遣って心配させないためというわけではない。長岡の人間にとって頭の傷は恥だからだ。

長岡藩の『侍の恥辱十七カ条

 長岡藩には、『侍の恥辱十七カ条』がある。長岡藩に人物が多いのは、この教えのためかもしれない。

 長岡藩には『侍の恥辱十七カ条』というものがあり、その第2条に、『頭をはられても、はりても恥辱の事』とある。

長岡藩の『侍の恥辱十七カ条』 【気になる方はここをクリック】

第一  虚言又人の中を悪しく言ひなす事

第二  頭をはられても、はりても恥辱の事

第三  座敷にても路地にても慮外の事

第四  親兄弟の敵をねらはざる事

第五  堪忍すべき儀を堪忍せず、堪忍すまじき儀を堪忍する事

第六  叱言すべき儀を叱言せぬ事

第七  被官の者、成敗すべきを、成敗せざる事、免すべきを、免さぬ事

第八  欲徳の儀に付て、人を出し抜く事

第九  人の手柄をそねむ事

第十  好色之事

第十一 贔負の人多き所にて、強みを出す事

第十二 手に足らぬ相手にがさつなる事

第十三 武功の位を知らずして、少しの儀を自慢する事

第十四 欲を先だて、縁類を求むる事

第十五 主君の仰せなりとて御請申まじきを辞退なく、或は御暇を申すべき儀を、とかくして不申事

第十六 仕合よき人をは、悪きも誉め、仕合悪しき人をばよき人をもそしりあなずる事

第十七 我身少し仕合よき時はほこり、めてになりたる時はめいる事

 おそらく継之助の頭に怪我をさせた相手は、生意気な継之助に恥をかかせようと頭を狙ったのだろう。
 継之助はそのくらい生意気な少年であった。そして、幼少期から「恥を知る」人物であった。

 長岡藩の精神を示す言葉として有名なのは『常在戦場』
 「常に戦場に在る心で臨め」という気概に満ちた言葉だ。そして、「常在戦場」の精神を支えていたのが、この「侍の恥辱十七カ条」だ。

 その第5に、『堪忍すべき儀を堪忍せず、堪忍すまじき儀を堪忍する事』
 とある。

 少年継之助にとって、ほとんどのことが『堪忍すまじき儀』と感じられたのだろう。負けず嫌いで、わんぱく、オトナであろうが、先生で在ろうが、「納得できないことは頑として従わない」という、血の気の多い少年だ。

河井継之助の心の基礎を培った陽明学


 河井継之助の思想的基礎は、陽明学にある。

 『格物致知』

  『格物致知』とは、

 物の道理を窮め、知的判断力を高める

 という意味。理想的な政治を行うための陽明学の基本の教えだ。

 『格物致知』は、「物を格(ただ)して知を致す」と読む。
 『格す』、とは『道理や法則に合うように、行いを正しくする。あやまちを改める。』ということ。

 ちょっと難しいのは、この場合の『物』が、単なる物体を指すのではないことだ。『意の在る所』つまり、
 『自分の考え』、『自分の意味づけ』、『自分自身』というような意味だろうか。

己の心をもってして、天の意志を発現する。
 しっかり肚(はら)に嵌(は)まるには、実際にやってみるしかなかろうよ。

 と、継之助は言う。
 頭で考えただけでは『知』に至らない。ストンと腹に落ちるまで『行動』する。それによってはじめて本物の『知』に至ることが出来る。
 何のためにか、「民の暮らしをよくする」ためである。これが、継之助青年の根本思想だった。

 陽明学を志す継之助は、17歳のとき「鶏を割き、王陽明を祀って、干城(国を守る軍人)になる」ことを誓った。

継之助の江戸留学

ウィキペディア:古賀茶渓

 古賀茶渓に師事する

 継之助は江戸へ出る。斉藤拙堂(せつどう)に詩文を学び、その後古賀茶渓に師事した。

古賀茶渓とは

1816-1884 幕末-明治時代の儒者。
文化13年11月11日生まれ。古賀侗庵(どうあん)の長男。家学をついで幕府の儒官となる。嘉永(かえい)6年川路聖謨(としあきら)らとロシア使節プチャーチンの応接掛をつとめる。安政3年蕃書調所初代頭取(今で言う校長)。のち製鉄所奉行並,目付などを歴任。維新後は新政府に出仕しなかった。明治17年10月31日死去。69歳。江戸出身。名は増(まさる)。字(あざな)は如川。号は茶渓,謹堂。著作に「度日閑言」など。

 ところが、継之助は茶渓の講義を聴くのではなく、李忠定公集 「宋の李綱奏議書李忠定は、名を綱(こう)、字(あざな)を伯紀と言う。忠定は諡(おくりな)」

李忠定は、宋朝の名臣にして武将。李忠定が生きた時代、宋朝は北狄、女真族(金人)の侵略に遭い、滅亡の危機に瀕していた。

 つまり、江戸末期の日本の(現在日本にも通じる)状況に似ていた。継之助は、李忠定が実際にどのような案を献じたのかを、李忠定公集から学ぼうと考えた。

 継之助は、古賀茶渓の講義を聴いて学ぶのではなく、ひたすら李忠定公集を筆記していった。しかも、一文字一文字まるで彫るかのように筆記する。

 継之助の読書は、極端ともいえる精読法だった。

Amazon:李忠定公集

あいつは、先生の講義も聴かずに何をやっておるのだ?

 同門の者には、継之助の筆記式精読の姿は、一種異様に映ったことだろう。しかし、彼は人目を気にせず、古河茶渓のもつこの本を筆記しきってしまった。

古賀茶渓の三位一体説

 古賀茶渓は、儒者でありながら、早くから洋学の必要性を感じ取り、幕府にも建白している。

 昌平坂学問所の教官時代には、陽朱陰王と言われた佐藤一斎が居る。また門人の中に、継之助のみならず会津の秋月悌次郎などの秀才が並ぶ。

 古賀茶渓は、諸外国が日本をねらう江戸末期において、「三位一体説」を持論とした。「火器、貿易、船舶」を三位一体として整えることが急務だと説いた。甲冑と刀や槍では諸外国に歯が立たない。

佐久間象山に師事する

ウィキペディア:佐久間象山

 さらに、西洋砲術に明るい佐久間象山に師事した。

 象山は、信州松代藩真田家の家臣である。当時の藩主は真田幸貫

「外国勢力の次なる標的はわが国だ。交易を求める彼らの要求をこちらが拒絶したら、武力を行使する肚だ。彼らの武力を侮ってはならぬ。やつらは、やるときには徹底的にやる。野獣のごときモノどもだ。」

 よって、「火器を積んだ戦艦をもつ海軍創設」。さらに、「砲隊の創設と有能な人材登用そして、「諸藩の協力
 これらが、今の日の本には必要なのじゃ。

 藩意識なんぞ、瑣末なものだ。日本の屋台骨が壊れそうなときに、長岡も松代もありはしない。

 佐久間象山の有能さを理解しつつ、その人間性を好きになれなかった河井継之助

「温・良・恭・倹・譲」に欠ける佐久間象山

 佐久間象山は、この時代第一級の頭脳であった。しかし、人間性には問題があったようだ。

 孔子の言葉ではあるが、人間性を示す五徳は古来より、日本人の人間性を著してきた。五徳とは、「温・良・恭・倹・譲」である。

『温』とは、温かさ。穏やかさ。
『良』とは、善良さ。素直さ。
『恭』とは、礼儀正しさ。
『倹』とは、つつましさ。
『譲』とは、へりくだる、ひかえる、他人を先にする心。

 象山には、この五徳が欠けていたようだ。

 頭が良すぎる人が陥りがちだ。自らの過ちに気付かずに、人からの信用を失った後に、自分には、五徳が足りなかったことに気付く。

 佐久間象山の人間性に疑問をもつ継之助自身も、もしかすると『恭』『』『譲』の徳については、欠けていたかもしれない。

継之助に深く影響を与えた師 山田方谷

ウィキペディア:山田方谷

 山田方谷先生は、備中松山藩の武士。藩の財政改革に取り組んでいた。

 松山藩の当代の藩主は、板倉勝静(かつきよ)。継之助が備中に方谷先生を訪ねたころ板倉勝静は、井伊直弼大老と意見が合わず、寺社奉行を罷免されていた。

 このように多忙な山田方谷を尋ね、継之助は無理無理弟子になった。

ウィキペディア:備中松山

自らの足らざる人間性に気付く

温良恭倹譲(おん・りょう、きょう・けん・じょう)
 河井継之助は、自分自身の人間性を振り返り、次のように自戒する。

おれはどうだ。温はあるか。おれは、おだやかではない。良、すなおでもない。恭、うやうやしくもない。倹、つつましやかでもない。譲、ひかえめでもない。駄目だ。一字もない

 継之助に、自戒のきっかけを与えてくれたのが、山田方谷先生だった。

 方谷先生は言う。

人に使われるなら『温良恭倹譲』、ここまでに到達しなければ、真の仕事はできない。

 この教えは、実行出来そうでできない。
 特に、優秀な人間ほど難しい。山田方谷先生が言ったからこそ、やっと河井継之助の心にも届いたのではないか。

 方谷先生のこの言葉は、自分自身にも、子供たちにも伝えたい。そして、願わくば、『格物致知』
 自らの言葉に直し、「ストン」と納得して理解して欲しい。


 『人に使われるなら『温良恭倹譲』の心の大切さを身にしみて理解すべき。ここまでに到達しなければ、真の仕事はできない
 この真意の理解を、祈り願う。

山田方谷から『藩政改革』の基礎を学ぶ

 河井継之助は、後に長岡藩の藩政改革に取り組み、大きな成果を上げる。その成功に至る道筋は、方谷先生から学んだ。

 山田方谷先生が行った藩政改革を一言で言えば、「上下節約、負債整理、産業振興、紙幣刷新、士民撫育、文武奨励の六点」

 この六点をはじめ山田方谷先生の教えが、継之助の長岡藩改革に大きな影響を与えた。

 (以下、つづく)

継之助

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