愛助の死後、スズ子を訪ねた義父・梅吉。孫の顔を見ることが出来た。梅吉は、少しでもスズ子の手助けになりたくて愛子の世話をしようとするが、うまくいかなかった。数日後、スズ子に高額のお祝い金を渡して香川に帰った。
その後の梅吉の様子についてブギウギでは描かれていない。
ただ、香川のおじさんから、『腕の良い写真館のおっちゃんとして、楽しく暮らしていた』という話を聞くことは出来た。
おそらくブギウギの世界で、梅吉はこのまま死んでしまうようだ。
だが、実際の笠置は、義父音吉(梅吉のモデル)の生前に一世一代の親孝行をしている。
義父たちが企画した香川凱旋公演の実現だ。
さらに、笠置は、義母うめ(ツヤのモデル)と弟八郎(六郎のモデル)の墓を建て、音吉の墓も建てている。
笠置は、人情の篤い人。
だが、このエピソードもブギウギでは描かれないのかもしれない。
音吉が元気なうちのスズ子の香川凱旋公演と、家族の墓を建立するエピソードを描かないことだけは、残念。
このブログでは、義父・花田梅吉(柳葉敏郎)のモデル『亀井音吉』と笠置シヅ子の真実について語る。
ブギウギすず子の義母、ツヤの死
花田ツヤ(水川あさみ)のモデル亀井うめさんは、1939年(昭和13年)9月11日に新町の日清病院で、胃がんと心臓の病により亡くなった。
ブギウギでは、死の病に伏せるツヤは、生きている間に鈴子に会うことができる。
涙を誘うシーンだった。
だが、史実では養母の「うめ」は、「静子」と会えずに死を迎えた。
「うめ」は、最後まで「静子に会いたい、会いたい」と口にしていた。
だが、東京で活躍している「静子」は、大阪に戻ることが出来なかったのだ。
「うめ」は、「静子」がどうしても戻れないことが分かると、次のような言葉をつぶやいたという。
そんなら、あの子も東京でどうやらモノになったのやろ。わてはそれを土産にしてあの世に行きまっけど、わてが死に目に逢うてない子を、生みの親の死に目にも逢わせとない。わてが死んだ後、決して母が二人あることをいうておくれやすな。
「自分が死の間際に静子」に会えないのだから、「実の母親の『谷口鳴尾』の死に目にも会わせないで」というのだ。
ブギウギのなかでツヤが自分のことを「わては、焼き餅焼き」だ、と語る場面がある。
ブギウギの養母ツヤの「焼き餅焼き」という性格設定は、史実「うめ」の上のような言葉を元にしたのだろう。
ブギウギで、ツヤは次のように語っていた。
「…お願いがあるんや。このままなにがあってもあの子をキヌには会わせんといてほしいねん。これから生きていく…ワテの知らんスズ子を、キヌが知るんは耐えられへん」
史実の「うめ」以上に、業(ごう)が深い台詞になっている。
だが、同時に鈴子(趣里)に対するツヤ(水川あさみ)の愛情の深さを感じさせる台詞だ。
ツヤの言葉を聞いて、梅吉(柳葉敏郎)も涙を流すだろう。
弟、六郎の死
亀を愛する最愛の弟、六郎(黒崎煌代・史実の八郎)は、ツヤの死の1年前に兵隊にとられている。
そして、運命の1941年(昭和16年)7月、ベトナムの沖合で戦死してしまった。
鈴子(「静子」)と梅吉(「音吉」)は、最愛の二人を続けざまに失うことになった。
失意の音吉は、静子を頼り上京
1938年に、「八郎」が兵隊に入隊し、翌39年に最愛の妻「うめ」が死去。
「音吉」は、このときまだ60歳の手前だったが働く意欲を無くしてしまう。
頼りは、養女の「静子」ただ一人だけ。
大阪に一人残されてしまった音吉は、「静子」を頼るしかなかった。
昭和40年1月8日、「音吉」は、「静子」を頼り上京してくる。
静子が、東京駅で「音吉」を出迎えたとき、汽車の窓から顔を出し、
『静子ーウ。』と力なく泣きそうな声を出したという。
よっぽど不安だったのだろう。
甲斐性なしだが、どこか憎めない大阪のおっちゃんの典型のような「音吉」。
この後「音吉」は、しばらくの間、静子の三軒茶屋の借家で同居をしていた。
このあたりはブギウギの中でも描かれていた。
だが、静子の借家が空襲で焼けてしまう。
「静子」と一緒にいることが出来なくなった「音吉」は、故郷の香川に帰ることになった。
「音吉」の自慢は町の自慢、「音吉」の願いでふるさと東かがわ市で公演成功
郷里に帰った「音吉」にとって、ブギの女王と呼ばれるようになっていた静子は、自慢の娘であり、生きる希望だった。娘を自慢することが、生きる活力に繋がっていた。
「音吉」の郷里の友人仲間への自慢が、何時しか友人仲間全体の自慢となっていった。
自然発生的に、『「笠置シヅ子」を引田に呼んで公演をしてもらおう。音吉の願いなら、「静子」は、断らないだろう』という安易な考えだったが、「瓢箪から駒」、この素人集団の「公演計画」は実現することになる。
公演場所は、萬生寺という寺の前にあった朝日座という劇場。
だがその劇場には、ピアノがなかった。
ピアノは、計画に賛同した引田小学校の学校長が、学校のピアノを使わせてくれることになる。
人を巻き込み、地域を巻き込むことがうまい、音吉の人となりが感じられる。
こうして、なんとか笠置の歌の伴奏が出来る状況をつくりあげた。
『笠置シヅ子、ふるさと凱旋公演』の話は、トントン拍子で進んだ。
このうわさは、町中に広がり、前売り券はたちまち完売してしまった。
本来なら素人軍団の興行に、トップスターの笠置シヅ子が応じるはずはない。
だが、義父「音吉」の願いでもあるので、静子は快く応じたのだろう。
公演は、4月15日に行われた。この公演は後日東京新聞などでも報じられている。
見出しは、「故郷に帰った笠置」
「近郷近在から詰めかけた群衆で駅前の歓迎は同町始まって以来のてんやわんや」
と伝えている。
戦後間もない、娯楽の少ない時代。
1955年の記録によると、義父の旧引田町の人口は、7300人ぐらい。
旧相生村の人口が4400人。
朝日座のそれまでの一日の最高入場者は、700人だった。
だが笠置シヅ子の凱旋公演の入場者は、2500人だったという。
大大大盛況だった。
音吉の鼻も、3、4倍に高くなったことだろう。
静子はこの公演で、亡き義母「うめ」や、血は通っていないが唯一の肉親である義父「音吉」への親孝行をした。
終わりに
静子は、義母「うめ」の死に目に会えなかった。
また、本当の兄弟以上に愛した弟の「八郎」も、冷たい海の藻屑(もくず)となってしまった。
たった一人残った義父「音吉」は、一時働く意欲を失っていた。
東京で静子と暮らしたが、空襲で住む場所を奪われ、しかたなく郷里香川に帰って行った。
ブギウギのスズ子(笠置)は、愛助(穎右)を失い失意の底にあった。
そんな時、梅吉は久々に上京し、スズ子と愛子に会う。
梅吉(音吉)にとって「ブギの女王」として成功した「静子」だけが心の支えであり、スズ子にとっても梅吉はたった一人の身内。
「静子」は、血の通っていないたった一人の肉親の義父の思いに答え、やがて本来なら引き受けないであろう義父を含む素人集団が企画したふるさと公演を行なうことになる。
結果は大成功。
「静子」は、「音吉」や「うめ」にとって、本当に親孝行な娘だったのだ。
このような笠置の親孝行がブギウギで描かれなかったことは、残念でならない。
また、笠置の親孝行の一つとして、家族の墓を故郷香川に笠置が建立したことも描いてほしかった。
笠置は、人情に篤い人だった。
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