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【金ヶ崎崩れ】 一説では「家康に知らせずに逃げてしまったとされる信長」どうする家康

浅井の不穏な動きを察知した家康が、信長に「撤退」を進言する。しかし、信長はそれを信じない。「儂は、朝廷のために闘っている!」「おまえの(信長の)心の内など分かるものか!」と叫ぶ家康。ビビリノ家康が、正論を吐く場面が4月16日、第14話の見所。
だが、一説に「危機を察した信長は、家康に知らせずに撤退を始めた」という説もある。どちらにしても「金ヶ崎崩れ」は、信長・家康にとって大きな危機だった。さて、この危機を二人は、どう乗り切ったのか。

目次

そもそも、「金ヶ崎崩れ」とは、どのような戦いだったのか

 時は、元亀元年(1570年)。
 1570年代は、信長が尾張平定をほぼ成し遂げた頃。三河の松平とも同盟ができ三河も手中にあり、美濃も斉藤龍興を滅ぼし手中に収めた。

 となると、次にねらうのは、北の越前朝倉の領地
 信長は、朝倉を責めるために、妹「お市」を嫁がせて、浅井長政と同盟がすでにできあがっている。

 織田軍は、徳川軍などの同盟軍を合わせると、総勢約3万。
 対する朝倉郡は、4千5百に過ぎない。

 圧倒的な勢力差。
 信長にとって、物見遊山程度の戦いのはずだった。

 ところが!
 浅井長政が、信長を裏切る。

 前と後ろから挟まれたら、いくら戦力差があるとしても、袋のネズミ。
 信長は、命からがら、京へ向かって逃げ出すことになる。その道中朽木元綱の納める朽木の郷を越えることになった。
これが、「金ヶ崎崩れ」の大まかな様子。

朽木越えルート

信長を裏切った浅井長政の浅井家とは、どのような家か

 浅井家は、下克上の家。
 元々は、北近江に勢力を持っていた京極家(源氏)に被官する一族の庶流だった。その浅井の庶流が、京極家を押しのけ近江の北半分に大きな勢力を持つほどに成長した家だった。

 朝倉の初代は、亮政(すけまさ)。長政の祖父に当たる。
 亮政は延徳3年(1491年)の生まれ。生まれは浅野の庶流だったが、本家の直種に男子がなく直種の娘と結婚し、本家の後継となった。

 亮政は、武将として優れ京極家のお家騒動の間に浅井の家を京極を凌ほどの家に成長させた。しかし、浅井が成長すると、それまで京極と敵対関係にあった六角氏が浅井に牙をむく。

そして、浅井の背後には朝倉があった。
初代浅井亮政のころの浅井家は、六角と朝倉に挟まれどのように生き残るかを画策しながら戦国の世を生きていた。

浅井長政:NHK

京極家の衰退

京極家は、宇多源氏源氏の流れを汲む名門の家。
室町幕府が出来たときに功を上げ、近江の国などの守護になった。だが、応仁の乱後だんだんと衰退していったが、明治維新まで生き残った武家の一つ。

この京極家の力が弱まり、浅井家に権力が移り変わる事件があった。「京極高清と次男高吉対、長男息子の高広(高延)との跡目を決める争い」だった。

高清は、次男高吉に自分の後を任せたかった。しかし、長男である高広(高延)はなった句出来ず争いとなった。そして、京極の両陣営は、大永4年(1524年)激突する。高清・高吉側は敗北し、京極は長男高広が相続し実権を握る。

この争いの時に、浅井亮政は、高広側に組みしていた。
さらに、浅見氏との戦いに勝利し、京極家内で揺るがない地位を占めるようになる。

すると、力を持ちすぎた浅井家を危険視した京極高広は、敵対していた父高清と和睦して浅井を敵視してくる。戦国時代は敵味方が、くるくると入れ替わる。

さらに六角家とまで歩調を合わせ、浅井に兵をむけて来る自体となっていった。
力を付けてきた浅井家を、京極も六角もほおってはおけなくなっていたわけだ。

天皇家系図:第59宇多天皇

六角家による 浅井攻め 

 六角は、京極から見たら同じ宇多源氏佐々木流の本家筋に当たる。この六角が、越前の朝倉と協力して、浅井の居城である小谷城を目指して攻めてきた。

 圧倒的に不利な立場にあった浅井家に、なんと朝倉で最も強い武将と言われ浅井も幾度も苦杯を味わわされてきた朝倉教景(のりかげ:宗滴そうてき)が表れ、六角と浅井の調停を行ってくれた。

 後の時代に書かれた「小説」などでは、この時の話が美談として伝わっている。しかし、戦国時代の事だから、単なる美談では無かっただろう。

 おそらく、「朝倉が滅んだら、朝倉は六角と直接国境を接することになり、不安要素が増大する」など、何らかの思わくがあっての調停だったろう。
 だが、浅井にとって、六角との調停は間違いなく命拾いとなった。

長政は、なぜ信長を裏切ったのか

 多くは、浅井が朝倉に恩義を感じていたので「朝倉を裏切れなかった」と考える。
 先に述べたように、六角に攻められたときに滅びずに済んだのは朝倉の援助があったからと考えるのは理屈が通る。

だが実際には、浅井と朝倉には明確な同盟関係にはない。
また、先の六角と浅井の戦いは、六角川の勝ちであり、その後浅井家は、六角の養女(平井定武の娘:淡海乃海 水面が揺れるときのでは「小夜)を長政の嫁とし、従属的な同盟関係を結んだ。

このときはの長政の名乗りは、六角義賢から「賢」の字をつかい賢政と名乗っていた。名乗りにも六角への恐れが表れていた。

生き残ったとはいえ、この程度の関係だったので、浅井は朝倉に恩義を感じていなかったのではないだろうか。

浅井が朝倉にそこまで恩義を感じていたわけでもなく、明確な同盟関係も結んでいなかったとしたら、長政は、どうして信長を裏切ったのだろうか。

信長:NHK

長政の行動は 裏切りでは無く 戦国武将としての 決断だった?

 浅野長政と、徳川家康は、ある意味にている。
 どちらも、信長の一族と婚姻関係を結び同盟している点。

 長政は、六角氏の養女を離縁し、信長の妹お市と婚姻し、家康は、息子信康に信長の娘徳姫をもらっている。
 長政は、信長をどう見ていたか。
 家康は、信長をどう見ていたか。

 もしかすると、長政は信長とは「この先ずっとやっていくことはできない」と考え、家康は、「自分の息子や嫁を殺してでも、信長と一緒にやっていくべきだ」と考えたのではないだろうか。
 長政と家康の信長観の違いが、まず根底にあったように思う。

 その上で、長政は、戦国大名として、「今なら信長に勝てる。」という見通しをもったのではないだろうか。

 長政は、かつて、野良田の戦いで、六角義賢の大軍を破った経験がある。有能な戦国武将だからこそ、長政はそう判断した。
 そして、六角の養女(平井定武)を離縁した経験もある。ちなみに、平井氏の娘との間には男の子が二人いたとされる。

過去にも経験があり、状況から見ても「大軍で朝倉を責めている、という油断のある今の信長になら、勝てる。」
そう、判断したのではないだろうか。
長政の、信長裏切りの理由は謎だと、言われてきた。

真相は謎だが、長政の戦国武将としての自負、それにもとづく決断にあると予想する。
いつか、だれかが、その証拠となる一次資料を発見をしてくれることを期待する。

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