神社庁に属する社で、一番多いのは「八幡信仰にかかわる神社」、二番目が「伊勢信仰にかかわる神社」、三番目が「八幡信仰にかかわる神社」、そして四番目が「稲荷信仰にかかわる神社」となっている。
しかし、ほとんどの神社は、摂社や末社として社内のどこかに稲荷神を祀っている。また、屋敷内や企業の社屋内にも屋敷神や氏神として稲荷社をまつる所も多い。それら神社庁に属さない社も加えると、実質一番多いのは、稲荷神社だろう。
稲荷神社というと、多くの人は、「狐」を思い浮かべる。しかし、稲荷神社の祭神は、狐そのものではない。しかも、元々は日本の神でもなかった。
また、稲荷信仰は、空海の真言密教との関わりが深い。
小さな祠まで数えたら、日本で一番多いのは『稲荷神社』
江戸に多いもの、「火事喧嘩伊勢屋稲荷に犬の糞」と言われた。
江戸の町に多いのは「火事」そして、「ケンカ」、「伊勢屋」という屋号の店、「稲荷神社」と、ちょっと汚いが「犬の糞」と言うわけだ。
私の地域にも、伊勢屋という団子屋がある。これがうまい。
話はそれた。
本日の話題は、「日本で実質一番多いのは、お稲荷様(稲荷神社)」
実際に、個人の家の庭や企業の屋上や社屋内にも、稲荷社を祀るところは多い。
では、どうして個人の敷地内に稲荷社を祀ったり、企業が稲荷社を祀ったりするようになったのか。
稲荷神社の祭神は何で、いつごろできたのかについてまとめておく。
稲荷神は、もともとは【帰化人の神】
「お稲荷様」として思い浮かべる「狐」は、実は稲荷神のお使いであり、祭神そのものではない。
神や仏に付き従う眷属だ。
では、稲荷神とはどのような神様なのだろうか。
🔶稲荷神の歴史
稲荷神は、もともとは秦氏という帰化人(日本に渡来して、帰化した人々)の神だった。
例えば、山城国に風土記(逸文)に次のような記述がある。
和銅年間(708年から715年)伊奈利は、秦中家忌寸(はたのなかへつのいみき:「秦氏」)らの遠祖である伊呂具(いろぐ)という人物が、餅を的にして矢を射たところ、その餅が白鳥となって飛び去り伊奈利山に舞い降りた。その舞い降りた場所に稲が生え、稲荷社となったとある。
つまり、稲荷の神は秦氏が祀る神で、もともとは日本古来の神ではなく、帰化人(渡来して日本に帰化した人々)の神だった。
🔶延喜式に記された稲荷社の神
風土記から約200年後の平安中期に編纂された書物に「延喜式(えんぎしき)」がある。延喜式の寛政は、延長5年(927年)
編纂者は、菅原道真を太宰府に追いやった藤原時平(ときひら)。時平は菅原道真に意地悪をする悪役として記憶している方も多いだろうが、「延喜式(律令の施行細則)」をつくるなど、政治的な功績も大きい。
ただし、時平は延喜式の寛政を見ずに死んでしまったので、実際に完成させたのは、時平の弟の藤原忠平だったが・・。
この「延喜式」には、『稲荷神社三座』として、『並び明神大、月次・新嘗」と書かれている。
「三座」とは、伊奈利山の三つの峯を指す。
そして、『名神大』とは、『月次祭りや新嘗祭の時に供物が捧げられる由緒ある神社』の事である。
ということは、10世紀には、稲荷神は、延喜式の「神名帳」にのる複数の「官幣や国幣」を捧げられる神社(神)となっていた。
◈複合体としての「稲荷神」
日本の神は、どの神も「習合」つまり複数の神が混ざり合うことが多い。
その中でも伊奈利山の「稲荷神」は、全国規模のあちこちの名神大社の神が、「稲荷の神」の一部を成している。
この稲荷神の『習合』的性格は、遅くとも平安中期(藤原時平の920年代)には確立していた。
平安時代には、伏見稲荷の下社に宇迦之御魂大神。中社に佐田彦大神、上社に大宮能売大神が祀られていた。
🔶現在の伏見稲荷の祭神
現在の伏見稲荷の祭神は、宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)、佐田彦大神(さたひこおおかみ)、大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)、田中大神(たなかのおおかみ)、四大神(しのおおかみ)と言われている。
◈宇迦之御魂大神
現在の伏見稲荷大社では、
宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)とは、漢字表記は異なるが「古事記」にも「日本書紀」にも現れる神。「古事記」では、スサノオの娘として描かれる。
「日本書紀」では、本文には登場しないが、イザナギとイザナミの神産みの時、飢えてしまい気力が衰えたときに生まれた神とされる。飢えたときには、食事が必要になる。このことから「穀物神」と考えられるようになる。
日本の神は、寛容である。ちょっとでも似た性格があると「習合」する。宇迦之御魂大神が穀物神出あることから、どこかの時代で稲荷神と習合したと考えられる。
◈佐田彦大神
佐田彦大神(さたひこおおかみ)とは、名前に「田」があることから、穀物に関係する神と考えられたのだとろう。
ただし、神名が「佐田彦」になるのは明治以降のことだ。室町時代に完成した『二十二社註式』の伏見稲荷の条では「猿田彦神」となっている。
こんがらがるのは、「猿田」は、もともとは「さ田」と読んだようだ。そして、「さ田」とは、『神聖な稲を植える田』のことを指す。
ということで、元々は「サタ」を「猿田」と表記していたが、明治期に「佐田(サタ)に戻したということになる。
どちらにしても、「猿田彦」という道案内の神は、稲の神でもあるということだ。
◈大宮能売大神
大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)とは、『古事記』や『日本書紀』には記されない神。
『古語拾遺』では、太玉命の子で、天照大神に侍女として仕えた神とされる。
◈田中大神
田中大神(たなかのおおかみ)とは、字のごとく田の神、そこから地主神、または土着神と見られる。
◈四大神
四大神(しのおおかみ)については、諸説がある。四季の神であるとか、竈の神であるとか、ともいわれる。
なぜ、稲荷神社は狐が眷属となったのか
🔶稲荷の神と空海とのかかわり
稲荷の神は、穀物の神、稲の神としての性格をもっていた。
この稲荷の神が、「稲」に関連した様々な神と「習合」して、今の稲荷の神になってるのだ。
さらに、稲荷の神と、空海の真言密教と結び付きが、稲荷の神に大きく影響する。
空海が伝えた真言密教によって、神道と仏教が結び付いてゆく。それにより『神仏習合』が進み、『本地垂迹(ほんじすいじゃく)』思想が生まれた。
◈『本地垂迹』とは
本地垂迹とは、日本の地に現れた様々な神は、本当は仏であり、神は仏が仮の姿である、という考え。
◈稲荷の神の本地仏?
『本地垂迹』により、稲荷山の上ノ塚の本地仏は「弁財天」、中ノ塚は「聖天」、下ノ塚はとして、「吒天(だてん)」。
吒天の別名が吒(茶)枳尼天である。
吒枳尼天は、元はインドのヒンドゥー教の女神である。
空海は、唐から真言密教の「両界曼荼羅(りょうかいまんだら)」を持ち帰った。残念ながら空海が持ち帰った現物はなくなってしまったが、後世に描かれた曼荼羅の中に、吒枳尼天の姿が描かれている。
その吒枳尼天は、半裸で、血が入った器や短刀、屍肉などを手に持っている。さらに、狐に乗って描かれる。
ただし、稲荷の神を描く場合、稻束をもった老人が白い狐にまたがっている図柄も多い。
◈吒枳尼天と稲荷神と「天照大神」との【習合】
狐を眷属とする稲荷神と吒枳尼天が習合したのか、狐を眷属とする吒枳尼天と稲荷神が習合したのかは、よく分かっていない。
稲荷神に吒枳尼天という女神が習合したことで、いつしか、「天照大神」も稲荷神と習合する。
近代以前は、天皇が即位する儀式の一環として、吒枳尼天の像を祀り、真言を唱えていたという。
皇祖神となったほどの稲荷信仰が 一時荒廃したのはなぜか
一般的日常に溶け込む程になっている稲荷信仰が、一時荒廃した時期があった。それは、応仁の乱による世の中の荒廃に原因があった。
応仁の乱による混乱のほか、もう一つ荒廃の大きな原因があった。
それは、神主家の秦氏一族と、祠宮家の荷田氏の紛争だった。荷田氏は、国学の四大人の一人「荷田春満」の先祖だ。
荒廃した稲荷信仰が復活したのはなぜか
一時荒廃した稲荷信仰を復活させたのは、稲荷勧進僧たちの活躍の成果だった。
勧進僧たちは、真言密教に由来する「現世利益信仰」を説き、その教えが「現世でこそ救われたい」という願いをもつ人々の心を捉えた。
神社系の伏見稲荷と寺院系の豊川稲荷
現代人は、「神社は神社、寺は寺」という感覚を持っている。しかし、空海の真言密教がもたらした「神仏習合」、「本地垂迹」思想が行き渡っていた近世以前の日本では、神社の中に寺があったり、寺の中に神社があったりするのは当たり前だった。
稲荷信仰でも当然当てはまる。空海の東寺と関連が深い伏見稲荷は、神道系の稲荷神社だ。
もう一方で、稲荷信仰の聖地として有名な豊川稲荷は、仏教系だ。
豊川稲荷は、曹洞宗の寺院。本殿には吒枳尼天が祀られるが、寺の本尊は千手観音となっている。
つまり、神道系の稲荷信仰と、仏教系の稲荷信仰が現在でも並立して存在している。
伏見稲荷は、神道系の稲荷神を主とし、豊川稲荷は、仏教系の吒枳尼天を主とするのだろうが、本質的に両者は習合していて分かたれるものではない。
日本人は、「習合する神や仏」に違和感を持たない。「和」を基本とする日本的な思想が「神道系稲荷」と「仏教系稲荷」の共存を違和感なく実現させている。
稲荷社を屋敷神として祀るようになったのは、なぜか
稲荷神は、様々な神が集合した神だ。
江戸時代、江戸幕府によって、天下統一がなると各地の武士たちが江戸に澄むようになった。
武士たちには、新たに江戸に住むための住宅を作ることになる。その際、自分の土地の神を、稲荷神として屋敷内に祀るようになった。
当然、それは、「稲荷神」が「現世で利益をもたらす神」としての性格がを習合させているからだ。
稲荷神=土地神=自分の郷土の神=現世利益の神
このようにして、屋敷内などに個人の稲荷社が増えていった。
伏見稲荷の千本鳥居は、なぜできあがったのか
千本鳥居の歴史は、実は浅い。
🔶寛文年間に描かれた「稲荷山寛文之大図絵」に千本鳥居はない
寛文年間に描かれた「稲荷山寛文之大絵図」という寛文年間の伏見稲荷を描いた図絵の中に、千本鳥居は描かれていない。
寛文年間とは、1661年~1672年であり、江戸幕府ができて50年を経過し、平和の世が定着してきたころのことだ。
🔶江戸時代後期に描かれた「江戸名所図会」にも描かれていない
さらに天保年間(1830年~1844年)に描かれた「江戸名所図会」の中身も、千本鳥居は描かれていない。
つまり、江戸時代までは、伏見稲荷の名物の一つの「千本鳥居」はなかったのだ。
「千本鳥居」が出来たのは、明治以降ということになる。
🔶お塚信仰と千本鳥居
現在の伏見稲荷の千本鳥居の先には、多数のお塚がある。
このお塚は、お塚を建てた人が、「自分独自の神」を祀って建てている。だから祭神は多数ある。白菊大明神、末広大明神~などなど。
🔶お塚信仰も明治になってから
このお塚信仰も明治になってから広まった。なぜお塚信仰が広まったかというと、明治政府の政策「廃仏毀釈」による。
廃仏毀釈によって、神社から仏像などが取り除かれ、なおかつ「稲荷神社」は、稲荷大明神に神号が統一され、他の神号を仕えなくなった。
今までは、『稲荷神=自分が祀る○○の神』だったが、『稲荷神』は「稲荷神」でしかなくなった。
その結果、自分が祀る『○○の神』の神のために、『稲荷神』とは別に、「お塚」を築くようになる。
🔶お塚の数が増えすぎ、「お塚」が許可制となる
ところが、問題が起こった。お塚の数が増えすぎ伏見稲荷の管理者の手に余るほどになってきた。
そこで、神社側は、昭和37年(1962年)にお塚制作を許可制として、勝手にお塚を建てることを禁止した。
🔶お塚づくりが難しくなった人々の対応策!
お塚を実質的に作れなくなってしまったが、人々の信仰心がなくなることはない。
では、どうしたか。
お塚に代わるモノとして、『鳥居』を奉納するようになった。
このようにして、伏見稲荷の千本鳥居は生まれた。
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