1566年、家康は東三河、奥三河を平定し、念願の三河の国統一に成功する。こうなると、家康も官位がほしい。
だが、家康が官位を得るには、秘策「松平姓から徳川姓へ改姓してしまおう」作戦が必要となる。
はたして、その作戦が必要な理由とは。
家康は、「いつ」どういう理由で「松平から徳川」に改姓したのか
三河統一を成し遂げる
1561年(永禄4年)、桶狭間の戦いの次の年、松平元康は「東三河をだれが取るか」をかけて、関係を断った今川氏の跡継ぎである今川氏真(うじざね)と争っていた。
今川家と関係を断ったのを契機に織田信長とは和睦し、『領土不可侵』の約束ができあがる。
1562年(永禄5年)、元康は鵜殿長照が守る上之郷城(愛知県蒲郡市)を攻め落とし、長照の二人の子を捉えた。
この長照、実は今川氏真と従兄弟同士の関係。
元信は、長照の二人の子と、氏真にとらわれている自分の妻の瀬名姫、嫡男の竹千代(後の信康)、そして長女の亀姫の人質交換を求め、成功させたのだった。
氏真にすれば、自分の身内を見捨てることが出来なかったわけだが、元康に見事に人質奪還をされてしまったことで、今川家の命運はほぼ尽きる。
これ以後、松平の優位が決定し、1566年(永禄9年)元康は念願の旧領回復を成しとげることに成功した。
元康から家康に改名
1563年(永禄6年)、元康の嫡男竹千代と、信長の次女徳姫が結婚した。竹千代5歳。絵に描いたような政略結婚で、実際には5歳の子が結婚できるわけがない。
そこで、実際に結婚したのは、4年後の1567年、竹千代が元服して信康となってから、とは言っても、9歳だ。
「どうする家康」の中でも、金平糖を巡って信康と徳姫が争う場面が描かれていたが、ままごとのようないさかいは本当にあっただろう。
ただし、信康と徳姫のままごとのようなケンカは、後に訪れる信康切腹の要因となる、徳姫の父信長への「チクリの手紙」の伏線なのかもしれない。
とにかく、この時点、元康は織田との結び付きを強めていっ時期である。
そこで、竹千代と、徳姫の結婚の時に、自らの名乗りも、今川義元の「元」の字を改め、「家康」とした。
この改名は、「俺は、今川との関係を断つぞ」というアピールだったわけだ。
「松平」姓から「徳川」姓へ【改姓の裏事情】
家康が、松平から徳川に改姓したのは、1566年(永禄9年)、12月のこと。
家康は、正親町天皇(おおぎまち天皇)から、従五位下三河守(じゅごいの下、みかわのかみ)に叙任任官されている。
ただし、実際に勅許が得られたのは、翌年1月のこと。
さて、この官位を得るためには、ちょっとしたウルトラCの裏技が必要だった。
というのは、この官位を得るには、家康が公家の血筋で無ければならないのだ。
当然「松平」などという、「どこのだれだか分からない姓」では、官位をもらうことができない。
そこで、家康は、知識のある公家に相談した。例えば近衛前久(さきひさ)や吉田兼右(かねみぎ)。
何々、先祖は、時宗の僧で群馬県から流れてきた。そうか、そこを治めていたのは、源氏の血を引く徳川氏だったな。
では、松平氏の祖先は、徳川か。
だが、徳川では武家であり公家では無い。何か策は無いか。
徳川から出た者で、京都の誓願寺で金銭の収支を管理する納所(ないしょ)に務める慶深(けいしん)という人物がいます。この慶深が『徳川氏は、かつて近衛家に仕えていた』と証言しております。だから、松平は、徳川で公家に仕えていた者、つまり公家です。だから、家康は公家なので「藤原」姓であります。
という、トンデモ理屈をひねり出した。
これにより、松平家康は徳川であり、徳川の中の公家の流れであり、本姓は「藤原」である、という理屈ができあがった。この理屈で官位を得ることができた。
正親町天皇から届いた勅書には、「徳川家康」ではなく、「藤原家康」とある。
だが後年、「藤原姓」では困ったことになった。
征夷大将軍になるためには、源氏でないとなれないのだ。そこで、1602年(慶長7年)に征夷大将軍になるために、徳川の本姓は「源氏」であることを主張する。
以後、歴代の将軍の本姓(天皇から与えられた姓)はすべて源氏、徳川家康の本姓は「源家康」。
「徳川」ではなく「得川」でおじゃろう
家康は徳川姓を手に入れることで、公家の藤原姓として官位を手に入れ、全国統一後は武家の棟梁として、源氏姓も手に入れた。
だが、公家の中では、「徳川」ではなく「得川」と表記される。それは何故?
家康は、公家の仲介料を渋った
家康は、叙位任官を受けるに際して、公家の智慧を借りた。それによって、「家康は徳川という公家の出」とする智慧を得、それを朝廷に伝えた。
この仲介をしたのが、近衛家の人物であり、吉田家の人物であった。
当然、家康の思わく通りに叙位任官された後は、お礼をすることになる。
家康は、近衛家に対しては、馬と200貫文(現在のお金に直すと、およそ2千万円)を渡す約束になっていた。
だが家康は、近衛家には馬だけを渡し、お金は10文の1の200貫文(200万円)しか渡さなかった。
吉田家に対しては、馬を渡す約束だったが、吉田兼右が生きているうちには、その約束を実行しなかった。
「武士に二言はない」というのは、平和の時代の言葉なのだろう。「なんと、まあ……。」だ。
そこで、公家たちは、
「徳川?」なんでおじゃろうか。
「得川」でおじゃろう。
と、「得川」表記を用いている、などという解釈はどうだろう。
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