水戸学の中心人物 斉昭は、本当に攘夷派だったのか
水戸学は、「良いものは良いとして取り入れ、悪いところは排除して取り入れない」という根本思想を持っていたはずです。
そのような水戸学が、「技術的に進んでいる西洋の技術や学問を、安易に批判するのはおかしいのではないでしょうか。」
確かに「攘夷」思想は、水戸から広まりました。水戸学と言えば「尊皇攘夷」、「尊皇攘夷」と言えば水戸学、というイメージです。
しかし、英明で水戸学の神髄を知る斉昭が、本当に「攘夷」思想に凝り固まっていたのかと疑問に思ってしまいます。この点について深作安文氏は、どのように捉えていたのでしょうか。
水戸の攘夷論は、『方便論』だった
深作氏は、水戸の攘夷論について『世間ではこれを誤解している者もあるようです。』
と、「水戸の攘夷論」に対する誤解を指摘します。 おそらくこのブログを読んでいる多くの方も、同じような誤解があるのではないかと予想します。
一言で言うと、水戸の攘夷論は、『方便論』だったのです。
当時の日本は、国力が弱くて大変に危機的な状況でした。このような力の無い状態で、何の供えもないまま、強い力をもった外国と本格的な商取引をしたら、どうなるでしょう。
日本は強い国の餌食になってしまいます。
徳川斉昭公も、藤田東湖も、会沢正志斎も、このことが見えていました。
では、どうしたらよいでようか。
日本で一番最初に開国を主張したのは徳川斉昭
斉昭公たちは、
「先ず攘夷論を唱えて人心を鼓舞し、しかる後に機会を捉えて通商を開始するのがよい」
と考えたのです。
斉昭公などは、
「外国人が日本に来て商館を建てることは許さないが、その代わり自分がアメリカに行って、アメリカで必要な品物を買って日本に送ろう」
と意気込んでいたほどだといいます。
また、深作氏は直接栗田寛氏から聞いた話として以下の話を載せています。
明治8年4月4日、明治天皇が小梅邸に御臨幸されたことがあります。そのときのお供の中には大久保利通も同行されていたそうです。
貞芳院(ていほういん・斉昭夫人)様や昭武侯が御接待申し上げて、様々な御宝物を天覧に供し奉ったところ、その中に斉昭公の書かれた一通の封書がありました。そこで天皇は、
「これを読んでみよ」と大久保に命じられたのです。
大久保は、それを読んでいるうちに、涙を流して、つぎのように奏上したということです。
「これまで、開国、開国と言ってそれを主唱したのは自分たちであると思って、いささか得意になっていたのですが、今これを拝見しますと、すでに斉昭が唱えています。日本で最初に開国を主張したのは徳川斉昭なのです。これは何とも恥ずかしいことです。」
明治天皇は、さらに次のように述べられたと言います。
「この書(斉昭の書)を持ち帰ってよく研究するように」
と。
水戸学を簡単に言うと「尊皇攘夷」だというが、それは浅い理解
水戸学と言えば、「尊皇攘夷」と反射的に出てきます。しかし、どうやらそれは浅い理解です。
そもそも水戸学は、「良いところは良いとして取り入れる」、これが根本思想です。そのような水戸学の中心人物である斉昭公が、単純に「攘夷論」を主張したというのは間違いです。
日本に迫ってくる外国諸勢力が、どのような力を持っているかを分析し、また日本の国力、並びに人々の世界の情勢の理解力を考慮した結果が、「方便としての攘夷論」だったのです。
水戸学の最大の課題は、どう開国するかにあった
国力が弱いまま、開国すれば、諸外国の餌食となる。そのために、どのように国の在り方を変えていくか。
「どう開国するか」
このハテナこそが、組織論やシステム論に重点が移った後期水戸学の最大の課題であったのだと思います。
この深慮が、水戸一藩の悲劇を生みましたが、最終的には諸外国のような「革命」ではなく、自らが自らを変える「維新」を生んだのでしょう。
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