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日本を創った思想家 『法然上人』の新しい仏教解釈

法然

 男は、宿敵明石定明に襲われ、深い傷を負った。男の名は、漆間時国(うるまときくに)。死が目前に迫る時国の前に、9歳になる息子「勢至丸(せいしまる)」がやって来る。幼い息子が、涙ながらに,そしてけなげに宣言した。『父上、敵は必ず私が討ち果たします。』

 息子の言葉がうれしくはあった。しかし、時国は、苦しい息で息子を諭す。『敵討ちなど考えるでない。敵を憎んではならない。それより、お前は出家して、仏門で出世して欲しい。』
 これが遺言となる。

 父の遺言通り、勢至丸はその後出家し、日本仏教史・思想史に残る宗派を生み出す。
 鎌倉新仏教の一つ、浄土宗の法然上人である。

目次

それまでの仏教とどこが違うのか

<法然上人概略>

日本を創った思想家たち(鷲田小彌太氏著・PHP新書)140人から、『法然上人』について見ていく。

 法然上人が生きた時代は、1133年(長承2年)~1212年(延暦2年)。

 美作の国(現在の岡山県)久米に生まれる。

 父の名は、漆間時国(うるまときくに)

 幼名は勢至丸(せいしまる)

 幼いときから、秀才として有名であった。

比叡山へ

ウィキペディア

 父漆間時国の遺言通り、勢至丸は、漆間氏の菩提寺で出家し,源空と名乗った。優秀な源空は、すぐに頭角を現す。「この子は、本当に秀才だ。この寺ではもったいない。」と考えた住職は、比叡山に推薦の手紙を書いた。

文殊の像を、一体進呈する』

 と、いうものだった。
 しかし、手紙の他、「文殊の像」など無い。比叡の僧たちは、怪しんだが、「文殊の像」とは、すなわち勢至丸(源空)で在ると理解した。

 法然は、比叡山で修行を続け、40歳を越えるころには、
『比叡山に並ぶ者なし』
と、言われるまでになった。

報恩蔵にこもる

 比叡山で修行に励んだ法然であったが、法然の求める「すべての人が救われる」手立ては見つからなかった。

 そこで、40歳を越えたころに、法然はお釈迦様の教え7千巻を蔵する報恩蔵へ向かった。

 そこで、7千巻の経典を5度にわたって読み返し、ついに中国の善導大師の教えを発見する。
 観無量寿経によって、弥陀の本願、「阿弥陀様がすべての人を救ってくださる。これは、すでに約束されたこと。だから、南無阿弥陀仏と念仏を唱えることに専修することですべての人が救われる」という、他力本願思想を見いだした。

ウィキペディア:善導大師

日本思想史上の『法然上人』の功績は何か

 法然上人の思想史上の功績を一言で言えば、

『高貴な者』『学識のある者』、つまり『権威ある者』の『仏教』を、『大衆』のものにした。

 衆生救済

 法然上人は、『一般の人々(衆生救済)を助けるためにはどうすれば良いか』という問題意識をもって、いらっしゃった。

 法然上人以前の仏教は、『お金持ちで寺に寄進をする人が救われる』とか、『仏教を理解する知恵を持つ人のみが救われる』というように、在る特定の特権階級の人しか救われないという教えだった。

 しかし、法然上人が生きた平安後期から、鎌倉時代の初期は、世の中が武士の世に移る過渡期であった。人を殺すことが日常茶飯事に起こり、あちこちで血なまぐさい武力抗争が起きている。

 この頃、世は末法思想(お釈迦様没後1500年を過ぎると末法の世に入るという考え方)。あの鴨長明が、隠遁生活に入ったのも、末法思想の流行に一因がある。

 民衆も、心の支えが必要だった。
 しかし、それまでの特権階級だけが救われる仏教では、民衆に救いが無い。

 その民衆が救われる仏教の考え方をまとめたのが、法然上人であった。

 衆生本願(救済)という。しかし救済が、寄進次第ならば少数の富貴しか、智慧高才しだいならば少数の知者しか、持戒持律しだいならば少数の戒をもつ者しか救われない。大多数を占める貧賤、愚痴、破壊の者は往生の望みを絶たれる。

選択本願念仏集

 と、法然は唯一とも言える自分の著書,選択本願念仏集で語っている。

どうすれば衆生を救えるか 『専修念仏』の教え

 すべての人々を救うために、どうすればよいか。

 法然上人は、『専修念仏』の考え方を人々に示した。

仏の大悲と憐憫にかなう、凡夫を救済する最善の方法はあるのか。
念仏を勧めるのは、各種の修行を邪魔するためではない。念仏は、男女喜撰が日常と非常を問わず、いつでもどこでも簡単に行うことができる。誰でも出来る念仏だから、すべての衆生が平等に往生できる。~専修念仏だけで凡夫が往生できる。(来世に救済される)

日本を創った思想家たちより

と説いた。

 鎌倉新仏教と言われる。
法然、親鸞、一遍、日蓮、栄西、道元などが起こした新宗派を指す。
何が『新』なのか。

 民衆が救われる方法を示したことが、今までの仏教に比べ『新』。
その中でも、法然上人の存在は大きい。法然上人の教えによって、日本の隅々にまで仏教が広まることになった。

法然上人は、なぜ仏教界から弾圧されたのか

 法然上人のころの仏教は、聖道仏教が主流であった。厳しい修行をした人のみが自分の力によって救いを得られるという、『自力本願』の教えだった。

 対して、法然の教えでは、『他力本願』
 どんな人も、阿弥陀様が救ってくださるという「約束」をしてくださっている。金持ち、智慧、身分などの自分の有り様によって救われるのでは無い。どんな人も、すでにお阿弥陀様によって救われるという約束ができあがっているので、例外なく救われるのだ、という教えだ。

 このように説く法然は、既存特権をもっていた旧仏教勢力にとって、好ましからぬ存在だったことは想像に難くない。比叡山や奈良興福寺から法然批判が起こった。

元久の法難

 1204年(元久元年)比叡山は、専修念仏の差し止めを求めて挙兵。法然申し開きをして一応の解決。
 1205年(元久2年)奈良興福寺が、「専修念仏の教えは他宗を軽んじている等」として挙兵。朝廷は、法然に専修念仏の停止を申しつける。

建永の法難

 1206年(建永元年)、後鳥羽上皇が熊野参詣のために京都を留守にする。その間に、上皇の女官が法然の弟子を招き出家をしてしまう。
 起こった後鳥羽上皇は、法然の弟子二人に死刑を申しつける。そして、法然にも「専修念仏の停止」と「四国遠流」を申し渡した。
 この時、法然上人75歳。

 弟子たちは、大いに騒いだ。
 しかし、法然は、「流刑を恨みに思ってはならない」と、弟子たちに言い渡す。
 「流刑は、朝廷からのご恩とも言える」「お念仏の御教えが広まることは、だれがどれほど、押しとどめようと、決して留まることは無い」と言い切る。
 あたかも少年の日に、父漆間時国が自分に告げたように。

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法然

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