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初の女性弁護士:三淵嘉子(寅子)・久米愛(山田よね)・中田正子(桜川涼子)

弁護士法が改正され、寅子(モデルは三淵嘉子)たち女性も弁護士になれる道が開けたのは,、昭和11年(1936年)のことでした。

旧弁護士法の第二条第一項には、「弁護士たらんと欲する者は… 日本臣民にして民法上の能力を有する成年以上の男子たること」と規定されていました。この項目が削除されたのです。

これにより昭和13年(1938年)に、3人の女性が高等文官試験司法科試験(現在の国家公務員採用試験)に合格しました。「虎に翼」の寅子のモデル三淵嘉子らでした。

では、寅子以外の二人は誰で、「虎に翼」の誰にあたる女性なのでしょうか。

目次

資格試験に合格した3人の女性

法曹界(法律家の社会)といえば、裁判官、検事、弁護士さんなどを思い出します。

日本では戦争が始まるちょっと前まで、女性は弁護士にはなれませんでした。
弁護士法という法律で、「女性は弁護士にはなれない」という決まりだったのです。

裁判官や検事については、「女性はなれない」とは法律に書かれていなかったのです。しかし、弁護士と同じように、女性に「国の仕事、ましてや法律を任せる事は出来ない」という、不文律がありました。

つまり「女性は、弁護士同様、裁判官にも検事にもなれない」
という、暗黙の了解があったのです。

当時の民法に、
『女性は婚姻により無能力者になる』
とされていたことが理由として挙げられていました。

このあたり、「虎に翼」の中でも、寅子が『女性は無能力者』という言葉に反発するエピソードが描かれていましたね。

また、当時の資格試験である司法官試補採用の告示には「日本帝国男子に限る」と明記されていたのです。
つまり、女性は、司法官(裁判官・検察官・弁護士)の見習いとなるための資格試験が受けられなかったのです。

このため、初の女性裁判官への道が開けるのは、昭和11年(1936年)の弁護士法の改正を含む戦後の司法制度改革を待たねばなりませんでした。

そしてついに、弁護士法改正から2年後の昭和13年(1938年)に女性初の合格者が3人誕生したのでした。
一人は寅子のモデル三淵嘉子(みぶちよしこ)
後の二人は、久米愛・中田正子です。

虎と翼では、意外な展開

「虎と翼」第6週で、最初の女性弁護士の誕生が描かれる。

だが、ドラマでは史実と違った展開になるようだ。
寅子(モデル・三淵嘉子)が、一度は失敗するものの最終的に合格する展開は史実通り。

だが、史実では一緒に合格する中田正子(桜川涼子)と、久米愛(山田よね)の結果は違うようだ。
桜川涼子は、家の事情で受験をあきらめる。
そして、久米愛は試験に合格できなかった。

このあたりの史実とのずれは、「虎と翼」の中で今後どのように描かれていくのか、目が離せない。

男装のツンケンキャラ「山田よね」のモデル:久米愛

久米愛は、虎に翼でツンケンした男装のキャラ「山田よね」として登場しています。
演じているのは、土居志央梨さん。

NHK「虎に翼」より

久米愛は、明治44年1911年、大阪府に生まれました。
三淵嘉子さんの3つ年上です。

父親は、大阪の電力会社の社長さんでした。
資産家の娘さんだったのですね。

兄妹に9歳違いのお兄さんがいます。
このお兄さんも大変に優秀な方で、ハーバード大学を出ています。
後に慶應義塾大学の名誉教授となった人でした。

久米愛さんは、このアメリカ留学経験のあるお兄さんから多大な影響を受けました。
彼女の『男女平等』の思想もその一つだったのでしょう。

彼女は当初津田英学塾(現在の津田塾大学)で英語を学んだ後、弁護士への道を志して、明治大学専門部女子部に入学し直しています。

当初は、学んだ英語を生かして英語の先生になることを考えていたようです。
ですが、当時の不況の影響で英語教師の雇用数が激減してしまい、教師の道はあきらめたようです。

職業について悩んでいたときに、彼女のお父さんが、
「お前は口答えの名人だから、弁護士にでもなったらどうだ」
と言ったのだとか。

彼女は、父の言葉が引っかかっていたのでしょうね。
父の言葉通り、やがて日本初の法律家のうちの一人となりました。

久米愛の結婚相手

久米愛さんは、人生を左右する運命の1938年の試験前に、なんと結婚しています。

お相手は、久米知孝さん。
日立製作所に務める技師さんでした。

ただし二人は、結婚式を挙げていません。
結婚という形式に縛られない、新しいタイプのカップルでした。

このあたりの考え方、気骨が、虎に翼でスーツを着て颯爽と歩く山田よねさんですよね。

二人が結婚したのは1938年の1月でした。
その8か月後の9月に、知孝さん招集礼状が届きます。

このパターン、ちょっと嫌な流れですよね。
知孝さんは、どうなるのでしょう。
愛さんの運命は…!

安心してください。
友孝さんが、招集されて不在の間のこの年(1938年)の11月に、愛さんは資格試験に見事に合格を果たします。

そして、招集されてからわずかな期間で知孝さんも帰ってきたのでした。

そして、二人の間には可愛い男の子が生まれます。

長男の死

幸せな生活を送っていた久米家でしたが、1940年代戦果は激しさを増していきます。
そして、昭和16年(1941年)に知孝さんに再び招集礼状が届いたのでした。

長男生まれて、たったの5か月のことでした。
今度こそ、知孝さんは…、とよからぬ運命を想像してしまいます。

ところが翌年(1942年)、知孝さんは肺炎をわずらい帰国してきたのでした。
病気にはなりましたが、太平洋戦争で命を落とすことは無かったのです。

ところがです。
何と終戦の翌年(1946年)、これから平和な世が訪れるという矢先に、愛さんと知孝さんの長男は、わずか4歳で亡くなってしまいます。

名前、死因については公表されていません…。

戦後の久米愛の活躍

スラックスを常用している方でした。虎に翼の山田よねそのものです。

夫婦財産制の平等化
離婚後の養育費問題

日本政府の代表代理・国連の会議参加
戦争犯罪・宗教問題

などに、強く関心をもって取り組まれていました。

昭和 25年(1950年)に、 女性の弁護士・裁判官・検察官に大学の法学研究者など10 余 名 で 、日本婦人法律家協会を設立し、久米愛が初代会長となりました。

ちおなみに、副会長は三淵嘉子(寅子のモデル)でした。

この会の活動の一環として、最高裁判所の人事担当を訪れ、直接『どうして女性は、裁判官や検察官になれないのか』と、問いただしています。

このあたり、寅と翼の中でも描かれるのでしょうね。

久米愛の死

久米愛は、三淵嘉子、中田正子の3人の中で最も早く亡くなります。

昭和51年(1976年)のことでした。
死因は、膵臓ガン。

戦後は弁護士として活動するかたわら、女性の社会進出を支援する活動を続けた久米愛さん。
ロッキード事件・そしてアントニオ猪木とモハメドアリの世紀の対戦に世の中が沸き立つ昭和51年に永眠されました。

次章は、桜井涼子のモデル中田正子さんについて…。

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女性弁護士

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