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鎌倉公方満兼が定めた 関東八屋形(関東八館)とは何か

足利幕府の地盤固めを進める3代義満は、三管領家、四識家を定め、組織強化を図った。同じように関東でも、鎌倉公方足利満兼「関東八屋形(八館)」を定め、関東武士の家格を設定する。
常陸の佐竹氏と小田氏、下総結城氏と千葉氏、下野の小山氏、宇都宮氏、那須氏、長沼氏(大掾氏を当てることもある)、この八つの家に満兼は「御屋形」の号を与えました。関東八屋形(八館)です。

目次

義満が定めた家格 三管四職

 常陸の国での南北朝最後の争いは難台山合戦と言われる戦いです。この合戦が起こった頃は、3代将軍義満の時代でした。

 義満は、1369年にわずか10歳で将軍の座についています。1380年代は、将軍として脂が乗ってきた時期と言えます。
 義満は、天授6年/康暦2年(1380)従一位内大臣となって北小路室町に花の御所を造営し、きらびやかな新しい時代が到来したことを天下に示しました。

不安定なイメージの強い足利幕府ですが、義満の頃は室町時代の中では安定期です。義満は、その安定を保つためにどのような政策を行ったでしょうか。

一番に挙げられるのは、「家の格式」を定めたことです。

三管 「三つの管領家」

 まず、トップとして「三管」と呼ばれる三つの家です。細川家・斯波家・畠山です。
 三管の管とは、管領家のことです。管領家は将軍に次ぐ役職です。将軍を補佐し幕政を統括する役目でした。幕人筆頭として重要な行事運営を取り仕切ることができる家柄ということになります。

畠山管領家と、鎌倉殿の13人に出てきた畠山重忠は関係があるのか

 畠山には、二つの流れがあります。一方は桓武平氏系、もう一方は清和源氏系です。
 鎌倉殿の13人の登場人物「畠山重忠」は平氏系です。重忠の畠山家は北条氏によって滅ぼされます。テレビでは、小栗旬演じる義時が、重忠に同情する様子が描かれています。でも、実際は重忠を殺した後、義時主導でわずかにの残った畠山の血を引く幼子まで探し出して殺しています。

当時としては、血筋を残せばいつか自分や自分の子孫を脅かす存在となるのでしょうが、「えげつない」「そこまでやるか」という気持ちになります。

三谷幸喜さんも、流石にそこまでは描かなかったのですね。

もう一方の源氏系畠山氏は、足利氏一族です。後にこの畠山家で家督争いが起こり応仁の乱の一因となります。しかし、この家は明治以降も生き残る数少ない武家の一つです。

四職家とは

 四職家とは、赤松・一色・山名・京極の各家を指します。
 侍所頭人(長官)を務めることができる家格の四家です。家格としては、管領家の次となる有力守護家です。しかし、赤松氏が嘉吉の乱(1441)で没落するなどして、この四家から安定的に侍所頭人が出ていた、といえる期間はありませんでした。

その他の主な家格 相伴衆と国持衆

 御一家

 室町将軍家と同族で、征夷大将軍の継承権を持っている家です。吉良氏、渋川氏、石橋氏のことです。特に御一家の筆頭として吉良氏が位置付けられていました。

御一門

 畠山、斯波、細川、桃井、吉良、今川、石橋、渋川、石塔、一色、上野、小俣、加子、新田、山名、里見、仁木、大館、大島、大井田、竹林、牛沢、鳥山、堀口、一井、得川、世良田、江田、荒川、田中、戸賀崎、岩松、吉見、明石
 これらの足利一門は、他の武家と一線を画していました。武家の御旗をもらって他家と区別され、幕府の奉公衆と出会っても下馬する必要がない家格、とされました。

 相伴衆(しゅうばんしゅう)とは、

 将軍が殿中や他家を訪問する時に付き随うことができる家格を持つ有力御家人です。
 相伴衆には、管領家としての三家も含まれます。主に侍所頭人としての四職家を指します。さらに、佐々木氏など一部の有力守護も含まれます。

国持衆

 斯波氏、細川氏、山名氏、土岐氏、武田氏、今川氏、六角氏、冨樫氏など。

 凖国持衆としては、細川氏、京極氏など。

 御一家・御一門とそれ以外、
 管領家→四職家→相伴衆→国持衆→外様などの家格が確立されました。

奉公衆

 将軍直属の奉公衆(近衆)、一般の御家人や地頭と区別され、将軍の直属として使える武官としての御家人です。(文官は奉衆と呼ばれました)

京都扶持衆

室町幕府の征夷大将軍と直接主従関係を結んだ関東や東北地方の武士です。
 ここに、板東の武家が入ります。例えば、佐竹家庶流の山入佐竹家、大掾一族の小栗家、下野の宇都宮家、甲斐の武田家、奥州白河の結城家などです。

京都の家格を定める動きに対し、鎌倉は関東八館を定める

鎌倉公方家紋

 京都の動きに対して鎌倉三代目の公方、満兼(在職:応永5年(1398) ~ 応永16年(1409))はどのように動いたでしょうか。

鎌倉公方満兼も、幕府と同じように「関東八屋形(八館)」を定め、関東武士の家格を設定する動きを見せました。

 常陸の佐竹氏と小田氏、下総結城氏と千葉氏、下野の小山氏、宇都宮氏、那須氏、長沼氏(大掾氏を当てることもある)
この八つの家には、「御屋形」の号が与えられました。

 難台山合戦で公方に逆らった小田なども御屋形になっているのは、ちょっと以外ですが、八屋形ともに板東で有力な家なのである程度納得です。

板東諸国

八屋形が常陸・下総・下野に集まっているのは何を物語っているのでしょう。
 鎌倉幕府で有力武将だった、南関東の三浦、和田、平家流畠山などが滅んだり、家勢が弱まったりしていたからでしょう。

 室町時代の鎌倉府の有力武将は、北関東に固まっていたようです。

八屋形の中に長沼氏を含めない書物もあります。長沼氏は小山氏の庶流です。八屋形に長沼氏を含めず、常陸大掾氏を含めることもあるのは間違いではなく、長沼氏が滅んでしまったので、その後に、昔からの常陸の名門である大掾氏を加えたということです。

  

佐竹13代義盛も 佐竹内家臣団の格式制度を確立する

  佐竹13代となった義盛(康応元年/1389年当主となる)の時代に、関東八館の一家となった佐竹家は、同じように家臣団の家格制度を確立していきました。

家格制度により、「安定を図らなければならない」ということは、裏を返すとそれだけ「そうしないと危ない状況にあった」ということです。

家格を定め、自家内に位置づけましたが、それぞれの家は自領を持つ独立性の高い国人でもあったわけです。

義盛のもとで家格制度を確立した佐竹氏は、しばらく常陸守護として安定した道を歩みます。しかし、応永14年(1407)佐竹本家にとって、一大危機が訪れます。

13代義盛が嫡子をもうけないまま、43歳でこの世を去ったのです。「本家に嫡子無し」というこの状況を、佐竹一族はどのように乗り切るのでしょうか。

 

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