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北畠親房と結城親朝の考え方の違いが招いた、板東における北朝の勝利

ブログの要点

北畠親房と結城親朝の考え方の違いが招いた、板東における北朝の勝利

親房の考え方は、「尊皇のために働くことが武士の努め」、そして親房はこう動いた
親朝の考え方は、「恩賞と官位ありき、名文はその後」、そして親朝はこう動いた


「利」を第一とした親朝に対し、「大義名分」を貫いた春日顕時は、どうなったか。
・「義」に準じて散った。

目次

北畠親房と結城親朝の考え方の違いが招いた、板東における北朝の勝利

 親房が小田城で神皇正統記を書き終えたのは延元4年(北朝暦応2年・1339)のことでした。
 この書は、後醍醐天皇の後を継いだ後村上天皇のために書いたとする説のほか、『より広い範囲の読者を対象とする社会的意義を含む著作であった(平田俊春『神皇正統記の基礎的研究』)』という説もあります。
 神皇正統記の中で、親房は

官位や所領は天皇から与えられるものであって、要求すべきものではない。

という意味のことを述べています。
 このことからも、親房の考え方と武士たちの間には、「齟齬があった」ことが分かります。
 「所領の給付や官位の任命は天皇による」「所領や官位をとやかく言うのは忠の道に反する」「大義名分をわきまえ、天皇のために働くべきである」とする親房に対して、結城親朝はじめ奥州の武士たちの心は、ますます離れていきました。
板東での南朝敗北の要因は、ここにありました。

春日顕国(顕時)の常陸入り

 神皇正統記完成の少し前、東国の抑えとして親房の変わりとなる人物、春日顕国(後に「顕時」と改名)が東国入りしました。親房は、「顕国に東国を任せ、自分は奥州に行きたい」という希望を持っていました。実際、顕国の到着後、顕国効果もあって、しばらくは南軍の勢いが回復しました。
 そこで、顕国到着とそれによる南軍の勢いが盛り返したことを結城親朝に知らせ、自分が奥州に行けるように「兵を出して道を開いてくれ」と、また親朝に出兵依頼をしました。(延元4年(1339)3月20日付「結城文書」による)
 しかし親朝へ「恩賞については暫く待つべきこと」、さらには「依上保(大子)を故北畠顕家の女子(自分の孫)の養育料としての土地としたい」などと伝えていました。

勢いを盛り返しつつあった南朝軍に対する足利軍の対応

 足利軍は、高師冬を送って南軍の勢いを削ごうとします。師冬が常陸に侵入したのは、親房が「神皇正統記」を小田城で書いていた延元4年(1339)10月3日と言います。

駒城の戦い

常陸入りした師冬は、10月25日に現下妻市の駒城を攻めました。翌延元5年(1340年)正月には関城の関宗祐、小田城に拠っていた春日顕国らが援軍として駆けつけました。しかし、興国元年(1340)5月27日、足利軍の夜襲によって駒城は落城してしまいます。
 一時は、足利軍に占領されましたが、南軍は諦めずに逆襲し、駒城奪還に成功しました。
 城を奪還された高師冬らは、陣営を焼き払い逃れました。そして、11月には瓜連城に入ります。この時点で師冬軍はだいぶ戦力がダウンしていました。
 もしこのとき、結城親朝が動けば南北朝の歴史は変わっていたかもしれません。
 親房は「常陸の二階堂時藤の旧領を親朝に与える」と、親朝の気を引く書状を送ったのですが、それでも親房は動く気配を見せなかったのです。

 足利軍の事情

 奥州の親朝軍を動かすことができない南軍に対し、高師冬軍はどうだったでしょう。師冬の軍にも思うような兵力を動員できない事情がありました。
 足利直義(ただよし)と高師直の内部対立のせいで、上杉憲顕の協力が得られず兵力不足に陥っていたのです。

親朝の書簡

 この頃親朝は、息子の親胤に弾正少弼(だんじょうしょうひつ)への叙任を望みました。
 しかし親房はこう動きました。「弾正少弼は殿上雲客(てんじょううんかく)が任命される位であり、大功があるときに叙任されるもの。(親胤は何の大功も無いのに叙任などできないでしょう。)」と返しました。
 

南朝内のただならぬ動き

 興国2年(1341)5月、高師冬は瓜連城を出て小田城を目指し南下を開始します。6月には、大掾高幹が志筑城(旧千代田村)を攻めました。
 このような時期に南朝軍内部で不穏か動きが起こります。
 前の関白近衛経忠が、小山氏と結び北畠親房に対抗して、東国に独自の政権を樹立しようとしたのです。
 経忠が将軍となり、小山氏を板東管領とするという動きです。この動きを知った多くの板東武者たちは、このまま親房の側についていて良いものかと動揺します。

北朝側にとってはチャンス到来

 北畠親朝らの奥州軍は動かず、板東内部の武士たちは親房に対し疑心暗鬼です。興国2年(1341)6月ごろには、小田城の背後まで北朝軍に迫られました。
 9月に入ると、佐倉城(旧江戸崎町)、東条城(旧新利根村)、亀谷城(旧江戸崎町)、高井城(龍ケ崎市)など南軍の拠点が次々と落とされていきました。
  この時点で小田城は完全に包囲される形となりました。この情勢をみて北朝軍になびく武士が続出します。東条氏、下妻氏、長沼氏・・・。
 10月に入ると、ついに小田城内にも裏切る者が出てきました。

  そしてついに11月、今まで南軍の中心として親房を支えてきた小田治久も、北朝に寝返ったのです。
 治久が師冬の兵を場内に引き入れたので、親房は小田城を脱出します。向かった先が関城でした。

 小田城に拠っていたもう一人の南朝の重鎮、春日顕国は、下妻の大宝城へ落ちました。

関城並びに大宝城の落城

 

高師冬は、興国2年(1341)12月、降参した小田治久などを率いて関城と大宝城の二つの城の攻撃を開始しました。
 興国3年(1342)に入ると,南軍の両城の情勢はますます頻拍してきました。それでも、親房は奥州の親朝が動くことを期待し、必死に防戦していました。この時奥州の結城親朝はこう動きます。
 興国4年(1343)8月、親房の願いむなしく、親朝は南軍を見限ることを決意し足利軍として旗揚げをしました。
 最後の頼みだった結城親朝に見放され、関城、大宝城は、興国4年(1343)11月11日に落城します。関宗祐、下妻政泰らは討死しました。

北畠親房のその後

 関城落城の時、親房はかろうじて脱出に成功し、常陸から吉野に帰りました。
 常陸の南北朝内乱は、ここに終結を見ます。

 

春日顕時(顕国)のその後

 顕時は、一人板東に残り奮戦を続けます。一時大宝城の奪還に成功しましたが、すぐに捉えられ殺されてしまいました。
 春日顕時は、実は素性がよく分かっていません。村上源氏の出という説もありますが定かではありません。
 しかし、最後まで利では無く,義のために行動し散ったこの人物を、水戸学はもっと称えても良いのではないでしょうか。

  

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