日本人のこころの故郷「伊勢神宮」。
神宮を参拝する際、そして神宮の謎に迫るための「見所5選」を紹介する。
①社殿の配置
・内宮は手前に正殿、奥に東西に宝殿が二つ。逆三角形の形に並ぶ。
・外宮は手前に東西に宝殿が二つ、奥に正殿。三角形の形に並ぶ。
②内宮の千木は、内削、外宮の千木は外削
③内宮の堅魚木は10本。外宮の堅魚木は9本。
・②と③から『外宮の神は、本当に豊受大明神か』
④床屋に行ってきた後のように、整えられたかやぶき屋根。きちっと削り上げられた白木の木材
⑤内宮と外宮の正殿の奥行きは、37センチ外宮の方が上回る。
伊勢神宮は ずっと式年遷宮を繰り返し 同じ姿を保っているのか
ある旅行会社のパンフレットに伊勢神宮は、『2000年の昔から変わらない日本人のこころのふるさと』というキャッチフレーズがあった。
伊勢神宮は、『式年遷宮を繰り返し2、000年前から、その姿を変えていない』
多くの人は、そう考えている。だが実は違う。
伊勢神宮の姿は、かなりの変化を経て現在に至っている。
大まかな変化の流れは、「元の形から、木材が太くなったり大きくなったりの成長」⇒「式年遷宮の停止(復興まで約120年)」⇒「復興(式年遷宮再開)」⇒「装飾などの過剰」⇒「修正(古代?への復帰)」という変化。
成長⇒停止⇒復興⇒過剰⇒修正
を経て、現在の形になっている。
①社殿の配置 今と昔
伊勢神宮の最も奥まったところにある聖域は、内宮も外宮も正殿と二つの宝殿からなる。
🔶内宮
内宮の聖域は、瑞垣に囲まれた縦長の長方形の形。中央前方に正殿が南面して位置し、後方に同じく南面して、東西の宝殿がある。
正殿と宝殿は同じ形をしているが、正殿の方が宝殿より一回り大きな作り。
見た目は、三角形の底辺が上にある構造になっている。
🔶外宮
対して、外宮は同じく南面した正殿が中央にあるが、宝殿より後ろにあり、前面に東西の宝殿がある。
そして、正殿と宝殿の大きさは同じになっている。形も正殿と東西の宝殿は同じ。
ただし、外宮の宝殿は、正殿の方を向いている。つまり北面している。
内宮と、外宮は、正殿と宝殿からなる点は一緒だが、微妙に異なる。
見た目は、三角形の底辺が手前にある構造。
伊勢神宮参拝の際に、自分の目で確認すべきまず最初のポイントは、この内宮と外宮を構成する神域の構造の違いだろう。
🔶現在の神域の構成は 古代のままではない
ただし、注意しなければならないのは、内宮の社殿の配置が現在のようになったのは、第56回式年遷宮の後から。
つまり明治22年の時からだという点だ。
維新政府は、「王政復古」政策によって、天皇を中心とする国家体制の確立に努めた。そのときに、伊勢神宮を「古代」の様相に戻しなさい、という命令を出した。
🔶江戸時代の伊勢神宮の内宮の構造は、現在と全く違っていた
「2000年間、一切変わっていない」と思われがちな、伊勢神宮の構造だが、江戸時代の伊勢神宮は現在とは異なる見た目をしていた。
中央に正殿、両隣に東宝殿と西宝殿が、横一線に並んでいた。
🔶内宮の横一線の並びは、いつからか
正殿と東西の宝殿の三棟が横一線に並ぶ構造は、1585年に秀吉らが120年も行われなかった年遷宮を復活させたときだった。
伊勢神宮を復活させる時に、ある神職は外宮と同じように「前面の東西に宝殿、後方に正殿」び配置を主張し、ある神職は古くから伝わる配置どおり、「前面に正殿、後方の東西に宝殿」を主張した。
そこで、折衷案として、正殿の両隣に東西の宝殿を配置することにしてしまった。
「そんな、適当な」
とも、思える話だ。
🔶横並びになった もう一つの理由
応仁の乱の後、秀吉らが天下を安定させるまでの約120年間強の期間、伊勢神宮の式年遷宮は途絶えていた。
掘立柱構造でかやぶき屋根の伊勢神宮が、120年ももつはずはない。建物は倒壊し消失状態にあったという。
では、この120年間をどのように対処したのだろうか。
しょうがないので、神職たちは簡素な仮殿を建て、そこにご神体を祀った。
その仮殿は、正殿の位置に建てられるより、東宝殿の位置に建てられることが多かった。当然、東宝殿の格が上昇した。
その結果、1585年の式年遷宮復活の時に「正殿と東宝殿を真横に並べる」案が提案された。
だが、東宝殿だけを正殿と並べたらバランスが悪いので、西宝殿も正殿の隣に配置して横一線になったという。
こちらなら、まだ頷ける。
ともあれ、江戸時代を通して明治22年の式年遷宮がおこなわれるまでの約300年間、伊勢神宮内宮の構造は、正殿と東西の宝殿が横並びになっていた。
🔶古代は、どのような構造になっていたのか
では、古代の正殿と東西の宝殿の配置構造はどうなっていたのだろうか。
実は、当時の図面は現存していない。
間接的な史料として、鎌倉時代の初期の1190年に行われた試験遷宮の記録が残っている。それを見ると、現在の配置構造と同じになっている。
明治政府は、この時の記録を参考に「古代」を再現した。
🔶外宮の社殿配置はどうだったのか
外宮の方はどうだったのだろうか。
こちらは、平安末期の社殿配置図が残っている。
正殿が南面して奥にある。
東西の宝殿が、その前面にあるのは同じだが、向きが違う。
現在は、正殿の方に向いて(北面して)いるが、古代(平安時代後期)の図では、東西の宝殿が向かい合わせになっている。
三角形というより、下向きの「コ」の字型の配置だ。
現在の、正殿と東西の宝殿が向き合う形は、外宮の式年遷宮が復活した1563年の時から現在に至っている。
内宮では明治22年の式年遷宮の時に「古代(と思われる配置)」に改められた。
だが、どういうわけか、平安時代の記録が残っているにもかかわらず外宮の方は、「古代」に修正されていない。
伊勢神宮を訪れた際は、
内宮は、「古代(と思われる配置)」に修正されたが、
外宮は、「古代」の配置に戻されていない。
と、同行者の方にうんちくを語ってみるのも一興か。
なぜ、外宮は「古代の配置」にもどさなかったのか
では、『なぜ、外宮は「古代の配置」に戻さなかったのだろうか。』
🔶1563年の式年遷宮は、混乱?
外宮の式年遷宮の再開は、1563年。未だに戦国まっただ中なので、おそらく「古代」の調査に十分な時間や労力がかけられず混乱が生じていたのだろうと思われる。
古代とは、違った正殿・東西宝殿の配置で再建された。
🔶明治新政府下での、式年遷宮の時に なぜ古代に戻さなかったのか
しかし、中世の復活から326年後の明治22年の式年遷宮の時、明治政府はなぜ「古代」に配置を戻さなかったのか。
明治政府は、「王政復古」つまり天皇を頂点とした国づくりをすすめていた。
そこで、皇祖神であるアマテラス大御神を祀る内宮が、外宮(トヨウケ:豊受大明神)より優位であることを強調し、伊勢神宮の姿を古代に戻せと命令した。
中世以来、外宮の地位が向上し、これにともない社殿も立派になり、内宮との差がなくなっている。こうしたゆゆしき事態を是正せよ。(明治4年 政府からの伊勢神宮に下された「御改正」の命)
内宮の方が優位なのは当たり前でしょう。
なぜ、内宮の方が格が上だと明治政府はわざわざ宣言したの。
と思われるかもしれない。
だが、歴史的に見ると外宮が優位な時代もあった。
だからわざわざ、明治政府が内宮優位を宣言しなければならなかった。
本来は「古代」に則り「東西宝殿が向き合う」形に復元されるはずだったのだろうが、「古代」をそのまま再現すると、外宮の独自性が強調されることになってしまう。
そこで、あえて内宮に準じるよう江戸時代の形をそのまま踏襲し、現在の形になっている。
外宮の正殿と東西の宝殿の配置は、言うなれば創られた「古代」なのじゃよ。
②内宮の千木は内削、外宮の千木は外削
②と③は対で見るべきポイント。
②の「千木(ちぎ)」とは、内宮外宮の切妻屋根の両端に交差して飛び出している部分。
破風とも呼ばれる。
その「千木」の先の部分が天に向かって平行に削ることを「内削ぎ(うちそぎ)」という。
対して、「千木」の先端部分を垂直に平に削ることを「外削ぎ(そとそぎ)」という。
内宮は「内削ぎ」
外宮は「外削ぎ」になっている点に着目したい。
③内宮の堅魚木は10本。外宮の堅魚木は9本。
次に③の堅魚木(かつおぎ)を見る。堅魚木は現在その神社の権威の象徴として付けられるいわば飾り。棟の上に棟と直角方向に並べられた太い丸。
げんざいは飾りだが、古代は草ぶきの屋根が風に飛ばされないように,棟と構造体をつなぐ部材として用いられた。
この堅魚木の数に着目。
内宮は10本。
外宮は9本。
外宮の神は、本当に豊受大明神なのか
伊勢神宮には、二元論的な世界観が存在する。
「陰」と「陽」
「内」と「外」
内宮と外宮は、「千木」の削り方や、「堅魚木」の数がことなる。
この違いは、どういう意味を持つのか。
内宮の千木の「内削ぎ」は、「陰(女性)」を表す。
対して、外宮の千木の「外削ぎ」は「陽(男性)」を表す。
さらに、内宮の堅魚木の数は「10本」。偶数は『陰数』で女性を表す。
外宮の堅魚木の数は「9本」。奇数は『陽数』で男性を表す。
内宮の祭神はアマテラス大御神なので、女性神。だから、千木が示す「陰」も堅魚木が示す「陰」も当然。
だが、外宮はどうだろうか。祭神はトヨウケ(豊受)大明神。こちらも女性神。それなのに、千木も堅魚木も「陽」を示す。
どういうことだろうか。
◈外宮の神は、本当は男性神?
外宮は、「陽」(男性神)を示す創りになっている。
有力説として2説ある。
まず、最初の説は、トヨウケ(豊受大明神)は実は土地神(男性神)であるという説。
土地の神が、アマテラス大御神に従ったので、いろいろなものをアマテラスに献上している。
もう一つの説は、外宮の神は、実はアメノミナカヌシ(天之御中主)なのだという説。
外宮の神は、造化三神のアマテラスより格上の神だとする説。(または、天之御中主が豊受大明神と習合した)
中世の外宮の神職(度会氏:わたらい氏)たちは、「自分たちの祭神は天之御中主である」説を採用する。この考え方によって生まれた神道が、伊勢神道(度会神道)。
そして、伊勢神道(度会神道)の理論武装のもと、外宮有利の歴史が存在していた。
この歴史的事実が「外宮先参り(外宮先祭)」を生んだ。
現在の 内宮と外宮の関係
過去、内宮と外宮が本当に武力でぶつかり合うこともあった。
だが、明治政府が明治4年に『内宮の方が上だよ』というお達しを出した後は、現在のように「内宮はアマテラス大御神で、外宮は豊受大明神。豊受はアマテラスに食事を供する役目をもつ神で、内宮の方が外宮より上が当然」という常識が定着した。
『外宮先参りが、当然ですよ』
という常識は、いまでも残っている。
確かに外宮の方が力を持つ時代が実は長かったので、古い時代は、「外宮先参り」が定着していた。
しかし、明治の世になり、「内宮が上」ということが定着しているにもかかわらず、現在でも「外宮を先に参るのが常識」ということになっている。
これは、明治天皇や昭和天皇が、「外宮を先に参拝した」という歴史的事実が影響している。
「外宮先参り」は過去の中世・近世の常識であり、朝廷の立場(皇祖神への奉仕への感謝:立場を逆転した事への謝罪の意)であるのだが、今現在でも一般のわれわれの参拝形式にも、今だに大きく影響を与えている。
④床屋に行ってきた後のように、整えられたかやぶき屋根。きちっと削り上げられた白木の木材
伊勢神宮の清浄さは、人の心を癒やす。
神宮のすがすがしさは、自然の暖かさと、人工物の清浄さによる。
式年遷宮のあとは、まるで床屋に行ってきた後のように、屋根を覆う茅葺きが切りそろえられ、見事に削り上げられた白木の木材によって社殿が造られている。
だが、これは本来の神宮のすがたなのだろうか。
ある建築学の最高権威と言われた方が、式年遷宮を終えた後の清浄な姿を見て、
きれいな茅を選別してそれを一本一本並べている。きれいなことは確かであるが、まるで工芸品。もはや(神宮の)屋根とは認められない。
「これは伊勢神宮本来の姿ではない」と指摘した。
特別上等の材料を使い、必要以上の手間をかけるのではなく、本来の古来の姿の素朴さであるべきだ、と述べた。
ある僧侶のことば
室町時代の天台宗のある僧侶が、次のように行った記録が残っている。
神道をジンドウと濁らずに清音で読むのは、何事もありのまま、自然体がよいという考え方からである。だから、伊勢神宮の茅葺きは先端を切り揃えず、また垂木も削らないのである。
中世の伊勢神宮は、屋根はボサボサ。垂木の表面はすべすべではない。ましてや金箔など施されていない。
仕上げ方は、ごく自然で飾り気がない。
さすが伊勢神宮、とてもきれいな正殿や宝殿だね。
という、同伴者に
昔(中世)の伊勢神宮は、どうだったと思う?
と言って、うんちくを語ってみるのも旅の楽しみ。
⑤内宮と外宮の正殿の奥行きは、37センチ外宮の方が上回る。
現在の内宮の正殿と外宮の正殿を比べる。
正面から見ると、内宮正殿は、11.2メートルに対し、外宮正殿は10.2メートル。内宮が1メートル広い。
奥行きに関しては、内宮が5.5メートルに対し、外宮は5.8メートル。
その差は、約37センチ。
外宮の方が広いのだ。
🔶古代の内宮と外宮の正殿の広さは、どちらが大きかったか
正殿の建築についての最古の資料は、804年のもの。
さらに奈良時代にも記録が残る。それを見ると、古代においては内宮の正殿の方が外宮を大きく上回っていたことが分かる。
幅は2割増し。奥行きは1割増しで内宮の方が広い
🔶外宮の奥行きが、内宮より広くなっているのは中世の常識 「外宮優位」の名残
現代の外宮正殿の奥行きが、内宮正殿より広い作りは、江戸時代の初期の記録と同じ。
つまり、式年遷宮復活のどさくさの時に、中世で力を持っていた外宮関係者が、密かに自分たちの正殿を目立たないように奥行きだけ広くしたのではないだろうか。
そして、この構造は、明治期の「古代の姿に戻せ」という政府のお達しの時も見逃され、現在の姿(創られた古代)として残っている。
内宮と外宮の両方を参詣できたなら、
内宮の正殿と外宮の正殿、正面から見ると正殿の方が広い。
では、奥行きはどちらが広いか?
と、同伴者にクイズを出してみてはどうだろうか。
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