MENU

『伊勢神宮は、神仏習合の影響を受けなかったのか』『伊勢神宮の参拝はなぜ【外宮先参り】なのか』

明治維新前は、神仏習合思想の下、神社も寺も混ざっていた。神社は神社、寺は寺という意識が生まれたのは、歴史的に見ればつい先日の出来事。そのような中で、伊勢神宮のみ神仏習合思想の影響を受けなかったのだろうか。
「お伊勢参りは、外宮先参り」が、常識と言われる。でも、位が上なのは内宮のはず。それなのにどうして、外宮を先に参るのか?

目次

静寂に包まれている伊勢神宮、実は内宮と外宮が互いに争い合う歴史だった

伊勢神宮を訪れると、「神域」であることを実感する。
空気は清浄。
玉砂利を踏みしめる音。
木漏れ日の揺らぎ。
訪れた者を、すがすがしさが包み込む。

伊勢神宮は、内宮と外宮からなる。伊勢を訪れる前に経験者から、「外宮を先にお参りするんだよ」と、教えを受けた人も多いだろう。
だが、ちょっと変だ。どうして、「位の高い内宮を先に参らないで、位の低い外宮から参る」ことになっているのか?

そもそも、どうして伊勢神宮は、内宮と外宮に分かれているのか?

🔶内宮と外宮がセットで考えられるようになったのは、いつからか

◈内宮は、垂仁天皇の時代

お伊勢様、つまりアマテラス大御神が宿る八咫鏡は、崇神天皇のときに宮中を出されたことになっている。

その次の、垂仁天皇のときに倭姫によって、伊勢の地に祀られる。日本書紀の記述をそのまま素直に読むと、垂仁天皇は、紀元前後の天皇なので、伊勢神宮は紀元前5年の創建ということになる。さすがに、この年代をそのまま信じるわけにはいかないが、「内宮と外宮のどちらが先か」と問われれば、日本書紀や古事記などの記述から、伊勢に祀られたのは内宮(アマテラス)が先、と言える。

◈外宮は、雄略天皇の時代

では、外宮はいつ出来たのか。
外宮に関する記述は、「日本書紀」にはない。「古事記」にあるにはあるのだが、後代に書き加えられたもの、と言うのが通説。

外宮で書かれた「止由気宮儀式帳」(古代は、「豊受」を「止由気」と表記していた)という史料に、「豊受大神は、雄略天皇の時代に丹波国から迎えられた」とある。

雄略天皇は5世紀の天皇。倭の五王のうちの「」にあたる天皇とされ、現時点で実在が分かっている最初の天皇。

「豊受」は穀物神であり、アマテラスにご飯を提供する役目をもった神。その神が、丹波国から迎えられたという。

🔶伊勢神宮を「内宮と外宮の両方」を指すようになったのは、いつか

日本書紀には外宮の記述がない。
古事記には、記述があるが「後代の加筆」と考えられている。

そこで、水戸黄門によって編纂がはじまった、「大日本史」を見ると、内宮と外宮が表記されるのは

「平安中期、朱雀天皇(すざく)の代から」、とされる。
朱雀の在位は、930年~946年

「大日本史」から、10世紀前半には「伊勢神宮には、内宮と外宮の両方あった」ことがわかる。

🔶中国の「道教」が関係している?

10世紀と言えば、平安時代の真ん中あたり。
平安時代というと、和風文化が定着した頃のように思える。だが、「和風」の定着は、中国などの文化を取り入れて、消化する期間が事前にあったから。

境があいまいな「和風」に対し、「陰と陽」「内と外」といった思想は、中国的な二元論の発想だ。
内宮と外宮の二つからなる伊勢神宮の構成も、中国的、道教的二元論に影響を受けているのかもしれない。

伊勢神宮に見られる仏教

ところで、日本の神道は長らく仏教と習合して考えられてきた。神社は神社、寺は寺と分けられたのは、明治の神仏分離政策以後のこと。

つまり、1000年以上も「神も仏も一緒」であると考えられていた。そちらの考え方のほうが長い歴史をもっている。

神道の中心である伊勢神宮であっても、伊勢大神宮寺が存在した時代があった。(後に、廃寺)
そして、伊勢の神宮寺には称徳天皇が寄進したという高さ約5メートルの立派な仏像があったと記録されている。

🔶神と仏では仏の方が上?

神と仏は、本来一緒だという「神仏習合」説は、やがて「本地垂迹」説に行き着く。
「神と仏の関係は、インドの仏が、日本では神の姿になって表れている」
日本の神は、本来は「仏」だ、というのだ。

この考え方は、奈良時代前中半には始まっている。大仏が建立された頃。
そして、奈良時代後半から、平安前期に生きた空海の「真言密教により、いっそう広まり定着した。

🔶空海がもたらした両部曼荼羅

空海は、中国から両部曼荼羅(両界曼荼羅)を持ち帰っている.両部曼荼羅は、中国の陰陽二元論から生まれたもので、胎蔵界(たいぞうかい)と金剛界(こんごうかい)という二つの世界を描いている。

胎蔵界は、女性(陰)の世界。金剛界は、男性(陽)の世界。

胎蔵界
金剛界

この空海の曼荼羅により、伊勢神宮の内宮と外宮をそれぞれの曼荼羅と結び付ける考え方が生まれ、やがて両部神道の根幹となっていく。
内宮を胎蔵界とし、外宮を金剛界と結び付ける考え方。

🔶大日如来はアマテラス大御神

真言密教は、大日如来を信奉する。
そして、大日如来は、この世をあまねく照らす太陽神が前身。アマテラス大御神と重なる。

日本人は、性質が似ているものを抵抗なく習合して考えることができる。どちらも太陽神なら、「大日如来=アマテラス大御神である」と無理なく習合した。

10世紀になると、「大日如来=アマテラス大御神」という捉えは、伊勢神宮にも完全に定着していた。

◈西行法師のお歌

西行法師という12世紀のお坊さんがいた。平安時代末期に生きた人、ほぼ源頼朝の時代の人。歌を詠むお坊さんで、伊勢神宮を訪れたときに、

榊葉に 心をかけん 木綿四手て 思へば神も仏なりけり

という歌を詠んでいる。
木綿のシデを榊の葉にかけて、伊勢を参拝したときに「お伊勢さんも元をただせば、大日如来様なのだなあ」
という歌だ。

平安末期になると、お伊勢さんは「大日如来」とイコールで考えられていたことがわかる。

🔶両部神道

両部神道とは、神道を真言密教の世界観に当てはめ、真言密教の中に神道を包含してしまう形の仏教のような神道。
先に述べた、アマテラス大御神は、大日如来の仮の姿だとする。

鎌倉後期に成立した仏教関係の書物に「沙石集」という説話集がある。その中に

内宮の胎蔵界と、外宮の金剛界の両部に大日如来がおいでになる。天岩戸とは、仏教でいう「兜率天」のことで、これを高天原とも言う。真言密教では、そこを大日如来の住む法界宮といい、大日如来はそこから日本に降りて来られた。このような事情で内宮には、胎蔵界の大日、外宮には金剛界の大日がおいでになる。

と、伊勢神宮の神職が語っていたというのだ。

完全に、神道が真言密教に吸収合併されている。そういう時代も伊勢神宮の歴史の中にはあった。

🔶伊勢神宮を描いた絵の中に、弘法大師

南北朝時代に描かれた伊勢両神宮曼荼羅という絵がある。そのうち、外宮が描かれた絵に、何と雲に乗った空海の絵が描かれているものがある。

伊勢神宮が、空海の真言密教の聖地となっていたようだ。
内宮に描かなかったのは、内宮は大日如来のアマテラスであり、外宮の豊受は空海と捉えたのだろうか。

内宮と外宮の争い

伊勢神宮は、内宮と外宮が一対で伊勢神宮であり、内宮が上で外宮が下。
そう捉えられている。

だが、かつて外宮が内宮に対して、「自分たちの方が上だ」と主張した時代があった。
さらに、内宮と外宮の争いによって、神域内で斬り合いによる流血騒ぎまで発生していた。

🔶伊勢神道

武士の台頭で世の中が乱れた中世、鎌倉時代から、南北朝時代にかけ「伊勢神道(度会神道:わたらいしんとう)」が発展した。伊勢神道を一言で言えば、「外宮優位を説く神道」だ。

◈外宮の神

外宮の神は、アマテラス大御神に食事を出す「豊受大明神」。
だが、鎌倉から南北朝時代にかけ、外宮神職の度会氏(わたらい)らが、
『豊受は、実は、アメノミナカヌシ(天之御中主)なのだと主張しだした。』

天之御中主とは、高皇産霊尊(タカミムスヒ)と神産巣日神(カミムスヒ)とともに、造化三神といわれ、アマテラス大御神より前の神。

造化三神の真ん中にいらっしゃるのが、天之御中主の神で、「外宮の神は、アマテラスより偉い皇室の根源的な神だ」と主張するのが伊勢神道。

🔶皇字論争

鎌倉後期に当たる1296年、皇字論争という事件が勃発する。

今まで、外宮は、内宮より下であり、「止由気太神宮」、そして「豊受大明神」と表記した。
だが、外宮が力を持ち「豊受大明神は、天之御中主と一体であり、アマテラス大御神より先代の神であり、根源神」だという理論武装(伊勢神道)ができあがる。

朝廷に報告する文章中に、内宮が「伊勢大神宮」と表記するなら、外宮も「豊受太神宮」と表記すると主張しだしたのだった。

結局この時は、曖昧のままで公的にはどう表記すべきかの決着が付かなかった。
この禍根は、内宮・外宮関係を険悪にしていく。

🔶内宮・外宮間で流血事件勃発

1486年、応仁の乱の少し後に事件は勃発する。
内宮と外宮の間で、戦闘が起こった。内宮の者たちが外宮の者たちを追い詰め、外宮の者たちは、自らの正殿に火を放って内宮の者たちに応戦した。残念なことに聖域内で自刀して果てたものまで出た。

さらに3年後の、1489年。
今度は、外宮の者たちが内宮を攻めた。この時も斬り合いに発展し、聖域内で流血事件が起こる。
この時は、内宮の御柱も傷つけられたと記録にある。

外宮

外宮先祭

🔶中断された式年遷宮、まず建て直されたのは

中世、戦国時代において伊勢神宮の内宮と外宮については、暗い歴史もあった。

そのような暗黒の戦国時代、式年遷宮が内宮・外宮ともに120年以上行われなかった時期がある。
外宮は、1434年に行われた後、次の遷宮は129年後の1563年だった。
内宮は、1462年に行われた後、次の遷宮は123年後の1585年だった。

千年以上変わらぬ姿を保つ伊勢神宮と言われる。だが、120年以上建て替えずにいたら、「元の形を再現できる」かと言えば、疑わしい。
とにかく、どちらも朽ち果てていただろう神宮は、先に外宮の遷宮が行われた。
ただし30年分、外宮の方が先に朽ち果てていたから、という考えも出来るだろう。

🔶1585年再開以後の遷宮は、内宮が先か外宮が先か

1585年に式年遷宮が復活した後からは、内宮も外宮も同じ年に式年遷宮が行われることになる。
そこで、次の式年遷宮の時に問題になったのは、
まず最初に外宮の遷宮を行い、次に内宮の遷宮を行う「外宮先祭」とすべきだという主張についてだった。

前回の遷宮は外宮が内宮の22年も前に行われているので、当然の主張とも思える。
だが、それに「否」をとなえる人物がいた。

関白豊臣秀吉だった。

秀吉は、

内宮先祭

を朝廷に上奏し、それが認められた。
これにより、中世の内宮と外宮の争いに一応の決着がつく。

秀吉により、「内宮先祭」で決着が付いたのに、なぜ「外宮先参り」なのか

明治2年3月12日、明治天皇が伊勢神宮を参拝した。
持統天皇以後初めての天皇の参拝だった。

そして、昭和天皇も伊勢参拝の時に、昭和天皇の参拝を踏襲し「外宮先参り」を行った。
これが、一般にも影響を与え「外宮先参り」が伊勢神宮の正式な参拝の仕方のようになっている。

これは、どういうことだろうか。
秀吉により「内宮が上(先)」として決着が付いているはずではないだろうか。

🔶豊受の役割は、アマテラスに食事を供することだから

中世に、「外宮先祭」という概念があったのは、豊受が、アマテラスに食事を供する事が役割だったから。

つまり、「自分が先ず腹ごしらえを済ませていないと、活力を持ってアマテラスのための調理ができない。アマテラスにきちっとした食事を供するための先祭」ということだった。

だから、本来「外宮の先祭」は、アマテラスのための食事に関する祭に限られる。
日頃自分のご先祖様が世話になっている豊受大明神に対し、皇孫である明治天皇も昭和天皇も、内宮先参りをされた。
これは、お世話になってりう方への感謝の気持ちを表す作法として、当然。

明治天皇や昭和天皇のお人柄を考えると、皇祖神に尽くしてくれる豊受を先に参拝された所作に日本人的美を感じる。

だが、一般の我々はどうなのだろう。
私は、内宮を先に参拝したい。

明治天皇や昭和天皇は、お人柄や皇孫である立場から、外宮先参りを実施された。
だが、一般の我々は、「外宮先参り」ではなく「内宮先参り」でよいのではないだろうか。

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次