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三淵嘉子(寅子)の最初の結婚:夫は書生の和田芳夫(佐田優三)

三淵嘉子さんは、26歳の時に結婚しました。
この年、修習(弁護士になるための研修)を終えた嘉子は、第二東京弁護士会に登録して、丸の内にある仁井田益太
弁護士事務所に就職しました。

また、修習時代から務めていた、母校明治大学の講師も続けていました。

こうなると両親の心配事は、『娘の結婚』となります。
弁護士になった時点で、嘉子はすでに26歳。

当時とすれば「行き遅れ」でした。

虎と翼で描かれていたように、嘉子の両親は何度か見合いも持ちかけたていました。そして、就職後も見合いをしたのですが、嘉子の気に入るお相手は見つかりませんでした。

業を煮やしたお父さんが、『誰か、気になる人はいないのか』と嘉子に問いただすと、
嘉子は、

「実は一人いる」

と言うのでした。

そして、

「和田さんだ」

と言ったそうです。

目次

和田さんとは だれ

佐田優三・NHKより

和田さん、というのは、武藤の家に一時期書生として暮らしていた和田芳夫(仲野太賀さん演じる佐田優三のモデル)のことでした。

父・貞雄の親友のおいで郷里の丸亀中学校を卒業し、卒業後、貞雄の家に下宿して働きながら明治大学の夜間部で学んでいました。

卒業後は東洋モスリンという紡績会社に就職していました。
法律家というわけではなかったのです。

「何人もいた書生さんの中で、一番おとなしくて、静かで、優しい人」
嘉子の末弟の泰夫氏は、そのように和田さんを評している。

丸眼鏡をかけた穏やかな表情を見せる人物。

芳夫の名前を聞いた両親は、驚いたそうです。
自宅に出入りしていた男性の中で、一番静かでおとなしかったからです。
活発な嘉子とは、正反対の性格だったので、両親が驚くのも無理がなかったように思われます。

父さん、動く!

父・貞雄は、嘉子の選択にびっくりはしましたが、人柄の良さは貞雄も知っていました。

そこで、貞雄はさっそく和田さんのところに出向いていきました。そして、

『娘があなたのことを気に入っている』

と伝えました。
これをきっかけに、二人は交際を始めました。

嘉子と芳夫の結婚

嘉子と芳夫は昭和16年(1941年)11月に結婚しました。

彼女は「武藤嘉子」から「和田嘉子」になりました。

芳夫は妻の仕事についても理解かありました。二人は池袋に暮らし、嘉子は弁護士事務所や明治大学へ、芳夫は紡績
会社へ通勤しました。
当時としては珍しい、共働きの夫婦でした。

嘉子と芳夫の結婚生活

結婚してわずか1か月後に、真珠湾攻撃が実施されました。
太平洋戦争の幕開けです。

弁護士として一歩を踏み出したばかりの嘉子でしたが、戦争開始によって開店休業の状態になってしまいました。

昭和18年(1943年)1月、嘉子と芳夫の間に、長男の芳武が生まれました。
子供が生まれたのを機に、嘉子の実家である武藤家に戻り、両親と一緒に暮らすようになりました。

両親の貞雄とノブにとっての初孫が、夫婦と共に実家に戻ってきたわけです。
戦争の影が徐々に濃くなっていましたが、武藤家は幼い芳武を囲み、笑顔が絶えなかったと言います。

「本当に、仲の良い夫婦でした」

後年、嘉子の末弟泰夫氏は、二人をこう評していました。

最愛の夫、芳夫との別れ

https://twitter.com/tnakanomg?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

芳武が生まれて1年の後、昭和19年に入ってすぐ、芳夫の元に召集令状が届きました。
ですが、この時は、以前患った結核による肋膜炎の跡が見つかり、すぐに召集解除となっています。

この頃、戦況は思わしくなく、自宅は『空襲による火災を防ぐため』という理由で取り壊されることになりました。

そして、翌昭和20年(1945年)1月、再び芳夫の元に赤紙が届きました。
病気のため召集が見送られた、わずか1年後のことでした。

芳夫は、結核を病んで今は小康状態とはいえ、身体は弱まっていました。
おそらく、診断書を取って「病気」と主張すれば、今回も召集解除となっただろうと思われました。

ですが、芳夫はそういうことができないたちの人でした。

身体の状態はが良くなかったにもかかわらず、それを隠して、二度目の出征をしました。
当時の日本の状況だと、多少体の具合が悪くても、「悪い」と言えない状況だったのでしょう。
悲しいことです。

芳夫は戦地へ向かいました。
自宅も失っています。
東京には、連日空襲警報が鳴り響いています。

嘉子は幼い芳武を連れ、戦死してしまった弟の妻とその子と共に、4人で福島に疎開しました。
そして、8月15日を迎えました。

芳夫の死

終戦を迎えましたが、芳夫の安否については、まったくわからないままでした。
ただ、戦死の公報が届かないことのだから、無事に違いないと、嘉子は信じていました。

終戦時、芳夫は戦地の中国で持病を発病していました。
上海の病院に入院していた芳夫は、終戦後も帰国できず、連絡を取ることも出来ませんでした。

昭和21年(1946年)、芳夫はやっとほかの病人とともに帰国船に乗ることができました。
しかも乗船時には、ほかの病人の世話をすることができるほど元気だったということでした。

ですが、船内で病状が悪化してしまいます。
帰国した直後、長崎の陸軍病院に再び入院しました。

その陸軍病院から、嘉子の元に「芳夫危篤」の電報が届きました。

息子の芳武は当時三歳。
家じゅう、大騒ぎになったそうです。

「生きていた」という喜びと、
「危篤」という言葉を聞いての不安…。

結局、嘉子が長崎に駆けつけた時には、芳夫亡くなっていました。

こうして嘉子の最初の結婚は終わりを告げました。

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佐田優三

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