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三淵嘉子の父・武藤貞雄はどんな人【貞雄(直言・モデル)の死因】

三淵嘉子【虎に翼・猪爪寅子モデル】という裁判官の名は、多くの人々によって知られていますが、その背景には父である武藤貞雄という人物が存在しています。武藤貞雄の人柄や生涯について探ってみましょう。

目次

武藤貞雄の出身地

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「虎に翼」の寅子のモデル三淵嘉子の出身地は、香川県丸亀市です。彼女の父親である武藤貞雄と母親のノブは共に丸亀市出身であり、武藤家族は丸亀市に住んでいました。

父親の武藤貞雄は代々九亀藩の御側医を務める宮武家に生まれ、後に武藤家に養子として入ったとされています。また、武藤家の菩提寺は丸亀市にあり、貞雄が建てた武藤家の墓も丸亀市に存在しています。

彼女も幼少期のある時期を丸亀市で過ごしています。
丸亀市は、彼女の活発で利発な性格を育み、家族との思い出にとって特別な場所となっています。

三淵嘉子の父・武藤貞雄氏の人物像

https://img.jisin.jp/

武藤貞雄氏は香川県丸亀市出身で、代々九亀藩の御殿医を務めた宮武家に生まれました。

貞雄の父緒方洪庵が大阪に開いた「適塾」に通ったこともある秀才でした。
貞雄も、嘉子もその血を引いているのですね。

そんな家系なので、貞雄の実家の宮部家も・養家の武藤家も貞雄が医師になることを期待していました。
ですが、彼は異なる道を選びました。

旧制丸亀中学校を経て一高、そして東京帝国大学法学部に入学します。
そこを卒業し、台湾銀行に就職しました。

台湾銀行は当時、台湾での紙幣発行権を持ち、内外に支店を構える大銀行であり、貞雄氏はそこで国際的な経験を積みました。

さらに、ニューヨーク支店などにも赴任しています。広い視野と豊富な経験を得たことが記録されています。

貞雄氏は、おしゃれだった

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貞雄氏が、中折れ帽をかぶり、三つ揃いに蝶ネクタイ結び、ロイド眼鏡をかけた写真が残っています。
決まりすぎた正装です。

こう書くと、
「貞雄氏は、ちょっキザな人だったのか」
とも思えますが、そうでは無かったようです。

ロイド眼鏡をかけは彼の顔は丸顔で、だんご鼻、ちょび髭というユーモラスな外見だったのです。
この風貌が、彼を特徴づけていたといいます。

イケメン男子がこういう格好をしていたら、キザにも見えたでしょうが、貞雄氏は、周りにそれを感じさせないユーモラスな印象だったようです。

「人に怖さを感じさせずユーモラスな印象を与えることができる」
これも、貞雄氏の人間性だったのでしょう。

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武藤貞雄氏の家族の歴史

三淵嘉子の父親である武藤貞雄は香川県丸亀市の出身であり、貞雄は代々九亀藩の御側医を務める宮武家に生まれ、後に武藤家に養子として入っています。

貞雄は医師の家族環境で、養家にでも医師となることが活躍が期待されていました。
しかし彼は東大の法学部に入り、そこを出た後は台湾銀行に就職しています。

三淵嘉子が生まれたのは、一家がシンガポールに滞在していた大正3年(1914年)11月13日でした。

嘉子の『嘉』の字は、シンガポールの漢字表示「新嘉坡」から取られています。

貞雄はその後、ニューヨークへ単身で転勤することになす。
父の不在の間、嘉子は母と共に幼少期の数年間を実家のある香川県丸亀市で過ごしています。
うどんをたくさん食べたでしょうね。

貞雄はアメリカから帰国後、東京勤務に成りました。
一家は渋谷を経て、麻布笄町で暮らすようになります。

ここが、「虎に翼」の舞台なのだと思います。

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貞雄の家庭状況は、長男の一郎、次男の輝彦、三男の晟造、四男の泰夫という四人の息子と、一人娘の嘉子がいました。
5人きょうだいだったのですね。

末弟の武藤泰夫は後に林野庁で働き、森林の保護活動を行い、90を過ぎても元気に活動していました。
おそらく、「虎に翼」の物語は、この末弟の泰夫さんから聞き取った内容を参考に構成されているのだと思います。

貞雄はニューヨークから帰国すると、東京に居を構えました。
渋谷を経て麻布笄町で暮らすようになります。

具体的には、現在の港区西麻布四丁目に位置しています。当時の地籍図からも、一家の住まいがあった場所が特定できるほど、区画や道路の形状がほぼ変わっていないことがわかっています。

「虎に翼」の舞台は、ここなのでしょうね。

このように、嘉子の父・武藤貞雄氏も、娘の嘉子同様「反骨の人」だったようです。
引かれたレールの上を走るのでは無く、自らの道を自ら切り開くという寅子の生き様は、父親ゆずりだったようですね。

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父・武藤貞雄の死

昭和22年(1947)年1月に、嘉子の母のノブが脳溢血で急死してしまいます。

妻に先立たれた夫は、急激に弱ると言われます。
貞雄もそうでした。
同じ年の10月には、父の貞雄も病死します。

嘉子の末弟・泰夫氏によれば、嘉子の父親の貞雄の死因は肝硬変だったと言います。

まとめ

三淵嘉子の父・武藤貞雄は、多方面で活躍し、幅広い人々に愛され頼られる存在でした。
彼が歩んだ人生や家族との絆が、後に三淵嘉子の姿にどのような影響を与えたのか、改めて知ることができます。

・父・貞雄も母・ノブも香川県丸亀市出身
・実家は、御殿医の家系
・そこから武藤家へ養子
・養子先でも医師になることを望まれたが、東大法学部へ進学
・卒業後、銀行マンになる
・父・貞雄の死因は肝硬変 母・ノブの死因は脳溢血(突然の死)

貞雄の建てた武藤家の墓は香川県丸亀市の本行寺にあり、武藤家の法要もこの本行寺で行われています。

武藤貞雄

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