こんにちは、なおじです。
豊臣兄弟!第12話「小谷城の再会」、今回は盛りだくさんでしたねえ。
義昭と信長の亀裂、藤吉郎の京都奉行就任、遊郭でのどんちゃん騒ぎ、寧々の毒盛り騒動、そして小谷城での茶々との出会い。
最後に登場した慶(ちか)という女性。
小一郎の運命が、いよいよ動き始めた回でした。

この記事でわかること
- 義昭と信長の関係がどう変化したか(ドラマの深読み)
- 丹羽長秀「逃げ腰説」は史実でどうなのか
- 万福丸のその後の運命と処刑の真相
- 秀長の妻・慶(慈雲院)は実在したのか、そして晩年はどうなったのか
- 池松壮亮が語る「秀吉」という人物像
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義昭と信長、すれ違いの始まり
藤戸石と「天下人の石」
今回、信長が義昭に贈った藤戸石。
「天下人の石」と呼ばれる名石で、信長はこれを公方に届けるため、一行を率いて引いて歩きます。
なおじ、修学旅行で二条御所は何度も訪れています。
あのとき「ここに藤戸石があったのか」なんて思いもしなかったけれど、改めて調べてみると、現在の二条城にもその遺構が残っているとのこと。
次回キャンピングカー旅で再訪したいものですねえ。
義昭、隠し扉に気づく
二条御所には、様々な隠し扉が作られていた。
義昭は、これを「自分を監視するためのもの」と解釈します。
でもここが面白いところ。
明智が堂々とふすまをぶち破った。
これ、疑っていることが信長にはバレてしまいますよね。
でも、信長なら「義昭は自分を疑っている、信長はそれを知っている、義昭は信長が知っていることを知っている……」
まるで二重スパイの頭脳戦みたいな展開。
35年間、学校という閉鎖空間で仕事をしてきたなおじには、なんとなくわかりますよこの感じ(笑)。
「校長先生、なんで知ってるの?」ってやつです。
史実でも義昭と信長の関係は、この1569年(永禄12年)頃からじわじわと悪化しており、最終的には1573年(天正元年)の信長による義昭追放へと向かっていきます。
京都奉行と丹羽の「逃げ腰」は史実か
秀吉、明智と同格の奉行へ
秀吉が京都奉行に任命されました。
ドラマでは「丹羽や明智と同等」という描写でしたが、史実でも1568年(永禄11年)から翌年にかけて、木下藤吉郎・明智光秀・丹羽長秀・村井貞勝らが京都の行政を担当しています。
秀吉の統治能力をこの時点で信長が高く評価していた証拠ですね。
「えらくなったねえ」
なおじ おもわず 呟いちゃいました。
丹羽長秀は本当に腰抜けだったのか
さて、ドラマで描かれた「丹羽が僧侶たちとの交渉を途中で逃げ出す」シーン。
「秀吉に一任して逃げた腰抜け」という描かれ方でしたが、史実の丹羽長秀はまったく違います。
信長から「米五郎左(こめごろうざ)」と呼ばれ、安土城築城の総奉行まで務めた名将です。
武勇と実務能力を兼ね備えた重臣として、信長の天下統一事業を支え続けました。
ドラマ的にコミカルなキャラとして描いていますが、丹羽長秀ファンの皆さん、怒らないでください(笑)。
👉関連記事:豊臣兄弟10話・1568年の信長上洛・光秀初登場と史実
明智光秀のスマートな解決力と秀吉の凄み
坊主どもを一瞬でまとめた明智

寺の代表との交渉を、明智光秀は「自分から公方に伝える」という一言でサラッと解決。
「さすがは明智どのじゃ」と坊主たちが感心するシーンは、光秀の知性をうまく表現していましたね。
歌も見事、蹴鞠も上手。
この人物の多才さが後の本能寺の変につながるわけで、光秀ってドラマの中でずっと「好感度高め」に描かれているのが興味深い。
👉関連記事:明智光秀って本当に信長を裏切ったの?|最新学説で明らかになる真実
池松壮亮が演じる秀吉の「静かな怖さ」

「信長様を悪く言うモノは、誰であろうとゆるしませぬ」と、静かな口調で明智に告げる秀吉。
穏やかな口調だからこそ、怖い。
池松壮亮さん自身は取材でこんな趣旨のことを語っています。
秀吉とは、愛嬌があって野心家で、人たらしであると同時に狂気性を持つ人物。
演じるにあたって「ぜひ秀吉本人に2時間トークしたい」と語ったほど、この人物に対して真剣に向き合ったようです。
その準備の深さが、あの「静かな凄み」につながっているんだろうと思います。
なおじが教壇でも感じたのは、一番怖い先生は「怒鳴る先生」ではなく「静かに名前を呼ぶ先生」でしたから(笑)。
寧々と小一郎、それぞれの淋しさ
毒入り騒動と秀吉の誓い

秀吉の女遊びに怒った寧々が「毒を盛った」と言い出す展開。
死を前にした秀吉が「おぬしは死ぬな」と言うシーン、ちょっとグッときましたよ。
でも「二度と女遊びをしない」と誓う秀吉、絶対また遊ぶよねえ……と思った。
「口先男だからなあ」という感想(笑)。
わたしには子ができないかもしれないから
遊びではない本当のよき人なら許す
寧々のこの言葉、けなげすぎて切ないですね。
誓うそばから 遊郭へ行く 藤吉郎(なおじ)
なおじがひとりでツッコんでおきます(笑)。
寧々と松の「ばちばち」茶会
秀吉達が京で女遊びをしていた頃、寧々は利家の奥方・松とお茶会。
この二人の「ばちばち」した会話、なかなかに見応えありました。
間に入って聞き役を務めるのが「姉・とも」。
団子を一人で全部食べてしまう「とも」(笑)。
ともは寧々を慰めつつ、「遊びくらいは、もしかして……」と。秀吉をよく知っている。
寧々の気持ちを考えたらかわいそうなんですが、姉として秀吉という人間をよくわかっているとも。
このドラマ、女性陣の人物描写がとても丁寧でいいですね。
淋しそうな小一郎と「もうおなごはええ」

小一郎の「わしはもうおなごはええ」という一言が刺さりました。
亡くした直への想いがまだ消えていない。
淋しいねえ、本当に。
でも、そんな小一郎が直の墓参りで出会うのが、慶(ちか)。
お堂の中で密偵らしき者と会っていた慶、険しい顔つき。
この人物の背景が、これから少しずつ明かされていくのでしょう。
小谷城訪問と茶々の誕生
なおじの小谷城体験記

この回のメインは、何といっても小谷城への訪問シーン。
実はなおじ、キャンピングカーで小谷城址を訪れたことがあります。
なんとキャンピングカーで上の駐車場まで登れると知って、「ほんまかいな」と半信半疑で挑戦。
途中は狭い山道で、対向車が来たらどうしよう……とヒヤヒヤしながら登ったのですが、無事に到達。
上の方に5〜6台停められる小さな駐車スペースがあり、そこから先は歩き。
景色を見ながら行って帰って、おおよそ1時間のハイキングでした。
小谷城址訪問の詳細は、また旅ブログの方でまとめようと思っています。
👉関連記事:なおじのキャンピングカー旅(小谷城訪問記は執筆後リンク予定)
茶々を抱いた秀吉と信長の守り刀

市が赤ちゃんの茶々を産んでいた。
信長は茶々を抱かず、守り刀を与えるという演出が印象的でした。
対して秀吉は「抱かせてくれ」と無謀にも頼む。市がそれを許す。
この場面は後の淀殿=茶々と秀吉の「因縁の出会い」として描かれているわけで、大河ドラマの伏線の張り方として見事でした。
ついでに言うと、岐阜に帰ったときには、弥助の膝の上には後の秀次。こちらもかわいらしい。
信長が遊郭にいる秀吉を訪ねるシーンも含めて、この回はいたるところに「後の歴史」の芽が埋め込まれていましたね。
万福丸と慶の史実はどうなったのか
万福丸の悲しい運命

小谷城で出会う万福丸。
かわいらしい少年として描かれていましたが、史実の万福丸の運命は非常に過酷です。
1573年(天正元年)、小谷城が落城。
万福丸は乳人である木村貞之らとともに城を脱出し、余呉湖畔や越前国敦賀郡などに匿われていました。
しかし、信長の命を受けた秀吉が万福丸を探索し、ついに発見。
関ヶ原で磔の刑に処されました。享年10歳前後とされています。
「滅亡した大名家の嫡男は生かしておけない」という戦国の論理です。
現在、関ヶ原には万福丸が処刑された場所に馬頭観音が祀られています。
ドラマであの笑顔の少年を見た後では、胸が痛くなりますね。
慶(ちか)は実在したのか、その後の人生は

最後に登場した慶(ちか)、演じるのは吉岡里帆さん。
ドラマでは安藤守就の娘という設定ですが、史実では豊臣秀長の正室・慈雲院(じうんいん)の出自はほぼ不明です。
わかっていることは、彼女の動向が史料に現れるのが1582年(天正10年)から1594年(文禄3年)の時期であること。
この時期、慈雲院は「大和大納言家」とも呼ばれた秀長の一家の家政を代行する立場にあり、徳川家康や毛利輝元ら実力大名からも丁重な進物が贈られるほど一目置かれていました。
夫・秀長が1591年(天正19年)に病死した後も、養子・秀保を支え、豊臣家の凋落を静かに見届けた女性です。
1611年(慶長16年)頃まで存命だったという記録があり、関ヶ原の戦いで徳川家康が台頭していく様子を目の当たりにしながら生きたことになる。
けなげで、たくましい。
これから小一郎と慶がどんな夫婦になっていくか、楽しみになってきました。
👉関連記事:豊臣兄弟!秀長の真相|史実と全話感想で読み解く補佐役の実像
Q&A|豊臣兄弟12話でよくある疑問
Q1. 藤戸石は今どこにあるの?
A. 現在の京都・元離宮二条城の庭園内に藤戸石が残されています。
もともとは足利義昭のために建てられた二条御所に置かれていたとされ、後に豊臣秀吉が伏見城の作庭に使い、さらに徳川家によって二条城に移されたとされています。
修学旅行などで訪れた方は、ぜひ探してみてください。
なおじも当時は気にしていなかったので、次回の訪問で確かめようと思っています。
Q2. 丹羽長秀って史実でも頼りない人だったの?
A. まったくの逆です。
信長から「米五郎左」と呼ばれ、安土城築城の総奉行を務めた重臣で、武勇と実務能力を兼ね備えた名将として知られています。
姉川の戦いや伊勢平定など多くの戦功を挙げた人物です。
今回のドラマでのコミカルな描写はあくまでフィクション上の演出とご理解ください。
Q3. 万福丸はその後どうなったの?
A. 1573年(天正元年)に小谷城が落城した後、脱出して余呉湖畔などに潜伏していましたが、信長の命を受けた秀吉に捕捉されました。
関ヶ原で磔の刑に処され、享年は10歳前後とされています。
現在、関ヶ原には万福丸の処刑地を示す馬頭観音が残っています。
戦国の残酷さが凝縮された出来事のひとつです。
Q4. 秀長の妻・慶(慈雲院)は実在したの?

A. 豊臣秀長に正室・慈雲院がいたことは史実ですが、名前や出自の詳細は不明です。
ドラマの安藤守就の娘という設定は確証がある史実ではありません。
一方、慈雲院が秀長の家政を代行し、家康や輝元ら大名からも一目置かれていたことは史料に残っています。
1611年頃まで存命だったとされ、豊臣家の栄枯盛衰をすべて見届けた女性です。
Q5. 小谷城址はキャンピングカーでも行けるの?
A. なおじが実際に行きました!キャンピングカーで上の駐車スペースまで登ることができましたが、途中は狭い山道で対向車がくるとかなりヒヤヒヤします。
駐車できるのは5〜6台ほどで、そこからは徒歩約1時間のハイキングです。
早朝出発がおすすめ。詳細は旅ブログにまとめる予定です。
筆者紹介|なおじ
なおじは元社会科教師として教育現場に35年間携わり、指導主事を5年、校長を11年務めました。
退職後もボランティアで子どもたちに学習を教えています。
社会科・歴史を長年教えてきたので、時代背景や史実との比較が得意分野です。
指導主事として授業研究にも携わり、教え子からは「歴史が面白くなる先生」と呼ばれていました。