MENU

豊臣兄弟!第20話「本物の平蜘蛛」松永久秀爆死と秀吉助命を史実で検証

NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第20回「本物の平蜘蛛」は、信長から「死ね」と言い放たれた秀吉の危機と、松永久秀の壮絶な最期が重なった、今年最高クラスの回でした。

「爆死は史実」と言われているけれど、本当にそうなのか。秀吉が死罪を言い渡されたというのは本当なのか。

こんにちは、なおじです。
社会科教師として35年間、史料と教科書の「ズレ」を教えてきた経験から言うと、「有名な話」ほど後世の脚色が混じっていることが多い。

この記事では、第20話のあらすじ・見どころを押さえながら、「秀吉の死罪宣告は史実か」「松永久秀の爆死の細部は本当か」「平蜘蛛ってどんな茶器か」「松永弾正の梟雄イメージは本当か」という4つの疑問を史料と照らして一緒に確かめていきます。

読み終えるころには、「あの感動シーンは史実?それとも創作?」という自分なりの答えが持てるはずです。

この記事でわかること

  • 第20話「本物の平蜘蛛」の詳しいあらすじ・見どころ
  • 信長が「死罪」を言い渡したのは史実か、一次資料で確認
  • 松永久秀の「爆死」は史実通りか──信長公記と軍記物語の違い
  • 名茶器「平蜘蛛」とはどんなものか
  • 松永久秀の「梟雄」イメージが見直されつつある最新研究
目次

信長「死ね」の衝撃――第20話冒頭の緊張

手取川の戦い、相手は上杉謙信

天正5年(1577年)、信長軍は上杉謙信と加賀・手取川で激突しました。

これがドラマで描かれた「北国での闘い」の実体です。
上杉謙信は当時「越後の龍」と恐れられた武将で、この戦いで信長軍が大きな打撃を受けたことは記録されています。

ただし「半数以上の兵を失った」という具体的な数字は、史料には出てきません。
一次資料である『信長公記』はこの敗戦についてほとんど記述していないほどで、損害の規模は現在も不明です。
ドラマ上の表現として受け取っておくのが正直なところです。

秀吉が「おろかな」と呟いたとき、信長はすぐに返した。「愚かなのはおまえじゃ。」

この一言の重さは、理解できる気がします。

「では死ね」という一言が重い

信長が口にした「では死ね」という言葉は、単なる激情ではありませんでした。

何よりの罪は「信長の命令に背いたこと」──これがドラマの中でも明確に示されていました。

秀吉の一族・家来は血判を提出しましたが、信長は「このようなものでわしの怒りは収まらぬ」とバッサリ。

でも、そこに松永弾正の謀反という「外側からの事件」が飛び込んでくる。
信長は秀吉を許す「口実」が欲しかった──このドラマの解釈が、なかなか面白かったんですよね。

元教師のなおじからすると、これって「問題を起こした生徒を怒鳴ったあと、廊下で冷静になって『どうやって許そうか』と考える担任教師」みたいな感じで(笑)。

怒りながらも、内心では関係修復の糸口を探している。

慶の「胸アツ」な提案とは何だったのか

慶

羽柴家のパニックと血判状

秀吉に「死罪」が言い渡された瞬間、羽柴家は大パニックに陥ります。

お慶も秀吉の家族になったという第19〜20話の流れが、ここで生きてくるんですよね。

慶(吉岡里帆)は、夫・小一郎の兄である秀吉のために、家族へ向けて「胸アツ」な提案をします。
血判状の提出につながるその行動は、「羽柴家の一員」としての覚悟を示したシーンでした。

「嫁に来た」という関係を超えて、自分からこの家族の一員であろうとする慶の姿──ここが視聴者の心を動かしたポイントだったと思います。

👉関連記事:豊臣兄弟!19話・過去からの刺客で夫婦の絆が動く

吉岡里帆「慶」が示した存在感

吉岡里帆さんが演じる慶は、最初は「なぜここにいるのか」という視点で見られていましたが、回を追うごとに羽柴家に欠かせない存在になっています。

35年間、教室でいろんな子どもたちを見てきたなおじとしては、「この子は本物だな」と思う子って、緊急事態のときにわかるんですよね。

平時にどれだけ頑張っていても、いざというときに黙ってしまう子もいる。
慶は違った。あの場面は、そういう「本物の覚悟」が出たシーンでした。

平蜘蛛とは何か――命より大切だったもの

古天明平蜘蛛という名茶器の正体

信長が提示した条件はシンプルでした。「古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)を差し出せ。そうすれば謀反は不問にする。」

平蜘蛛とは、平蜘蛛型の鉄釜です。
蜘蛛が地を這うような低く平たいフォルムが特徴で、天明(現在の栃木県佐野市周辺)の鋳物師による作品とされています。

信長は茶器コレクターとして知られており、名物茶器を臣下への恩賞として使う「御茶湯御政道」を実践していました。松永久秀が持つ平蜘蛛は、その中でも別格の逸品とされていたのです。

松永弾正が拒み続けた理由

ドラマの中で、松永弾正は「大和が欲しい。それ以外はいらない」と言い続けました。

紀伊との交換条件も蹴った。命より大和を選んだ。

なぜか。「三好長慶を本物の父だと思っている。その父から任された地が大和だ。
だから、この地を治めることが、自分が本物であることの証だ」──これが松永弾正の核心でした。

これはもう、茶器の話じゃないですよね。アイデンティティの問題です。

「大和を治める自分」こそが本物の自分だという信念は、命を差し出しても揺るがなかった。
だから平蜘蛛も渡さなかった──なぜなら、平蜘蛛を渡すことは「大和をあきらめること」と同義だったから。

茶器よりも 大和を抱いて 死んでいく

史実で検証する「信貴山城の戦い」

松永久秀の「爆死」は史実通りなのか

ここが大事なポイントです。一緒に確かめましょう。

「松永久秀が平蜘蛛に火薬を詰めて爆死した」という話は、実は史料によって記述が大きく異なります。

史料記述内容性格
『信長公記』(一次資料)天守に火を放って死んだ一次資料・信頼度高
『多聞院日記』(一次資料)平蜘蛛を叩き割って自害した一次資料・信頼度高
『川角太閤記』(後世の軍記物)平蜘蛛に火薬を詰め爆死・首も砕けた江戸時代の軍記物語・信頼度低

「平蜘蛛を渡さず死んだ」という核心部分は、複数の一次資料で確認できます。
しかし**「火薬で爆死」という描写は、江戸時代以降の軍記物語によるもの**です。

しかも「首も砕け散った」という記述は、実際には安土城に首が届けられたという記録とも矛盾しています。

ドラマの「爆死」シーンは、広く知られた伝説的表現を採用したものです。
史実の核心(平蜘蛛を渡さず壮絶に死んだ)は踏まえていますが、細部は演出です。

史実はどうあれ、かっこよい死に様でしたね。
竹中直人さんの松永久秀、見事でした。

信忠・筒井順慶との関係も史実

ドラマでは、信忠を総大将とする信長軍が信貴山城を攻めたという描写がありました。これは史実です。

信長の嫡男・信忠(当時21歳前後)は、この信貴山城攻めで実戦経験を積んでいます。
若い世代に戦場経験を与えるという信長の意図があったとも言われています。

筒井順慶については「若いから」という信長の考え──これはドラマらしい解釈ですが、史実として筒井順慶は信長に仕えながら大和支配を担っており、松永久秀との大和争奪戦は長年にわたるものでした。

「死罪宣告」は史実なのか――信長公記で確かめる

一次資料に「死罪」の記述はない

ここは多くの人が誤解している重要なポイントです。

結論から言うと、史実において秀吉が信長から「死罪(死刑)」を命じられたという記録はありません。

一次資料である『信長公記』には、次のように記されています。

「羽柴筑前、御届をも申し上げず、帰陣仕り候段、曲事の由、御逆鱗なされ、迷惑申され候」

信長が激怒した(御逆鱗)という事実は一次資料で確認できます。しかし、下された処分は「死罪」ではなく、長浜城での「蟄居(謹慎)」でした。

では「死罪を言い渡した」という話はどこから来たのか。

これは江戸時代以降の軍記物語(『甫庵太閤記』『川角太閤記』など)で語られたエピソードに由来すると考えられています。

こうした軍記物語は秀吉を英雄的に描くために劇的な脚色を加えていることが多く、「死罪すら乗り越えた秀吉」という物語が定着していったのでしょう。

なぜ蟄居で済んだのか

戦時中の無断敵前逃亡は、本来なら死罪・改易(お家潰し)になってもおかしくない重罪です。それでも処分が軽く済んだのには、理由があります。

ひとつは、秀吉の圧倒的な有能さです。当時、信長は本願寺・毛利氏・松永久秀の謀反と、四方八方を敵に囲まれていました。もっとも頼りになる前線指揮官をここで処刑することは、信長自身の首を絞める行為でした。

もうひとつは、秀吉が重臣を通じて平謝りし、安土城に自ら赴いて必死に許しを請うたことです。信長は激怒しながらも、秀吉の能力と誠意を評価して許した──これが史実の姿です。

ドラマの「死罪宣告」は、天下人となる秀吉の人生最大のピンチをドラマチックに描くための創作です。しかし、当時の信長がそれほど激怒してもおかしくない大事件だったのは、史実として確かです。

👉関連記事:豊臣兄弟!秀長の真相|史実と全話感想で読み解く補佐役の実像

秀吉・小一郎が交渉役を担ったのは史実か

記録にも言い伝えにも残っていない

なおじが気になっていた「秀吉と小一郎が松永弾正を説得しに行った」ですが、史実としての一次資料はもちろん、言い伝えや後世の軍記物語にも、この場面を裏付ける記述は確認できませんでした。

ドラマとしての創作と考えるのが妥当です。

ただし、「秀吉が信長の命で外交・交渉役を担うことが多かった」という事実はあります。なので「秀吉が動いた」という方向性に無理はない。史実と創作の境目がわかりにくいのは、このドラマの巧みさでもあるかもしれませんね。

史実における松永討伐の時系列

少し整理しておきます。

一部の史料(『武功夜話』など)には、「秀吉が北陸から帰国したのは、柴田勝家との喧嘩が理由ではなく、松永久秀の謀反という緊急事態に対応するためだったという説もある」という記述があります。つまり史実では、時系列がドラマと逆の可能性があるわけです。

「松永謀反→秀吉が判断して帰国→信長激怒」という流れを、ドラマは「秀吉帰国→信長激怒→松永謀反で助命」という形に組み替えることで、劇的な構造を作り出しています。この創作は秀吉のピンチをより鮮明にする工夫ですね。

結果として史実では、信長は秀吉を許した直後に松永久秀の討伐(信貴山城の戦い)の主力を命じ、さらにその直後には播磨・中国攻めという大役を与えています。怒りながらも秀吉を手放せなかった信長の本音が透けて見えます。

👉関連記事:豊臣兄弟18話!羽柴兄弟と家臣団選抜試験を史実で検証

松永久秀の「梟雄」イメージはどこまで見直されているのか

将軍暗殺・主君殺しという通説の見直し

松永久秀といえば「三悪(主君殺し・将軍殺し・東大寺焼き討ち)を成し遂げた梟雄」というイメージが長らく定着していました。

ところが近年の研究では、このイメージが大きく見直されています。

特に「第13代将軍・足利義輝の暗殺(1565年)は松永久秀の主導ではなく、三好三人衆が主体だった」という見解が有力になっています。久秀がその場にいた可能性は低いとする研究者も増えており、「将軍殺し」の通説は疑わしくなっています。

NHKが今回の大河ドラマで松永久秀を「三好長慶の忠実な家臣として、大和の地に尽くした人物」として描いたのは、こうした研究の蓄積を反映していると見ていいでしょう。

「本物」を求めた生涯の意味

ドラマの松永弾正(竹中直人)が語った「三好長慶を本物の父だと思っている」という台詞は、史実上の松永久秀の実像を考えるうえでも示唆的です。

久秀は三好長慶に仕え、畿内支配の中枢を担いました。長慶の死後、その権力基盤が崩れていく中で、久秀は複数回の「謀反」を起こしています。しかしそれは、単純な野心からではなく、「長慶の残したものを守ろうとした」という側面から読み解くこともできる。

社会科教師として言わせてもらうと、歴史上の「悪人」がなぜそう呼ばれるようになったかを調べると、大抵、勝者側が書いた記録の影響が大きいんですよね。久秀もそのひとりだったのかもしれません。

川柳をもう一句。

**  梟雄と 呼ばれて誰も 知らぬ父**

👉関連記事:明智光秀って本当に信長を裏切ったの?|最新学説で明らかになる真実

いよいよ播磨へ――21話以降の史実的展開

毛利攻めへ向かう秀吉

第20話のラスト、秀吉は播磨へ向かうよう命じられました。

これは史実の流れと一致しています。信長は秀吉を許した後、まず信貴山城攻めの主力として動かし、そのすぐ後に播磨・中国方面(毛利氏討伐)の司令官として起用しています。播磨は、その入り口となる地域です。

「北国での失態→蟄居(史実)/死罪寸前(ドラマ)→松永討伐→播磨へ」という流れは、秀吉にとって「再起」の物語でもあります。

この失敗があったからこそ、秀吉は播磨・中国攻めで必死になった。そう考えると、信長の「許した直後に大役を与える」という采配は、秀吉を再起させるための意図的な仕掛けだったのかもしれませんね。

Q&A|第20話・史実と見どころの疑問に答えます

👉関連記事:豊臣兄弟!秀長の真相|史実と全話感想で読み解く補佐役の実像

筆者紹介|なおじ

なおじは元社会科教師として教育現場に35年間携わり、指導主事を5年、校長を11年務めました。退職後もボランティアで子どもたちに学習を教えています。

社会科・歴史を長年教えてきたので、時代背景や史実との比較が得意分野です。指導主事として授業研究にも携わり、教え子からは「歴史が面白くなる先生」と呼ばれていました。松永久秀のように「悪役とされた人物の再評価」は、授業でも生徒の目が輝くテーマのひとつでした。

現在は8つのブログでドラマ芸能政治歴史スポーツ学び書評を書いています。

豊臣兄弟20話

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次