羽鳥善一(「服部良一」)と組んで、絶頂期を迎える福来すず子(「笠置シヅ子」)だったが、時代はそれを許さなかった。戦争の時代への突入である。戦局が悪化して行くにつれ、すず子(「笠置」)の歌や踊りは「敵性」と見なされていく。そしてついに松竹歌劇団は、解散となってしまった。この地獄のような時代、それでもすず子にとって運命の人との出会いがあった。その人物とは…。
マイクの前から動かずに歌え!
1940年代、時代は戦時体制へと移っていた。
男女混合の踊りを売り物とする松竹にとっては逆風の時代である。
ジャズは、「敵性音楽」であり、「笠置」は、敵性音楽を歌う「敵性歌手」の代表だ、として警察にマークされてしまう。
あるとき、「笠置」は警察から呼び出され、
戦意を高揚せねばならないときに、あなたの歌は雰囲気があまりにも出過ぎて困っている。とうぶん遠慮してもらいたいのだ。
マイクの前三尺四方から、はみ出さずに歌ってもらえないか。
という話があったという。
三尺とは、約91㎝。
つまり、『動き回らずに歌え』と強要されたのだ。
「笠置」の歌は、派手な動きとセットで成り立つ。
切り離して考えることはできない。
このときのことを「笠置」は、次のように語っている。
まあそんな意味の懇談的なもやったけど、どこかの新聞には、「笠置シヅ子叱らる」と大きくかき立てられましたワ。これはカッパが陸に上がったよりももっとサンタンたる気持ちでっせ。こんなみじめなもんあらしめへん…。それから20年11月までの戦時中の5年間のブランクはアテの地獄でした。(毎日情報・51年1月号)
服部良一の自伝には、「笠置」の言う『懇談的』とは若干違うニュアンスでこのときのことが書かれている。
先生、わてな、警察へ引っ張られましたんや。
付けまつ毛が長いゆうて、それ取らな、以後歌っちゃあかんと言いよりますのや
実際、笠置ら当局から「敵性」と判断された歌手や俳優は、活動の場を極端に制限されている。
「興行取締規則」の強化
1940年2月1日に警視庁令第2号「興行取締規則」を強化する決まりが出された。
この法令によって、「マイクから動かずに歌え」などの警察の指示が一層徹底された。
「笠置」の他にも、それまで男役として活躍していた歌劇団のメンバーに大きな難題として降りかかったことがある。
それは、「男装禁止令」だ。
『女が男を演じてはならん』
それは「婦徳を汚す行為だ」というのだ。
今の時代感覚からすると、「オイオイ」だ。
これにより、『男装の麗人』としてスターになっていた「水の江瀧子」や「川路龍子」らの男役の子らは、泣く泣く女役に転じざるを得なくなった。
「松竹歌劇団(SGD)」解散
いよいよ戦争が烈しくなった1941年1月、松竹歌劇団は解散となった。
「笠置」は、大阪時代から男役でもなく、お姫様的な女役にも向いていなかった。
だからこそ、男女混合の大人向けのスタイルを目指した松竹歌劇団は彼女に向いていた。
松竹歌劇団だからこそ、「笠置」の個性や芸風を発揮することだできた。
その個性を発揮できる唯一の場だった松竹歌劇団は、たった3年で幕を閉じてしまったのだった。
「笠置シヅ子(福来すず子)」独立する
行き場のなくなった「笠置」は、服部良一(羽鳥善一)の援助を受けて独立する。
「笠置」は、『笠置シヅ子とその楽団』を結成した。
楽団のリーダーは、トロンボーン奏者の「中沢寿士(ひさし)」が務めた。
さらにブギウギで淡谷のり子が世話をして、中島信がマネージャとしてこの楽団についた。
だが、当局から「敵性歌手」の烙印を押されている「笠置」は、丸の内など都心では仕事が出来ず、地方巡業や工場の慰問活動で戦時中を細々としのぐことになった。
そしてこの楽団も、戦局が悪化して劇場が次々と閉鎖された1944年、解散することになった。
楽団の解散は、マネージャの中島信が、「笠置」に無断で別の興行主に楽団を売りわたしてしまったことが原因だった。
「笠置」は、一人になってしまった。
「地獄のような日々だった」
と、後に「笠置」は当時を振り返っている。
絶頂期の「笠置」に降りかかった5年間のブランクの時期となった。
その「笠置」に、一筋の光をともしたのは、吉本興業だった。
そして、1943年6月28日、「静子」は運命の人吉本穎右(えいすけ)と出会う。
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