『比叡山や興福寺のみならず、世間の人々が、あなたの敵になるでしょう。それでも、結婚する覚悟はあるか?』法然は静かに言う。『それで、お師匠様が教えてくださった真実の仏教が、世に明らかになるならば、私はやります。』親鸞31歳、日本で初めて僧侶でありながら公然と結婚をし、肉食を実行した僧侶であった。(尚爺創作)
親鸞上人の概要 『日本を創った思想家たち』より
南無阿弥陀仏を念じ、他力の中の他力を歩め
親鸞が生きたのは、1173年(承安3年)~1262年(文永10年)
京都日野で父藤原有範(日野有範)、母吉光御前の元に生まれる。
9歳の時に、慈円のもとで出家。
比叡山で天台宗の僧侶となり、29歳まで法華教の修行をする。しかし、法華教では自分の疑問を解決できず、山を下り、法然の専修念仏に帰依する。
1207年、旧仏教会などの圧力によって、法然は土佐に、親鸞は越後に流され、強制的に還俗させられる。
1211年赦免されたが、京で法然が亡くなったことを知り、帰京せず、在家のまま、関東茨城稲田の地で布教を続けた。
1235年ごろ京都に戻り執筆活動に専念する。
日本で初めて公的に妻帯し、子どもをもうけた僧侶。
親鸞は、なぜ妻帯したのか
日本の僧侶は、適齢年齢になると多くの方が妻帯される。日本人は、そのことに疑問を感じないのが普通。
しかし、世界を見ると、僧侶が結婚するという日本の常識は、非常識。今でも、そうだ。
観光で日本を訪れた東洋のある国の人が、婦人と一緒に歩く日本の僧侶の姿を見て、「どうして日本の僧侶は、結婚できるのだ?」と、ガイドに尋ねたという。
日本の僧侶が結婚できるようになるための、第一歩を踏み出したのが、親鸞聖人であった。
親鸞聖人の最初の妻
親鸞聖人は、二人の妻を娶ったことになっている。(玉日姫の存在そのものを疑う説もある。)
一人目は、九条兼実(かねざね)の娘、玉日姫。九条兼実といえば、当時の政界トップ。その娘を、なぜ妻としたのか。言い伝えによると、兼実は法然上人に深く帰依していたので、「法然上人の弟子の一人を自分の娘婿としたかった。」ということ。
そこで、兼実が法然上人に依頼し、法然の勧めで親鸞は玉日姫と結婚することになったという。
結婚には、大覚悟が必要だった
鎌倉新仏教が生まれる前まで、日本の仏教界では、僧侶の妻帯・肉食・飲酒などは禁じられていた。
当然、隠れて、妻帯・肉食・飲酒をを行っていた者はいる。比叡山などは、ずいぶんと風紀が乱れていたような記述も残る。
しかし、親鸞は「隠れて」ではない。公然と「妻帯」を実行した最初の僧だった。
結婚式まで行っているので、皆が親鸞の行いに注目した。
この親鸞の結婚、師匠である法然は、実行する親鸞に「大覚悟」を要求した。
いままで、タブーとされていたことを実行するのだから、権威への反逆とうつる。当然比叡山も興福寺も、他のどの寺も宗派も、法然や親鸞に対し、批判の目を向けてくる。
それだけでは無い。京都に住まう一般の人々まで、親鸞を色ぼけ、エロ坊主という意味で「色坊主だ」、「破戒僧だ」「堕落僧だ」と大騒ぎをする。
今で言うならSNS上で、大バズリの状態になってしまった。
混乱が予想されるのに、親鸞はなぜ妻帯したのか
法然と親鸞の仏教に関する強い信念が、妻帯の裏に隠れている。
すべての人間が、ありのままの姿で救われるのが、本当の仏教
である。
二人の信念が、その後の日本の思想に大きな影響を与えた。
確かに僧による妻帯が定着するのは、蓮如の時代まで待たねばならないが、最初の一歩を踏み出したのは、法然であり、親鸞である。
そして今では、日本の僧侶の多くが妻帯し、そのことに違和感をもつ者は少ない。世界の非常識が、日本の常識となった。
そして、この思想は、世界に誇るべき日本思想といえる。「誰もが、ありのままの姿で救われる」このような寛容さを日本人の心にしみこませた。
夏目漱石は、親鸞のこの日本思想史に残る大改革について、次のように述べている。
非常な思想があり、
非常な力があり、
非常に強い根底のある思想をもたなければ、
あれ程の大改革は出来ない。
親鸞流罪となる
この結婚も一つの理由として、親鸞35歳の時に、後鳥羽上皇をはじめ権力者たちの怒りを買い、親鸞は越後に、法然は土佐に流されることになった。
親鸞は、本来は死罪のはずだったが、藤原兼実(九条兼実)の計らいで罪一等を減じられての流罪だった。
親鸞は、流刑の地で5年間在家のまま布教活動をして過ごす。その後、許されて京に戻る途中、生涯の師法然上人の死を知る。
京都に帰る未練が無くなった親鸞は、常陸の国、今の茨城県稲田へおもむくことにした。そして、常陸に20年留まる。
親鸞が還暦を迎えるころ、京都に戻り、執筆活動に専心することになった。
親鸞は法然の浄土宗から離れて、浄土真宗を生んだのか
法然と親鸞は仲違いしたのか
浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、だから二人の教えは違うんだ、違うはずだ、と捉えがちだ。
教科書にも、
親鸞が、師匠である法然の教えを「徹底」「発展」させた宗派が、「浄土真宗」
と、いうような記述が見られる。
しかし、親鸞の本意は、「法然上人の教えが、正しく人々に広まること」を、意図していた。
『背師自立』は本当か
『背師自立』(はいしじりゅう)という言葉がある。
親鸞が師である法然に背き、自立して立てたのが「浄土真宗」だ、というような意味。
だが、親鸞自身は、歎異抄で次のように言っている。
たとい法然上人に すかされまいらせて 念仏して地獄に 落ちたりともさらに後悔 すべからず候
歎異抄
例え、法然上人にだまされて、念仏して地獄に落ちたとしても、私は法然上人を信じたことを決して後悔などしない。
親鸞は、法然に背こうなどとはまったく考えていない。
親鸞の関心事は、法然の教えが間違った方向に行かず、正しく人々に広まることだった。
『背師自立』、親鸞にとってこの言葉は、心を痛める言葉だったことだろう。
親鸞60歳にして『教行信証』完成のために京へ戻る
親鸞の主張を一言で言うと、教行信証(きょうぎょうしんしょう)
関東に還暦過ぎまでいた親鸞が、何のために京に戻ったかと言えば、教行信証を完成させるためだった。
教行信証とは、法然上人の、選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)の解説書である。
親鸞は、あくまで法然の教えが、正しく世に広まることを望んだ。
「新」がつくので「新しい浄土真宗」と解釈しがちだが、「法然の正しい教えを世に広めたい」、と言う意図しか無い。
親鸞90歳 死を前に
我が歳きわまりて、安養浄土に環帰するというとも和歌の浦曲(うらわ)の片男波の寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ
私は死ぬが、海の波が寄せては返すように
必ずまたこの世に戻り、
弥陀の本願とは何かを、また同じように人々に伝えるぞ
親鸞聖人は、29歳から、90歳で亡くなるまで法然上人の教えを信じ、「弥陀の本願」を伝えることに専心されてきた。
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