南北朝時代は、日本史における皇位継承を巡る激動の時代です。
このブログでは、南朝と北朝の正統性を巡る論争を、水戸学の視点から詳しく解説します。三種の神器が象徴する天皇の正統性や、北畠親房の『神皇正統記』が果たした役割を通じて、現代まで続く皇室の歴史的背景を探ります。
南北朝時代の始まり
南北朝時代の始まりは、後嵯峨法王の死後に起こった皇位継承問題から始まります。この時期、皇位を巡る争いは、持明院統と大覚寺統という二つの皇室系統の間で激化しました。
後嵯峨天皇とはどんな人
後嵯峨天皇は、鎌倉時代の第88代天皇で、以下のような特徴とエピソードがありました:
- 予想外の即位:23歳まで元服していなかった皇子でしたが、鎌倉幕府3代執権・北条泰時によって天皇に選ばれ、即位しました。
- 短い在位期間:1242年から1246年までの4年間のみ在位し、その後は院政を行いました。
- 院政と幕府との関係:26年間にわたり「治天の君」として院政を行い、鎌倉幕府との協調関係を築きました。
- 文化的側面:仏教を深く信仰し、管弦や和歌にも長じた多才な人物でした。11番目の勅撰和歌集「続古今和歌集」の編纂を命じています。
- 亀山殿の造営:京都の嵐山に亀山殿を造営し、吉野の桜を移植しました。これが現在の嵐山の桜の起源となっています。
- 南北朝時代の遠因:後継者を明確に定めずに崩御したことが、後の南北朝時代の遠因となりました。持明院統(後深草天皇系)と大覚寺統(亀山天皇系)の対立につながりました。
- 宮将軍の設置:幕府の要請を受け入れ、皇子の宗尊親王を将軍として鎌倉に送りました。これにより宮将軍の制度が始まりました。
これらのエピソードから、後嵯峨天皇は政治的にも文化的にも重要な役割を果たし、日本の歴史に大きな影響を与えた天皇であったことがわかります。
持明院統と大覚寺統
持明院統は、後深草天皇を始祖とし、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて続いた系統で、最終的には北朝として知られるようになります。
この名称は、持明院という邸宅に由来しています。持明院は、鎮守府将軍藤原基頼が創設した持仏堂に由来し、その子孫が持明院家と呼ばれるようになりました。
一方、大覚寺統は亀山天皇を始祖とし、南朝として知られるようになりました。この名前は、大覚寺の再興に尽力した後宇多天皇に由来します。彼は出家後、大覚寺で院政を行ったことからこの名がつけられました。
南北朝の対立
この二つの系統は、どちらが正当な皇位継承者であるかを巡り対立しました。
鎌倉幕府はこの対立を調停するため、「両統迭立」という制度を提案しました。これは両系統が交互に天皇を出すというもので、一時的にはこの制度で問題が解決されたかに見えました。
しかし、この合意は後醍醐天皇によって破棄されます。
後醍醐天皇の反乱
後醍醐天皇は、大覚寺統の出身であり、自身の子孫に皇位を継承させることができない状況に不満を抱いていました。
彼は鎌倉幕府の支配を打破し、自らが主導する政治体制を確立しようと考えました。
1321年に即位した後醍醐天皇は、院政を廃止し、自らが直接政治を行う「親政」を進める改革を開始しました。
後醍醐天皇は鎌倉幕府打倒を目指し、「正中の変」や「元弘の変」といった討幕運動を起こします。
しかしこれらは失敗し、彼自身も隠岐に流されることになります。それでもなお、彼は三種の神器を携えて逃亡し、南朝として吉野に新たな朝廷を開くことになります。
このようにして南北朝時代が幕を開けました。
南朝(大覚寺統)は吉野に拠点を置き、北朝(持明院統)は京都に拠点を置く形で、日本史上でも稀有な二つの朝廷が並立する時代が始まったのです。
この時代は約50年以上続き、日本全体が内乱状態となりました。
三種の神器と鎌倉幕府の滅亡
後醍醐天皇は鎌倉幕府の討幕運動は失敗し、隠岐に流されました。
その際、三種の神器を携えて逃亡します。
なぜ、三種の神器をもって逃げたのかと言えば、三種の神器は天皇であることの証だからでした。
この神器を持つことで北朝は後醍醐に代わる天皇を擁立できないと、後醍醐天皇は考えたのです。
しかし、西園寺公宗の妻の日記「竹むきが記」によれば、鏡は内侍所に残っていたとされており、後醍醐が持ち出したのは「宝剣」と「神璽(勾玉)」だけだった可能性があります。
一方で、持明院統の後伏見上皇は迅速に対応し、光厳天皇(北朝初代)が即位します。
この即位は「太上天皇の詔」に基づく特例であり、三種の神器が揃っていなくても可能とされました。
光厳天皇が即位した際には、「昼御座(ひのおまし)の剣」が、草薙剣の代用として使われたと言います。このような状況下で即位でしたので、光厳天皇は、「(自分の即位の状況は)何かしら体裁が整わない」という内心の葛藤があったとされています。
後醍醐天皇の討幕運動
後醍醐天皇は、鎌倉幕府に対抗するため、「正中の変」と「元弘の変」という討幕運動を起こしました。
正中の変は1324年(正中元年)に発生した事件で、後醍醐天皇が反幕府勢力を結集しようとしましたが、計画は密告によって発覚し失敗に終わりました。
この事件では、日野資朝らが処罰されましたが、後醍醐天皇自身は罪に問われませんでした。
続く元弘の変は1331年(元弘元年)に起こった事件で、後醍醐天皇が寺社勢力を巻き込んで再度討幕を試みました。
しかし、この計画も密告によって失敗し、後醍醐天皇は隠岐に流されることになりました。これらの挫折にもかかわらず、彼の執念はやがて鎌倉幕府の滅亡へとつながる一連の流れを引き起こしました。
三種の神器とは?
三種の神器は、日本神話において天照大神から瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に授けられた宝物であり、日本の皇位継承の証とされています。これらは以下の三つです:
- 八咫鏡(やたのかがみ) – 天照大神が自らの魂として祀るよう命じた鏡であり、伊勢神宮にあるとされています。
- 草薙剣(くさなぎのつるぎ) – 須佐之男命が八岐大蛇を退治した際に得た剣で、熱田神宮に祀られています。
- 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま) – 天岩戸から天照大神を誘い出す際に使われた勾玉で、皇居に保管されています。
これら三種の神器は、日本の歴代天皇が代々受け継いできたものであり、その存在自体が皇位の正統性を示すものとされています。
三種の神器と北朝即位
後醍醐天皇が隠岐に流される際、彼は三種の神器を持ち出しました。
これにより、北朝は新たな天皇を擁立することが困難になると思われました。
しかし、西園寺公宗の日記「竹むきが記」によると、実際には鏡は内侍所に残されていた可能性があります。つまり、持ち出されたのは「宝剣」と「神璽(勾玉)」だけだったかもしれません。
しかし、仮に鏡が宮中に残されていたとしても、剣と勾玉はなかったわけです。
北朝方は、どうするのでしょうか。
北朝方は、それでも持明院統から光厳天皇(北朝初代)を即位させたのです。
この即位は、「太上天皇の詔」に基づく特例として即位できました。
「太上天皇」とは、後伏見上皇を指します。
この特例によって、光源天皇は三種の神器が揃っていなくても代用で即位が可能とされました。
代用として用いられた「昼御座(ひのおまし)の剣」は、通常時には用いられないものでした。
しかし、過去にも別の剣が使用された例はあります。
平家滅亡時に安徳天皇とともに壇ノ浦で失われた草薙剣がその例です。
この時、本来の草薙剣は海中に沈んだとされ、その後は代用品として別の剣が使用されました。
昼御座剣はその後は即位式には使用されておらず、現在では備前長船長光作として知られる剣が「昼御座剣」として保管されています。
また、この即位時に使用した勾玉についても代用品を用いることで対処された可能性があります。後醍醐天皇から奪還されたという伝承もあり、その真偽についてはよくわかっていません。
このような背景から、光厳天皇には即位への葛藤や不安があったと言われています。彼自身もまた、「何かしら体裁が整わない」という内心を抱えていた可能性があります。このような状況下で南北朝時代は始まり、日本史上でも稀有な二つの朝廷が並立する時代となりました。
草薙剣
草薙剣(くさなぎのつるぎ)は、三種の神器の一つで、天皇の持つ武力の象徴とされています。日本神話によれば、須佐之男命(スサノオ)が八岐大蛇を退治した際に、その尾から見つけた神剣であり、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とも呼ばれます。
この剣はその後、ヤマトタケルに授けられ、彼が敵の放った火を切り払う際に使用したことで「草薙剣」と名付けられたと伝えられています。
壇ノ浦の戦い(1185年)では、平家が安徳天皇とともに入水した際に草薙剣が失われたとされますが、この時に失われたのは写しであり、本体は熱田神宮に祀られていたとされます。
昼御座の剣・清涼殿御劔
昼御座の剣は、通常は天皇の護身用として用いられるものであり、皇位継承の象徴である三種の神器とは異なります。しかし、特例として神器が揃わない場合には代用品として使用されることがありました。
壇ノ浦で草薙剣が失われた後、後鳥羽天皇や土御門天皇の即位時に「清涼殿御劔」として代用されましたようです。
「昼御座の剣」「清涼殿御劔」は三種の神器ではありません。
特定の状況下で代用として使われた歴史はあります。
現在、「昼御座の剣」は豊後行平作として知られ、天皇個人のお守り刀として存在しています。
昼御座の剣・清涼殿御劔は同じ剣なのか
- 「清涼殿御劔」と「昼御座御剣」は同じ剣を指す可能性が高いですが、完全に同一とは断言できません。
- 「昼御座御剣」は、清涼殿の昼御座に置かれていた剣で、天皇の護身用として使用されていました。
- 壇ノ浦の戦いで草薙剣(宝剣)が失われた後、後鳥羽天皇の時代から約20年間、「昼御座御剣」が宝剣の代用として使用されました。
- 土御門天皇の即位時(建久9年/1198年)にも「清涼殿御劔」(昼御座御剣)が使用されたことが記録されています。
- 「昼御座御剣」は、本来は天皇の護身用の剣でしたが、宝剣(草薙剣)の代用品としても使用されるようになりました。
- 時代によって呼び名が変わったり、複数の呼び名が並存していたりした可能性があります。
これらの情報は、主に「名刀幻想辞典」の記述によります。
南朝の巻き返しと三種の神器
1333年、新田義貞や足利尊氏らによって鎌倉幕府が滅びると、南朝は巻き返しを図ります。尊氏は後醍醐を京都に呼び戻し、この時に南朝は三種の神器を取り戻しました。
しかし、後醍醐天皇による建武の新政は行き詰まりを見せ、その結果として尊氏と決別します。
建武3年(1336年)、尊氏が京都を攻撃すると後醍醐は延暦寺に逃げ込みました。この時も三種の神器を携えていました。
尊氏は光明天皇(北朝2代)を擁立しますが、この即位も「太上天皇詔」に基づくものでした。光明天皇の践祚もまた特例的なものであり、このような背景から南北朝時代には複雑な政治的駆け引きが繰り広げられました。
南北朝時代と水戸学
南北朝時代の正統性を巡る議論は、日本史における重要なテーマであり、水戸学では南朝が正統であると主張しています。この主張の背景には、北畠親房が著した『神皇正統記』が大きな役割を果たしています。
神皇正統記は、中学校歴史教科書などに、写真で紹介されていることが多いので、見たことがあるのではないでしょうか。
南北朝正閏論とは
南北朝正閏論は、南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)のどちらが正統な皇位継承者であるかを巡る論争です。
「閏」とは「本来あるもののほかにあるもの」を意味し、正統でないが偽物でもない存在を指します。
この論争は、皇位の正当性を巡る歴史的な議論として行われました。
水戸学における南朝正統論
水戸学では、徳川光圀が編纂を始めた『大日本史』において、南朝を正統とする立場を明確にしました。
光圀は、南朝が三種の神器を保持していたことを根拠に、その正統性を主張しました。この考え方は、江戸時代以降、尊王攘夷思想や明治維新の思想的原動力としても影響を与えました。
北畠親房と『神皇正統記』
北畠親房は、『神皇正統記』において、三種の神器の所在と皇位継承における「正統」概念を用いて南朝の正統性を説きました。親房は、三種の神器が天皇の徳目を象徴するものであり、それらを持つことが天皇としての正当性を担保すると考えました。具体的には、
- 鏡は「正直」を、
- 璽(勾玉)**は「慈悲」を、
- 剣は「知恵(決断)」を表すとされます。
親房は、この三徳を具現化することが天皇としての正統性につながるとし、南朝こそが正統であると主張しました。彼の思想は、「徳がない君主の皇統は断絶し得る」という厳しい理論に基づいています。
他の学派との比較
- 南朝正統論: 北畠親房の『神皇正統記』に基づき、三種の神器により南朝の正統性を説く。【水戸学】
- 北朝正統論: 北朝側からは後花園天皇以降の系譜を重視し、『続神皇正統記』などで自らの正統性を主張。
- 両統対立論・並立論: 近代になると、両朝がそれぞれ独自の正統性を持つという見方も出てきました。
正平一統とその影響
正平一統では、一時的に南北朝が和睦しました。
しかし、その後再び決裂します。この際、北朝方には戴くべき天皇がおらず、新たな論理として「三種の神器不要論」が唱えられました。
この論理では、「太上天皇の詔」も「三種の神器」も践祚【天皇が皇位を継承すること】には必要ないとされました。
このような状況下で、新たな論理として「継体天皇」の前例が引き合いに出されました。
継体天皇の場合、「太上天皇詔」や「三種の神器」が無くとも践祚できたという先例です。
この論理に基づき、新たな北朝方の天皇即位が行われました。
南北朝合一
明徳3年(1392年)、足利義満によって南北朝が合一されました。この合一には以下の条件がありました:
- 神器を南朝から北朝へ譲渡する。
- 皇位継承は南北交代で行う。
- 南朝廷臣への経済援助として諸国国衙領を与える。
この合一によって三種の神器は北朝に渡りました。
しかし、水戸学ではこの歴史的経緯から南朝こそが正統であると考えています。
宝剣について、『綾小路宰相入道記』には、「宝剣は元暦に沈んだため神鏡・神璽・昼御座剣である」と記されています。
このような歴史的背景から、水戸学では大義名分として南朝こそが正統であるという見解を示しるのです。これは単なる歴史的事実だけでなく、日本史全体における理念や価値観にも影響を与えていると言えるでしょう。
現在への影響
明治時代には、明治天皇によって南朝が公式に正統とされました。
この背景には、水戸学や『神皇正統記』による思想的な基盤がありました。水戸学では、名分論的な立場から南朝を支持し、その思想は日本史上における重要な議論として後世に影響を与え続けているのです。
しかし、現在の日本の皇室は北朝の系譜を引き継いでいます。これは、南北朝合一後、北朝の系統が途切れることなく続いているからです。
南北朝時代の対立が終結した後、両朝の和解と統合が進み、結果として北朝の系統が皇位を継承する形で安定しました。この歴史的経緯により、現在の天皇家は正統な皇位継承者として認められています。
水戸学における南北朝時代の正閏論は、日本史全体における理念や価値観にも深く関わってきました。
しかし、実際の皇位継承については歴史的な和解と連続性が重視されているため、現代では北朝の系譜が正当な天皇家として位置づけられています。
まとめ
南北朝時代の正統性を巡る議論は、日本の歴史において重要なテーマであり、水戸学を通じて深く考察されてきました。
水戸学では、三種の神器を持つことが天皇の正当性を示すとし、南朝を正統とする立場を取っています。この考え方は、北畠親房の『神皇正統記』に基づき、江戸時代以降の尊王攘夷思想や明治維新にも影響を与えました。
一方で、南北朝の対立が終結した後、北朝の系統が皇位を継承し続けたことにより、現在の天皇家は正当な皇位継承者として認められています。この歴史的経緯は、南北朝時代の和解と統合によるものであり、日本の皇室が長く続く安定した存在であることを示していると言えます。
このように、南北朝時代の正閏論は日本史全体における理念や価値観に深く関わっており、その影響は現代にも続いています。水戸学が提唱した南朝正統論は、歴史的な議論として現在も多くの人々にも学問的に考えさせる要素を持ち続けているのです。
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