- 歴史雑感
江戸を創った悲劇の武将太田道灌の素性
悲劇の武将といわれる太田道灌とは、どのような武将だったのか。江戸城に招かれた僧、万里集九は「文も武も備えた人物」と称した。まるで水戸学の「文武不岐」を地でいく人物だ。 - 常陸佐竹氏
上杉禅秀の乱・永享の乱・享徳の乱の中、100年間佐竹宗家と戦った山入氏は、どのように滅んだか
山入氏義に金砂山城を攻められた佐竹宗家の義舜は、天が味方したか雷雨に救われて氏義を破りました。そして、永正元年(1504)山入氏義から太田城を奪還。100年にわたる山入氏の乱の終結です。 - 常陸佐竹氏
享徳の乱「公方成氏と幕府・管領との争い」が戦国時代の幕を開ける
享徳の乱は、荒く言えば15世紀中盤に28年にわたって行こなわれた『公方と管領の争い』です。この乱後、鎌倉府は全く機能しなくなり、領土問題が生じたら自力解決することになります。大義名分などお構いなしの戦国乱世の時代の到来です。 - 日本らしさ
日本人とはどのような民族か:「太陽の民」恩を感じて生きる民族
日本人は、太陽の恵みを2千年も前から自覚していた。古代人は太陽のことを「お陰様」とも言っている。「我々は太陽のお陰様で生きている」と。 命の原因は太陽だということを、我々の先祖はすごく大事にしてきた。そこから「日の本」という言葉が生まれる。「日の本」は「日が本」でありそれが「日本」という国名。 - 水戸学
水戸学と、会津の日新館の教えはどう違うのか
政治家など人の上に立つ者が、私利私欲だけで動いたら国は成り立たない。エリートがエリートであるためには、人格的にも高潔で優れている必要がある。 江戸期、武士は当時の人口の約7%程度だった。そして多くの武士は人間として洗練されていた。それは当時の教育に負うところが大きい。 会津の「什の掟」も当時の高潔な人間を育てる貴重な掟、そして教えだった。 - 新聞雑感
自衛隊は何日間戦い続けることが可能か
防衛省幹部は「弾薬が足りない。 弾薬を買う予算もない。予算がないため補給拠点も増設できない」と~ ~ 防衛費不足に伴う三重苦~ ~北海道にも防衛費不足の弊害~ 保管してから年数がたち、使えなくなって捨てるしかない廃弾を処分する予算に事欠き、保管量に余裕がなくなってくる。 - 常陸佐竹氏
常陸の名門 結城氏はなぜ滅んだのか
永享11年(1439)2月に、幕府軍と管領軍の両方に攻められ持氏は自害します。初代基氏(正平4年(1349・貞和5))から、90年続いた鎌倉府が一時途絶えたのです。そして、この鎌倉府滅亡こそ結城合戦の原因でした。 - 常陸佐竹氏
室町幕府の義教と鎌倉府の持氏が争った永享の乱
◯上杉禅秀の乱後の室町幕府と鎌倉府 ・嫡子が途絶えた佐竹氏の後継争い ・上杉禅秀の乱 ・公方と将軍の争い ◯永享の乱と佐竹一族 ・鎌倉幕府の将軍になれなかった公方持氏 大いに怒る ・公方持氏 ・京都御扶持衆の大掾満幹を滅ぼす ・将軍義教の反撃 ・永享の乱勃発 - 常陸佐竹氏
上杉禅秀の乱と佐竹一族 山入氏の反乱
山入氏の反乱 13代の義盛の時代は、佐竹の安定期でした。 しかし、佐竹家存亡の危機が訪れます。応永14年(1407)、13代義盛が43歳の時に嫡子がいないまま亡くなってしまったのです。 当然、跡目を巡って、一族のみならず国人層も交えて紛争が起こりま... - 常陸佐竹氏
常陸の最後の南北朝の戦い 難台山合戦 と佐竹一族
常陸の最後の南北朝の戦い 難台山合戦 難台山城とは 難台山城は、現在の笠間市と石岡市の境界にあります。関城が落城し南朝の巨人畠山親房が常陸を去った後、久しく沈黙していた南朝方勢力が、常陸の北朝方に最後の戦いを挑んだ場所です。 難台山城後...