本居宣長は、伊勢(三重県)の木綿問屋の子として生まれた。家運が傾き、23歳の時に医師になるため京都にへ留学。28歳で町医者となった。歌人としての活動を続けながら、1763年に国文研究の著書『石上私淑言(いそのかみささめごと)』を書く。さらに71年には神道論『直毘霊(なおびのみたま)』の初稿を書き、98年には有名な『古事記伝』を脱稿した。
国学者『本居宣長』の名は、学校でも習うが、宣長の国学とは、どのような学問だったのだろうか。
本居宣長の出自
本居宣長は、江戸時代中期の1730年~1801年に生きた人物。江戸幕府8代将軍徳川吉宗の治世であった享保15年(1730年)に伊勢の国飯高郡松坂で生まれた。
松坂は現在の三重県。伊勢松坂の木綿問屋の次男であった。
本居家の始祖は、桓武平家の平頼盛だとされ、先祖は北畠氏や、蒲生氏郷に仕え武士身分であったという。
宣長の『国学』とは
宣長は、国学者として「古事記伝」を30数年の年月をかけて書き上げた。日本思想史に欠かせない人物の一人である。宣長の研究は徹底した文献的操作を基に客観的・帰納的・説明的手法による。また、文芸的本質論としての「物のあわれ」に基づいた感性的人間観に基づいている、と言われる。
多分に湿っぽい。
例えば、有名な敷島の歌
敷島のやまとごころを 人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花
この歌は、宣長が61歳の時につくった歌で、自画像と一緒に書かれている。
意味は、
日本人である私の心とは、朝日に照らされて輝く山桜の美しさを知り、その麗しさに感動できる、そのような心です。
といかにも、日本人的だ。
このような心こそ、古事記の時代から伝わる日本人の心だ、と言うのが本居宣長の「国学」の根本思想。
宣長は、儒教や仏教などの外国の教えに対抗すべき「皇国の道」として神道を唱えた。その支えとなったのが「古典」とりわけ「古事記」だとして、「古事記」の研究に心血を注いだ。
官学である「朱子学」は、統治者に都合のよい『理』の学問
世の中は、朱子学の時代であった。
宣長のころは、既に太平の世が100年以上も続いている。この平和を維持する役割の一端を担っていたのが,官学の朱子学であった。
朱子学は、「世の中には秩序があり、それを護るのが『理』」であると教える。「身分秩序」「幕藩体制」を護ることが『理にかなった善である』ということになり、幕藩体制が護られることになる。
朱子学は、「理」の学問である。世のすべての物のは「大理(宇宙の法則)」に従って動く。ただし、この「理」は、物理学の「法則」のような「理」ではなく、統治者に都合のよい秩序維持のための『理』を指す。
具体的には「仁義礼智信忠孝悌」。
このような「理」を護り、行動原理としていくことが朱子学の思考体系となる。
朱子学を批判した、宣長の「国学」
宣長の「国学」を一言で言えば、『漢意(からごころ)を取り去り、大和心を奪還するための学問』といえる。宣長は、「仁義礼智信忠孝悌」など中国や朝鮮などから入ってきた思想『漢意(からごころ)』は、『さかしら(こざかしい)』と、大罵倒する。
この国は、天照大神から続く天孫が統治する国である。万世一系の天皇がシラス国は、この国以外世界のどこにもない。そこへ、儒教などが後から入ってきて、大手を振っているのは、なんと賢(さか)しらなことか。
日本民族は、儒教などに頼らず、「天皇が天下を治める道を我が道」として日々を過ごせばいいのだ。『すがすがしい心で古事記などの古書を学んで』いれば、自ずと臣下としての自分は、どう振る舞えばよいかが分かってくる。臣下はそのような『神の道』を行えばよいのだ。
「仁義礼智信忠孝悌」などの『真心』は、ことさらに学ぶ必要がどこにあるのだ。
人は生まれながらにそのような心を既に知っている。「仁義礼智信忠孝悌」などは、人が生まれながらにもつ『産土(うぶすな)の御霊(みたま)』であり、古代からの「神ながらの道」に示されている。知ったかぶりをしている漢意である儒教などに学ぶ必要は無い。
古事記などを「純粋な心」で読むことこそ大切だ。
宣長国学が述べていることを簡単にまとめると、このようになるだろう。
宣長国学の『キーワード』『物のあわれ』『真心』『神の仕業』『妙理』
本居宣長は、生涯200冊を越える著作がある。学者らしい学者と言ってよい。若いときから、古典に強い関心を示し、特に歌学と詠歌について熱心だった。興味対象が「歌」だったので、歌道・歌学において必見の書と見なされていた『源氏物語』を、古典の最高の書と評している。
宣長は、歌学の研究を通して、歌の中に現れる「自然な形の神道(自然の神道)」にも関心をもっていく。宣長は、『和歌は日本人に最もふさわしい」と述べている。
このように、宣長の国学は、和歌・歌学と切り離すことができない。
物のあわれ
宣長は、文芸の本質は「物のあわれ」だと述べている。
『源氏物語』や『和歌』は、『人に物のあわれを知らすため、自らはそれを知るために、書き、かつ読むものであることを明らかにしている。』
という。
「物」とは、対象を意味し、「あわれ」とは、対象に触発されておこる感動のことを指す。
だから、「物のあわれ」に堪えないときに、人は「言うまいとしても、言わずにおれなくなる。」これが、「やむにやまれぬ人情の自然」だという。
別の言葉で言えば「感性重視」だ。そして、「感性に基づく人間観」が歌学だけでなく、宣長国学の基底思想となっている。
朱子学などは、「理」の学問だから、どのような「理」で成り立っているのかを探る。朱子学の「理」の解明に対して、対して、宣長古学は「感性」で感じる。
国学の追究で行く付くのは「道」。歌道、神道など感性的な思想となる。宣長の学問は「道の学問」であると言われるのはこのためだ。
真心 神のしわざ
朱子学では、「理」を学ぶことによって知る。しかし、宣長は、「そのようなものは、日の本の人間なら皆生まれながらにもっている」と言う。
宣長の神道思想について、
本居宣長:城福勇著(吉川弘文館)より
- 第一に神道は皇祖神の道であるとすることである。これは『古事記』以下の進展の記述から帰納される要素でもあろうが、すでに触れたように彼の解釈が大きく加わりむしろ彼なりの一神学大系が構築されつつあることを示す。
- 第二に「元来の真心」という言葉が一か所だけあるが見え、これが後に「本の真心」、あるいは生まれついたままの心という思想に発展し、彼の神道説の一中心を形づくるようになる。
- 第三に、この世のすべて事象は神の所為であるという「神のしわざ」思想が明瞭にあらわれている。これはその信仰生活とも深く結び付き、中・晩年にはいよいよ整備されて、彼の神道説の今ひとつの革新となること、よく知られた事実である。
神道というのは、「ウブスナガミの道」だという。古事記を読めばそれが分かる。だから、「真心=うまれついたままの純真な心」で古事記を読めば、「世の中のすべてのことは、神の仕業であることが分かる。良いことも悪いこともすべて神の仕業なのだから、あくせくすることはない。」という感性的な神道観が示される。
妙理(みょうり)
朱子学は「理」の学問であり、「理」は不変である。よってその理は「常理」。
それに対し、神道の「理」は「神のしわざ」としての「理」である。この「神のしわざ」としての『理」は、時代によって、またその時々の場によって、変わる、深淵で言い様もなく優れた「理」である。これが「妙理」である。
朱子学の「常理」に対し、「妙理」を説いた。
宣長国学の基本的立場
本居宣長の国学の基本的立場を究極的に絞ると、「漢意の排斥」と、世界意識・国際観念をもった上での「皇国至上主義」の2点。
『宣長国学』に影響を与えた『水戸学』
宣長に、「馭戎慨言(ぎょじゅうがいげん)」という本がある。
「馭(おさめる・あやつる)」
「戎(えぞ・えみし・未開人)」
「慨(思うようにならない・嘆く)」
「言(言葉)」
「未開の人々の思うようにならない言葉を、操る書」という意味か。
この書には、「中国・朝鮮との外交的交渉の歴史」が書かれている。その中で、『名分を正す』ことが大切だと示されている。
『名分を正す』とは何か。
名分とは、『臣下』、『誰々の子』などという『名』が与えられている『身分』をもつ人が、その『身分』に応じて、守るべき『本分』のことを指す。
「名分を正す」ことの必要性は、朱子学でも「大義名分論」として示している。
ただし、宣長に「名分論」の影響を与えたのは、水戸学の祖『徳川光圀』であった。宣長は、光圀の大日本史を「めでたき書」と評している。
水戸学は、儒学の尊皇学派であり、大日本史は歴史書であると同時に「精神史」を扱った書だと認識された。
儒学の一派である水戸学を宣長は、なぜ排斥しなかったのか
宣長は、朱子学を批判している。しかし、儒学の一形態である水戸学は批判していないようだ。宣長自身、「直接影響を受けたのは徳川光圀の水戸学だ」と述べている。
朱子学に基づき幕府が作成された「本朝通鑑」は、「天皇の祖は中国人だ」と解く。日本国を守る心を持つ者にとってはとんでもない本だ。
「本朝通鑑」の批判は日本人としては当然であり、水戸学はこれを批判している。宣長としても、この点を評価し、朱子学の一形態であっても水戸学は批判対象ではないのだろう。
繰り返すが、本朝通鑑は「日本皇室の始祖は、呉の泰伯である」と記述した。光圀は、これに大反対をしている。宣長はこの点を評価し、儒学というよりは、水戸学の「名分論」を取り上げ、後の世で、ともに明治維新の志士たちに大きな影響を与えていった。
宣長国学の思想系譜
国学の祖は、契沖(1640~1701)。契沖は、「人間の本姓」論を説き、後の宣長の「真心・生まれながらの心」に影響を与えている。
契沖とほぼ同時期に、伊藤仁斎(1627~1705)と荻生徂徠(1666~1728)がいる。この3人に共通する点は、「古典を研究し、文献学・書誌学」に通じることで論を展開した点であり、宣長にその研究姿勢が受け継がれた。
宣長の国学の直接の師は、賀茂真淵(1697~1769)である。真淵の儒仏批判は、宣長に受け継がれた。
賀茂真淵の師は、荷田春満(かだのあずままろ)であった。
宣長の思想は、平田篤胤(1776~1843)などに受け継がれる。篤胤は宣長の晩年の弟子であった。篤胤の神道は、後に、幕末の尊皇国粋運動の精神的支柱となっていく。
宣長の死
宣長は享和元年(1801)9月17日ごろから風邪気味となる。生涯書き続けてきた日記が9月20日で終わっている。
25日頃から、重体化し、今でいう肺炎が悪化した状態となった。
26日ごろからは危篤状態となり、29日死去した。
その死に顔は安らかであったという。
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