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水戸を徳川御三家の一つとした 水戸光圀は 神となって祀られているというのは本当か

水戸は、もともとは御三家ではなかった。それを御三家の位置に押し上げたのは水戸光圀。天下の副将軍という役職はない。それでも人々から副将軍と呼ばれた光圀。光國ではなく光圀と改めたのは何故か。死後は神となったというのは本当か。そして、水戸学とは何か。

目次

 水戸黄門漫遊記の歌 

人生楽ありゃ苦もあるさ
涙の後には虹も出る
歩いてくゆんだしっかりと
自分の道を踏みしめて

人生勇気が必要だ
くじけりゃ誰かが先に行く
後から来たのに追い越され
泣くのが嫌ならさあ歩け

子ども時代に歌った いかにも昭和を思わせる歌だ。私の子ども時代は、日本人のおそらくほとんどの人が知っていた水戸黄門。

先日、学習指導をしている中学生に、「水戸黄門、知ってる?」と聞いたら、
「誰それ?」という答えが返ってきた。

水戸に住む中学生ですらコレだ。今の日本人のどれくらいが水戸黄門、徳川光圀を知っているだろうか。

○徳川光圀の誕生

「徳川光圀」(とくがわみつくに)は、1628年(寛永5年)に、徳川家康公の11男の水戸藩の初代藩主「徳川頼房」(とくがわよりふさ)の三男として誕生した。

しかし,次男は幼くして亡くなっている。また長男も、幼いうちに一度寺に預けられいた。

3男の光圀が水戸家の跡継ぎとなった。しかし、光圀が生まれたときは、なんと父である水戸家初代徳川頼房の命令によって、水子(みずこ:堕胎などで生まれなかった子)にされることになっていた。

だが、その命令は、重臣の「三木之次」(みきゆきつぐ)の計らいによってはばまれる。なぜ、光圀が水子にされそうになったのか、今となっては確かな理由は分からない。

だが、徳川光圀の母「久子」(ひさこ・お久ひさの方・久昌院きゅうしょういん)が、懐妊時に正式な側室ではなかったからだと考えられている。

頼房に正室はいない。徳川家でも正室を持たない者は頼房だけだった。正室不在のまま、頼房には側室が5人いたとされる。光圀の母もそのうちの一人と数えられるが、本当は側室でもなかったようだ。頼房に隠されて育ち、光圀が水戸家の跡継ぎとして幕府に届けられるときになって始めて、光圀の母は、便宜上側室とされた。

頼房に堕胎を命じられながら久子は堕胎をせず、水戸城下の三木邸で徳川光圀を出産した。(現在、光圀生誕地は水戸黄門神社(義公祠堂)として祀られている。所在地:水戸市三の丸2-2-29)

光圀誕生の地

光圀の幼名は長丸(のち千代松)。生後は三木之次の子として育てられる。1632年(寛永9年)に、ようやく頼房の子と認められ水戸城入りを果たす。

翌年1633年(寛永10年)に、兄の頼重を差しおいて徳川頼房の跡継ぎとなった。

世嗣となった光圀は、江戸の水戸家小石川屋敷(小石川後楽園や東京ドームの地)へ住まいを移す。そこで、父頼房公から千代松の名をあたえられ、厳しい文武の教育をうけた。

9歳で元服し、将軍家光から光の一字をもらい、光國を名乗りとした。だが、の字が「国構えに『惑う』」であることを嫌い、後に「国構えに八方」「八方良し」で「」を用いることとして表記を光圀と改めた。

正式に水戸徳川家の跡継ぎとなった光圀だったが、父から水子にされそうになったことや、兄に対する負い目のためか、少年期・青年期の光圀は荒れていた。

かぶき者 光圀

 光圀には、少年時代からたくさんエピソードが残されている。7歳のとき小石川藩邸近くの桜の馬場で、処刑された罪人の重い生首を闇夜に一人で引きずって帰ってきた話。

12歳で洪水直後の浅草川(現在の隅田川)を泳ぎきるという離れ業をやってのけた話などはよく知られている。

この頃の光圀は学問には関心を示さず、不逞無頼(ふていぶらい)のいわば不良少年だった。

小野角衛門の諫言(かんげん)文(「小野諫草」)に、16・7歳の光圀は、江戸で流行していた「かぶき者」(異様な風体をして大道を横行する者)の仕草をまね、三味線片手に歌を歌い、服装もいわゆる伊達(だて)に染めた木綿の小袖にビロードの襟をつけたものを着て、野卑な世間話をし、弟たちを前にしては「色好み」のことを得意げに話していたという。

数々の非行があり、周りの者から「権現様(家康)の御孫様」とはとても思えないと言われ、あきれさせていた。

父の頼房は、光圀のこの現状に心をいため、熱海へ湯治に出かけた時にも16歳の光圀をわざわざ同伴し、旅先で日ごろの行状にきびしい注意を与えたとされる。だが、光圀は、その忠告を歯牙にもかけず、辻斬りまがいの行動など、わがまま放題にふるまっていたという。

だが、「御おん色白く、御像おせい高く、・・・若き御時ハ世上せじょうにて美男の聞えあり」(『桃源遺事』)とあるように、相当の美男子で、腕っ節も強く、剛毅な性格でもあり、仲間内では一目置かれていたようだ。

かぶきもの光圀 想像

光圀の発奮

  このまま何事も無く時だけ過ぎたとすれば、『見かけは良いが、中身はスカスカなわがまま放題の馬鹿殿様』ができあっただろうが、歴史はそれを許さなかった。

  光圀の生活が変わったのは、18歳のとき。中国の歴史書「史記」(しき)との出会いが、光圀を変えた。

史記に載る「伯夷伝」を読み、感銘を受ける。「伯夷伝」に載る伯夷と叔斉の兄弟は、自分と別腹の兄頼重との関係に似ていたのだ。
この二人の生き様を知り、自分の現状の情けなさを痛烈に反省する。そして一念発起し、それまでのすさんだ生活を改め、勉学に励みだす。

史記とは

 「史記」とは、中国古代の司馬遷(しばせん)(紀元前145~86)が著した歴史書。

その中の列伝(れつでん)(人臣の伝記をつらね記した記録)という部分のはじめにあるのが伯夷伝。伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)兄弟の伝記である。 

 

むかし、孤竹国の王子に伯夷・叔斉がおり、父は弟に国を譲りたいと思っていた。父の死後弟は兄をこえて国を継ぐのは礼に反するとして兄に譲ろうとしたが、兄も父の遺志を尊重して受けず、二人とも国外に去ったので、人々はやむなく中の子に国を継がせることにした。

 光圀は、伯夷と叔斉兄弟の高潔な人柄に接した衝撃を受ける。「これまでの自分は、なんと馬鹿げた生活をおくってきたことか」と深刻な反省の気持を抱いた。

これにより自分の子ではなく、兄の子に家督をゆずる決心をした。

光圀は34歳のとき水戸藩の第2代の藩主となった。その家督相続を承諾するに当たり、光圀は兄弟たちを集め、宣言する。

「自分は、18歳から心にきめていた志があること。それは兄頼重を説得してその子を養子にむかえ、これを育て、その子に水戸家を継がせること」

これを受け入れなければ自分は水戸家を継がないと宣言した。

この宣言によって、兄の頼重の子、綱方(つなかた)を養子としたが、残念ながら十年後に病死してしまう。そこで、弟の綱條(つなえだ)を再度養子とした。

 この綱条は、光圀が六63歳で太田の西山荘に隠居したあと、第3代の藩主となった。光圀は18で立てた志を、46年後に実現した。

光圀と大日本史

 学問に志をたててからの光圀は勉学に励んだ。十九歳で先生格の人見ト幽(ひとみぼくゆう)・辻了的(つじりょうてき)との交際し、日々古書をひもとき、和歌の道に励む、向学心旺盛な青年となっていた。

 光圀は、日本でも「史記」のような立派な歴史書があれば、後世の人々を発奮させることができるだろうと考え、30歳からそのための編さん事業を開始した。やがて、その編纂局は彰考館と名付けられ、京都をはじめ各地から優秀な学者を多数まねいて歴史書「大日本史」の編纂に取り組んだ。

日本における代表的な修史事業は、古代には国家が正史として編さんした『日本書紀』からはじまる六国史(りっこくし)。鎌倉幕府編さんの『吾妻鏡』(あずまかがみ)、近世には江戸幕府が編さんした『本朝通鑑』(ほんちょうつがん)、そして水戸藩編さんの『大日本史』へとつながる。

大日本史が完成したのは何と明治39年250年の歳月を要した。しかしそれは、強い精神力をもった光圀の思いがあったからだと言えよう。

水戸学の基礎

水戸学を一言で言えば、尊皇思想
もし朝廷と幕府が争ったら朝廷側につくことを時限爆弾のように光圀によって決定づけられていた、とも言える。
これにより、15代将軍「徳川慶喜の敵前逃亡という、謎の行動の理由」もある程度分かる。

水戸学の基礎を気付いた人物として忘れてならないのは、「朱舜水」。

光圀が、1665年(寛文5年)に水戸に招いた朱舜水だ。舜水は、(1368年から1644年:中国の江南を根拠地とした、漢人王朝)が滅亡したことにより、日本に亡命してきた儒学者であった。

舜水の儒学を中心とする学問が、「水戸学」(みとがく)の基礎をなしている。

朱瞬水木像

水戸学

一般的には、この徳川光圀による修史事業に携わった学者達の間で成立した学問を「前期水戸学」と呼ぶ。
そして、9代藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)による藩政改革で成立したものを「後期水戸学」と呼んでいる。
さらに、前期と後期をつなぐ藤田幽谷などの時代を中期水戸学と呼ぶ者もいる。

特に、水戸学は、「尊王・敬幕」(そんのう・けいばく)の政治思想として、多くの人々に影響を与えていくことになる。

兄の子に家督を譲った理由とは

 徳川光圀は、およそ30年の藩主期間を経て、1690年(元禄3年)に家督を譲り隠居する。

徳川光圀の後を継いで3代藩主となったのは、兄頼重(よりしげ)の次男で、光圀の養子となっていた「徳川綱條」(とくがわつなえだ)だった。

光圀に実施がいなかったわけではない。光圀にも頼常(よりつね)という子がいた。
水戸藩と高松藩、光圀と頼重は互いの子を交換し、水戸を頼重の子に、高松を光圀の子に継がせた。

なぜこのようなことをしたのか。もちろん若いときに読んだ「伯夷伝」が影響した。
「自分には兄がいて、本来は兄が水戸家を次ぐべきなのに、自分が後を取ることになってしまった。」これは「人としてどうなのか」と、自問自答していたのだろう。そこで、自分の後は兄の子に水戸家を継がせ、正統な血脈に戻そうと考えたのだ。

また兄の頼重は、光圀の思いに応え、光圀の子に自分の後の高松藩12万石を継がせた。

「自分さえ良ければ」と「自らの繁栄」を望むのが人間。ましてや封建制の時代に、光圀は言葉だけでなく自らの「義」を、このような形で実行した。そう簡単にできることではない。

3代藩主となった徳川綱條は、徳川光圀の修史事業を引き継ぎ、水戸藩の学問振興に貢献する。

光圀

光国の名前の色々

◇水戸黄門の諱いみな(本名)=徳川光圀(初め光國)
◇幼名=長丸ちょうまる・千代松ちよまつ。
◇字あざな(又の名)=子龍しりょう

◇号=常山じょうざん・梅里ばいり(梅里先生)・西山せいざんなど
◇隠居後=黄門様・黄門公・黄門老公・黄門大君
◇諡おくりな(亡くなった後に贈られる名)=義公ぎこう

◆朝廷から叙任じょにんされた位階・官職名
 現役藩主時代=従三位じゅさんみ・参議兼右近衛権うこのえのごんの中将
 隠居後=権ごん中納言(唐名の黄門侍郎こうもんじろうに相当=黄門)

◆副将軍=幕府の役職に副将軍はない。
 水戸人をはじめ、将軍綱吉に率直に意見を言う光圀を見て、人々がそのように呼んだ。

隠居後の光圀

1690年10月14日(元禄3年)に幕府から隠居の許可がおた。高松の綱條が第3代水戸藩主を継いだ。隠居後光圀は、権中納言に任じられた。

11月29日江戸を立ち、12月4日水戸に到着している。水戸には5か月ほど逗留。そして、元禄4年(1691年)5月、久慈郡新宿村西山に建設された隠居所である西山荘(せいざんそう)に入った。

元禄4年(同年)4月、佐々十竹(助三郎)を楠正成が自刃したとされる湊川に派遣した。十竹は、楠正成の碑を見つけることができたので、光圀は、湊川神社に正成を讃える墓を建造させた。墓石には、光圀の筆をもとに「嗚呼忠臣楠氏之墓」と刻ませた。

また元禄4年(同年)、藩医であった穂積甫庵(ほあん)に命じて『救民妙薬』を編集し、薬草から397種の製薬方法を記させた。

西山荘

光圀の宗教政策

元禄6年から数年にわたり、堕落し金集めだけに奔走する寺や神社などを許さず「迷信・邪信」の排除政策を勧めた。葬礼の費用が少なくなるように寺社仏閣改革を進めた。儀礼の基準を示し、常磐と酒門に寺に属さない共同墓地をつくった。だが、光圀の死後は、戒名に多額の金を取るなどの虚礼が復活していく。

八幡潰し

水戸藩領内において八幡潰しと呼ばれる神社整理では、神仏習合の否定、そして神道の復興政策を推し進め、藩内66社の八幡社のうち15社が破却され、43社が祭神を変更されている。

藤井紋太夫(ふじい もんだゆう)事件

元禄7年3月、5代将軍綱吉の命により隠居後初めて江戸にのぼっている。11月23日、小石川藩邸内で幕府の老中や諸大名、旗本を招いて行われた能舞興行の際、家臣の藤井紋太夫(徳昭:のりあき)を刺殺した。

光圀が自ら能装束で「千手」を舞ったのち、楽屋に紋太夫を呼び、問答の後突然刺したという。

現場近くで目撃した井上玄桐の『玄桐筆記』に事件の様子が書かれている。幕府に出された届出によると、紋太夫が光圀の引退後、高慢な態度を見せるようになり、家臣の間にも不安が拡がるようになっていたためであり、咄嗟の殺害ではなく、以前からの処罰が念頭にあり、当日の問答によっては決行もありうると考えていたようである。理由の詳細は不明だが、紋太夫が柳沢吉保と結んで光圀の失脚を謀ったためとも言われている。翌元禄8年1月に、光圀は江戸を発ち、西山荘に帰った。

光圀の死

元禄9年(1696年)12月23日、亡妻・泰姫の命日に落飾する。
寺社改革を断行した光圀だが、久昌寺に招いた日乗上人らと交流し、年齢を重ねるごとに仏教に心を寄せていったことがうかがえる。

72歳頃から食欲不振が目立ち始め、1700年元禄13年12月6日に死去した。73歳(満71歳没)。

湊川への佐々介三郎の派遣したことが、テレビなどで見都黄門漫遊記として取り扱われるようになっていくが、自身では一度も全国行脚は行われていない。鎌倉の法事に出かけたのが最も遠出だったといわれている。

助さん 佐々十竹の眠る寺

 水戸黄門漫遊記は創作だが、助さんは実際に旅をしている。助さんの実名は、佐佐十竹(宗淳)。彼の墓は常陸太田の正宗寺にある。

彰考館総裁として活躍した学者だが、自らの足で神戸湊川に調査に出て、楠正成の顕彰碑を光圀の命により建てている。

正宗寺

萬秀山正法院と号する寺院。延長元(923)年に平将門の父良将が創建。創建当初は勝楽寺と号していた。貞王2(1223)に佐竹氏4代秀義が勝楽寺の境内に正法院を建てる。

暦応4(1341)年に佐竹9代 貞義の子である月山周枢が師の夢窓疎石を招き,同じ寺院内に正宗庵を創建。
佐竹10代義篤が正宗庵を臨済禅刹に改めて正宗寺とした。勝楽寺と正法寺は後の争乱によって衰えてしまったが、正宗寺は佐竹氏の菩提所として残り,関東十刹の一つとして繁栄を続けた。

十竹の墓

光圀や斉昭が祀られる常磐神社

光圀公について、次のような逸話がある。京都徳大寺の僧覚印が、佐々宗淳に語った話。

 「我れ日本国中を見るに、最大なるもの二有り。富士山と水戸相公(しょうこう)也。」

 霊元天皇からは「武を備え文を兼ねて絶代の名士なり」と光圀を評したという。

水戸黄門、徳川光圀公の諡(おくりな)は義公(ぎこう)。黄門様が亡くなったときに、

「天が下 二つの宝つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門」

と、人々はなげき悲しんだと言われる。

この光圀が、神として常磐神社に祀られている。神号は高譲味道根命(たかゆずるうましみちねのみこと)

  水戸が御三家の一つに数えられるようになったのは光圀による。

だが、学問の府水戸藩であっても、藩祖頼房の時代からすでに財政危機に直面していた。国家の歴史書編纂事業は、本来ならば一藩の手に負えるような規模のものではない。この事業のために、水戸藩は財政の三分の一を費やしていたとも言わる。編纂事業は、ただでさえ苦しい水戸藩財政を、さらに厳しくした。このため領民の負担は大きく、数多くの一揆や領民の逃散などが起きている。決して暮らし安い国ではなかった。

光圀により水戸家は 御三家となる

徳川五代将軍綱吉の時代には、水戸光圀は綱吉に対するご意見番であった。徳川家の長老格として、様々な国政に対して意見を述べていた。『御三家』というのは、本来は、徳川本家、尾張徳川家、紀伊徳川家を指していた。その御三家の中に『水戸徳川家』が数えられるようになったのは、光圀による国政参加(綱吉へのアドバイス)が大きい。『水戸は御三家』と言われるだけの基礎を築いたのは、まさに徳川光圀の功によってだった。

大日本史に影響を受けた幕末の獅子たち

光圀の死後も、水戸藩の事業として大日本史は引き継がれ、明治39年、250年の時間をかけ光圀の志は、402巻の形となって完成した。この大日本史は、幕末の志士吉田松陰や西郷隆盛など、多くの人々に影響を及ぼした。

 天皇を重視する水戸の思想は「水戸学」と呼ばれ、やがて攘夷思想と結び付いて広がり、倒幕運動へと転換していった。水戸藩出身の最後の将軍慶喜は、将軍就任時「徳川でなく、天皇、そして日本を見よ」という言葉を残し、徳川家は15代慶喜をもってその通りに幕を閉じた。

徳川光圀の人生を 第1期から第4期に分けて語る

 第1期

出生と水戸時代。寛永(かんえい)5年6月10日、水戸城下の重臣三木之次(ゆきつぐ)の屋敷で生まれ、6歳で水戸家の世子(せいし)(跡継ぎ)に決定するまで。
初代藩主徳川頼房(よりふさ)(家康の第11子)の三男。母は谷久子、諡は靖定(せいてい)夫人。光圀が頼房の子と認められ、水戸城入りをしたのは5歳のころで、その出生は不遇。[瀬谷義彦による]

第2期

世子の時代。
世子に決まり、江戸・小石川の水戸藩邸に移った1633年(寛永10)から61年(寛文1)34歳で藩主となるまでの、およそ28年間。18歳のとき『史記』の「伯夷(はくい)伝」を読んで感動し、学問に目覚め、修史の志をたてるまでは、非行が多く父や家臣らを困らせた。27歳のとき前関白近衛信尋(このえのぶひろ)の娘泰姫(たいひめ)と結婚したが、31歳で夫人を亡くしてからは、生涯後妻を迎えなかった。1657年(明暦3)2月、江戸大火の直後、光圀は史局を江戸・駒込(こまごめ)の中屋敷(東京大学農学部構内)に開設した。修史事業の第一歩である。

第3期

藩主の時代。34歳から1690年(元禄3)63歳で引退するまでの29年間である。この間、上水道の敷設、士族の墓地の創設、社寺の郊外移転などによって、城下町水戸の整備を図ったほか、小石川邸内に史局を移して彰考館と命名し、全国から学者を招いて、『大日本史』編纂(へんさん)を本格的に進めた。

第4期

西山時代。引退してから翌年水戸の北方西山の地(常陸太田(ひたちおおた)市)に山荘を建てて、元禄(げんろく)13年12月6日、73歳で没するまでのおよそ10年間。藩主の職は兄の高松藩主松平頼重(よりしげ)の子綱条(つなえだ)に譲ったが、なお政治的には綱条の後見的役割を果たしたほか、『大日本史』の本紀、列伝の完成を目ざして、彰考館を水戸城中にも開き、その結果多くの学者が水戸にも集められ、水戸の学問的発展の基となったこと、盛んに領内を巡り民情視察を行ったこと、とくに文化財の発掘保護に努めたことなどは、晩年の特色である。

 光圀のおもな業績は、父頼房の死に際して殉死を禁じ幕府の殉死禁令に示唆を与えたといわれること、徹底した社寺の改革などが政治的に重要である。文化史上では、『大日本史』など各種の編纂事業、侍塚(さむらいづか)古墳の発掘調査、那須国造(なすくにのみやつこ)碑はじめ多くの文化財の保護に努めたことなど、現代的意義が大きい。世に喧伝(けんでん)される「水戸黄門(こうもん)漫遊記」の類は、光圀の名声をもとに、明治末期から大正にかけて創作されたものであろう。

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