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徳川家康など三河松平一族は、どのような家系の一族か

征夷大将軍になれるのは、源氏の血筋を引くものだけ。では、祖先が諸国を流れる僧であった家康も、源氏の血族だったのだろうか?、三河松平一族とはどんな家系の一族か。

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目次

家康の松平一族とは、どのような一族か

家康の先祖は、三河松平氏。
松平氏が住んでいた松平郷は、本当に山深い。松平郷を訪れた時の素直な感想として、「ここに戦国時代に住むのは大変だったろうな」と言うことだ。
隠れて住んでいるような印象を受けた。

この松平郷に流れ着いたのが、徳阿弥(とくあみ)という坊主。この流れ者の坊主が、三河松平氏の遠祖とされる。

三河松平家は、なぜ「源氏の血筋」と言われるのか

この流れ僧の徳阿弥とは、どのような人物なのか。
はっきり言って、よくわからない。
いわば伝説レベルでしか記録が無い。

そのレベルの話しとして、徳阿弥は、名を親氏(ちかうじ)と言ったとされる。生まれは、上野国徳川郷。現在の群馬県太田市に生まれた。

徳川郷を支配していたのは、源氏の血筋の新田氏だ。
ここから、「親氏は、新田氏の血を引く人物。」よって、家康も源氏の血を引くと自分で言ったとされる。

徳川発祥の地 群馬県太田市

現在、太田市は、「徳川発祥の地」と言われる。

本市は“太田市徳川町”の地名にもあるとおり、戦乱の世を治めた300年の太平の世の礎を築いた徳川家康公が「わが遠祖は、上野国新田の一族徳川氏である」として、徳川郷を祖先の地としています。徳川氏の祖は上野国新田郡一円を支配していた源氏の嫡流新田氏であるとされています。平安時代末期の「後三年の役」の内乱を鎮定した源義家は、東国にその基盤を築き、義家の子義国は関東に下り、その長子義重が「新田の庄」を開き、新田氏の祖となりました。

太田市HPより

と言うように、群馬県太田市周辺が源氏の血脈の新田氏が支配していた土地であり、自分の祖先はそから来た、としている。
だからと言って、流れ者の僧が、新田氏の出だとは限らない、とは思うのだが…。
親氏(ちかうじ)などという厳しい名は、いかにも源氏っぽい。

松平の始祖、徳阿弥にまつわる話

松平氏の遠祖親氏(ちかうじ)は、上野国(こうずけの国)徳川郷(群馬県太田市)に誕生した。やがて、親氏は流浪の旅へと出る。親氏は、時宗の僧侶となり「徳阿弥(とくあみ)」と号した。
やがて、三河の松平郷(愛知県豊田市)に流れつき、そこの有力者松平太郎左衛門の家に入婿した。
(「三河物語」「徳川正統記」より要約)

これが、松平姓を名乗る根拠となった。

物語に語られる 親氏の人物像

物語に語られる親氏の人物像は、一言で言えば「慈悲深く、武略に優れた有能な人物」
その有能さで、勢力をみるみる拡大していく。

まるで、美濃、斎藤道三の国盗り物語のようだ。

親氏の後を継いだ 2代目泰親が岡崎進出を果たす

親氏の後を継いだのは、泰親(やすちか)とされる。
泰親は、親氏の弟だとされたり、子だとされたりして、実のところよくわからない。

また、いつ生まれ、いつ死んだのかもはっきりしない。さらに、名乗りも松平太郎左衛門、世良田三河守、徳川二郎三郎などと、はっきりしない。

とりあえず、この泰親、山深い松平郷から、岩津村を取り、そこに岩津城を築いたとされる。
自身は、岩津に移り、松平郷の支配は、自分の子ども(信広とされる)に任せた。

さらに、岡崎を攻めとり、自身はさらに岡崎に移った。岩津の城は、親氏の子の信光(自分の兄弟か、叔父か?)に任せたという。

3代目信光の三河進出

泰親の後を継いだのは、先ほどの信光とされる。
信光は、2代泰親から岩津城を任されたと書いたが、実のところはよくわからない。

だが、寛正6年(1465年)のこととして、つまり応仁の乱のちょっと前のこととして、資料に登場し、実在は証明されている。

その資料中には、

没落した三河豪族の吉良義藤(よしふじ)の配下の者たちが、岡崎市あたりに砦を築き、朝廷に治める官物を奪い取る狼藉を働いていた。
そこで、将軍足利義政は、三河武士の牧野氏らに討伐を命じたが、失敗してしまう。そこで義政は、新たな討伐命令を松平信光に命じ、信光が見事にその期待に応えた。

親元日記 意訳

と言う内容だった。
この3代信光も、優れた武将だったのだろう。信光はさらに安城城を取るなどして、西三河の三分の一を手中に収めた。

勢力を拡大させた、4代親忠・5代長親

南下する松平氏

4代親忠(ちかただ)が本拠を置いたのは、三河安城城だった。
親忠は、信光の3男、ないし4男と言われる。
上、2人ないし3人を差し置いて家督を継ぐほどの人物だったのだろう。

この4代親忠が、松平の菩提寺の大樹寺を建立した。

親忠の後を継いだのが、5代長親(ながちか)。
長親も長男ではない。3男と言われている。

4代親忠、5代長親の頃のもっぱらの敵は、今川氏だった。
永正3年(1506年)、今川の氏親が、のちの北条早雲である伊勢新九郎宗瑞に命じ、西三河に攻め込んできた。伊勢新九郎は兵力1万で、5代長親の守る岩津城を攻めた。守る長親の兵力はたったの500。
物語では、『長親は配下の者を叱咤激励し、今川軍を退けた』とされる。

相当な兵力差なので、そのままを信じることは難しいが、「退けた」と言う事実は、本当なのだろう。

だが、この時点では、今川と松平では格が違い過ぎた。
やがて、5代松平長親は今川氏親と和睦し、松平は今川の支配下に組み込まれた。
形の上では、松平の屈服だが、これにより西三河の支配権が安定した。

長親は、実利をとったことになる。

6代信忠は、無能

5代長親の後を継いだのは、6代信忠(のぶただ)。
この7代信忠、歴代松平のトップの中で最も評判が悪い。

「慈悲の心が薄く、政治能力に劣る」と表される。
酒に溺れ、病気がちとも。

そのために、松平一門はじめ、土豪の国人衆らから見放されてしまう。
ただし、史実的に本当に正しいかどうかはわからない。

一部の者が信忠を見限り、弟の信定を擁立しようとした。信忠が無能だったかどうかはわからないが、信定擁立の動きがあったのは、史実だろうと思う。

結局、6代信忠は生きているうちに、家督を子の清安(7代)に譲った。
信忠は、自ら大浜に隠遁した。
この辺り、いさぎよい。

家康の祖父、7代清康の偉業

この7代清康(きよやす)は、相当の人物だった。
「心優しく、慈悲深く、それでいて弓矢の達人」と評される。

清康は、岡崎城を築城し、そこを居城とした。
そして、破竹の勢いで次々と城を落としてゆく。三河牧野氏の今橋城(吉田城)を落城させ、渥美田原の戸田氏を殲滅させた。

東三河の国人衆は、清康の勢いの前に次々と降伏し傘下に入った。
最後まで抵抗していた熊谷氏の宇利城(うり城)も降伏させ、清安は三河国の統一を成し遂げる。

そして、さらに尾張を目指した。

清康の死、守山崩れ

破竹の勢いで突き進む、清康に突然の死が訪れる。
清康の家来、阿部弥七郎によって、切り殺されてしまったのだ。(守山崩れ)

このころ(1535年)清康は、尾張の織田を攻めようとしていた。
武将として能力に長ける清康は、甲斐武田信虎、美濃三人衆と言われる稲葉良通(よしみち)、安藤守就(もりなり)、氏家直元や、信長の父信秀の弟で犬山城の信光と連携し、織田責めを周到に準備していた。

この時、家来の阿部定吉(さだよし)が、敵と内通しているという噂が立った。
その噂を聞いて、「父が殺されるくらいなら」と、思い込んでしまったのが、定吉の子の弥七郎だった。

弥七郎は、父が殺されると思い込み凶行におよんでしまう。清康は殺され、弥七郎もその場で惨殺された。
「三河物語」には、「もし、清安がこのまま三十歳まで生きながらえていれば、天下さえ治めることもできたはずだ」と、述べられている。

松平にとって、大変な痛手となった。

今川の武将となった8代広忠

清康の後を継いだのは、8代広忠(ひろただ)。
守山崩れの時、広忠は、まだほんの10歳だったという。

この機を逃さず、一族の松平信定が、宗家の家督をねらい岡崎城を占領してしまった。
広忠の命が危ない!。

広忠の窮地を救ったのは、清康を殺しや弥七郎の父、かつて謀反の疑いをかけられた阿部定吉(さだよし)その人だった。

何という忠義、戦国の世でもこのような日本人がいたのだ。ちょっと感動する。
定吉は、危険が迫る中、幼い広忠を城から脱出させることに成功する。その後、伊勢や遠江(とおとおみ)で逃亡生活を送る。

逃亡する広忠の窮地を救ったのは、遠江の今川義元だった。
広忠は、今川の援助で岡崎城へ戻ることができた。

これで、広忠は今川に頭が上がらなくなった。
以後、広忠は今川の武将として生きることになる。

広忠と今川の当面の敵は、織田信秀。

水野忠政の娘、於大との結婚

於大の方

天文10年(1541年)、9代広忠は、水野忠政の娘、於大と結婚する。そして、よく年1542年、10代となる竹千代(後の家康)が誕生した。

天文12年(1543年)於大の父、忠政が亡くなる。水野の後を継いだ信元は、今川や松平を裏切り、織田についてしまう。

こうなると、広忠は泣く泣く於大を離縁せざるをえなくなってしまった。

竹千代、人質となる

於大と離縁してまで、「私は、今川の味方ですよ」という意思表示をしたが、織田信秀は強かった。

信秀の強さを見て、家来の一部は、今川に付くことを表明した広忠を見限る者まで出てきた。
今川は今川で、「本当に、今川につくのか!寝返らない保証はあるのか!」
と、松平を脅してくる。

そこで、広忠は後取りである竹千代を人質として差し出すことを決意する。

竹千代、織田に奪われる

竹千代は、今川の駿府に送られるため、天文16年(1467年)岡崎を発った。
ところが、田原城の戸田康光(やすみつ)が突如裏切る。
竹千代は、敵方の織田方に送られてしまう。

織田は、竹千代を盾に「織田に寝返れ」と広忠に迫った。
だが、広忠は、自分の命を救ってくれた今川をおいそれと裏切れない。
「どうする広忠!」

悩んだあげく広忠の出した答えは、「竹千代の命はどうとでもしろ、俺は今川につく!」という答えだった。

「竹千代の命は勝手にせい」と子を見限った父。
因果はめぐり、やがて家康も、跡取り信康の命を奪うことになる。

だが、織田は竹千代を殺さなかった。

8代広忠の死

松平家に、清康と親子2代に渡る不幸が訪れた。
天文18年(1549年)、広忠は、岡崎城内で家臣の岩松八弥に斬り殺されてしまう。
ただし、惨殺ではなく病死だという記述もある(松平記)ので、真偽は本当はわからない。

だが、切り殺されたとしたならば、親子2代に渡り家臣に切り殺されたことになってしまう。

広忠の死により、岡崎には主人がいなくなってしまった。織田が調子づいた。
今川義元はそれを許さない、雪斎に命じて三河に進出する織田を徹底して攻めた。
今川の力により織田は三河から撤退した。
この戦いで今川は、織田信秀の子である信広を捕虜とした。

織田信広と松平竹千代は人質交換され、竹千代は織田から今川に送られることになる。
今川に送られた竹千代は、今川のもとで元服し「松平元信」と名乗ることになる。

さらに、関口少輔の娘、瀬名姫(築山殿)を娶る。

そして、運命の永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に打ち取られたことを機に、岡崎に帰還し、9代家康となった。

家康 (産経ニュース)

まとめ 三河松平氏とは、 どのような一族か

物語レベルではあるが、松平氏の始祖親氏(ちかうじ)をはじめ、歴代の松平氏は優秀だったようだ。一番の出来損ないと言われる6代信忠も、実際はそうでも無かった気がする。

生きているうちに、家督を子の清康にゆずり、自らは大浜に引きこもるなど、無能な人物には出来ない。

また、家康の父の広忠も、「戦国時代としては優柔不断な人物だった」とする物語もあるが、本当はどうだろうか。
自分の命を助けてくれた今川に対して、例え自らの子の命に代えても仁義、忠の心を曲げない姿勢は、本当に優柔不断だったのだろうか。

NHK大河の「どうする家康」でも、すぐ悩み優柔不断さを見せる家康だが、あんな優柔不断は、トレンディードラマ仕立てだからだろう。
事実は、戦国を生き抜く図太さと、計算高さを備えた人物だったと思う。

さて、これほどの優秀な家系の人物だが、はたして本当に新田氏の流れを汲む源氏なのか。
あくまで個人の想像だが、この点だけは、ちょっと眉唾だなあ。

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