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佐竹昌義は、何のために常陸佐竹に入部したのか

目次

昌義は佐竹郷にいつ頃入部したのか

 前回示したように、佐竹昌義の佐竹郷入りの確かな時期は分かりません。しかし、「水戸市史の上巻」には、昌義の父の義業(よしなり)が保延年間(1135年~1141年)に來住とあります。
 これについては、水戸市史がなぜこのように書いているのかがよく分かりません。源義業は、長承2年(1133)年に死んでいることになっています。死んだ人が常陸に来ることはありません。
 市史編纂者が間違うことはないでしょうから、もしかすると源義業の死の年の方がまちがっているのかとも思います。ただし、ウィキペディアだけでなく他の史料でも義業は1133年の死去となっているので、多少混乱します。

『藩翰譜』による佐竹氏の由来

藩翰譜』(はんかんふ)は、江戸時代の家伝・系譜書。著者は儒者の新井白石。全12巻。藩譜(はんぷ)の略称でも呼ばれる。 

ウィキペディア

 『藩翰譜』によると、『昌義が長承2年(1133)に大掾氏に立ち寄り、後の佐竹郷内の観音寺(後の佐竹寺)に遷った』、とあります。

佐竹寺

 また別説として、

秀郷流藤原流の天神林刑部丞正恒の馬坂城(茨城の古城)を攻め取った

という説もあります。
 幾つかの説はあるものの、諸説から共通する年代を割り出すと、おそらく天承から保延年間(1131年~1135年)の間なのではないでしょうか。
 新羅三郎義光の死が大治2年(1127年)73歳で、当時としては長命でした。2代義業が、前述したように長承2年(1133)年だとすれば、3代(佐竹初代)昌義が佐竹郷に入った時には、祖父・父ともに亡くなった後ということになります。
 佐竹家譜にあるように、佐竹郷に入部したときに昌義に従っていたのは十数人だったでしょう。昌義個人の力量はもちろんですが、それだけではなく、常陸平氏大掾の後ろ盾がなければ生き残れなかったはずです。
 京都では、源氏同士の内紛により、源氏から平氏の世に移るころ、また白河院政が終わり、時代の転換期に入ったころでした。

昌義はなぜ、常陸に入部したのか

 佐竹家譜によると、「勅詔(ちょくしょう)に因って常州に下向した」とあります。つまり昌義は、天皇の命令で常陸入りしました。
 長く権勢を誇った白河院は、大治4年(1129)に崩御されているので、おそらく、鳥羽院の命令で常陸入りしたのではないでしょうか。


 昌義が常陸入部したときの家来の数は、十数名だったと書かれています。家光流源氏の京都での実力はこの程度だったということです。
 では、なぜこのような小さな勢力を常陸に送ったのでしょう。

源昌義(佐竹昌義)が常陸入りするまでの時代背景

 12世紀初頭から、昌義が常陸入りしたころ(1131年から1141年)にかけては、源氏一族の内紛などで源氏から平家へ権力交換が起こっていた時期です。
 嘉承2年(1107)、伊勢平氏の正盛が、義家の次男で嫡男とみられていた源義親の首を取りました。
 この事件は、学校の社会科では扱われません。しかし、源平の勢力交換を象徴する事件です。この事件の裏には白河上皇の魔手が潜んでいたと言われます。

(1107年)
いいオトナの正盛、源氏の嫡男、義親(よしちか)の首を打つ

 伊勢平氏正盛は、高望王の子孫です。国香→貞盛→維衡(伊勢平氏)→正度(まさのり)→正衡→正盛→忠盛→清盛、と続く、平清盛の祖父です。
 正盛の代に、伊勢・伊賀の所領を六条院に寄進して世に出るきっかけをつかみました。

 この間、嫡男を正盛に討ち取られてしまった源氏嫡流である義家の一族は、内紛を続けていました。天仁2年(1109)年には、義家の四男義忠が暗殺されるという事件が起こります。
 1109年のころはまだ健在だった佐竹遠祖、新羅三郎義光も下手人ではないかと疑われました。しかし、義家の次男の義綱が犯人とされ、義綱の甥の為義(平家に撃たれた義親の子、頼朝のおじいさん)が義綱を捉えました。これによって、源氏は為義の家系で引き継がれることになります。そして、頼朝の父義朝が平氏の乱で敗れるという流れです。
 源氏の衰退期でした。

このような源氏の衰退期に、なぜ昌義を常陸に送ったのか

 白河、そして鳥羽院は、力を付け過ぎた源氏を牽制したいという意図があったと思います。その結果将来平家が力を持ち過ぎることになるという皮肉な事態になるのですが、1130年代はまだ源氏の方に注意が向いていたのだと思います。
 そこで、「義家流の源氏本流と家光流を引き離したかった。」また、「家光流源氏は、常陸平氏(大掾)と縁が深いので、常陸に送れば当然常陸平氏と結び付く。そうなれば、板東で力をもつ源氏本流を後ろから牽制できる。」
 院側には、このようなねらいがあったのではないでしょうか。

 昌義も、「源氏一族で殺し合う京に留まるより、地方で生きる方が生き残る可能性が高い」そう考え、両者の利害が一致したのだと思います。

武者の世になりにける

 この後の歴史は、鎌倉殿の13人の影響もありよく知られるところとなっています。学校でも保元の乱と平氏の乱を扱います。これらの乱に至る前の状況をまとめると次のようになります。

保元の乱前夜
○白河院没(1129年)
○鳥羽院、あからさまな反白河→【崇徳天皇を疎んじる】
 ▲
鳥羽院 対立 崇徳天皇
 ・前関白 藤原忠実 を内覧 とする
 ・現関白・摂政を務める藤原忠通(忠実の長男) 父に反発
 ・忠実→長男・忠通に関白の地位を、三男・頼長に譲れと迫る
 ▲
(忠実・頼長)対立(忠通)

 鳥羽院は、崇徳天皇を「叔父子」と呼んで嫌ったという話があります。一説によると、崇徳天皇は、白河院の実施だというのです。「鳥羽院の中宮璋子に白河が密通して生ませた」このような話が伝わっています。現在の学説の中には疑わしいという説もあるそうです・・・。

 このような事実があったか無かったかは別として、上記のように朝廷内、摂関家内で血縁同士の対立が生まれていました。
 朝廷や貴族間でこのような対立が起こり、武士の活躍の場が整います。慈円はその著「愚管抄」で「武者の世になりにけり」と当時の様子を表現しています。ただし、このような世の変化をただ単に悲しんでいたわけではないようです。「道理」という言葉に代表される慈円の思想は、武家の世を「朝家の宝」と表現します。世の流れをみれば、武家の世になるのは「道理」、それを嘆くのではなく宝とせよと、後の承久の乱で幕府と衝突することになる後鳥羽院に向けて書かれた著書とも言われています。
 この慈円は、藤原忠実の孫であり、藤原忠通の息子、後の関白藤原兼実の兄弟です。

 時代の激動期の京を出た弱小勢力の昌義は、常陸佐竹郷で常陸大掾とさらに深く結び付き、生きる道を探っていくことになります。


 

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