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平家と結び付いた佐竹昌義、皇嘉門院と結び付きさらに家勢を高める

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保元・平治の乱を常陸佐竹氏はどのように生き抜いたか

 保元の乱の時に、源義朝の下知で集まった坂東の主だった者は、相模の大庭景義・景親、安房の安西氏、上総の広常、下総の千葉常胤、常陸からは中郡氏や関氏などがいました。

東国の源氏といわれていた

ウィキペディアより

義朝の下知で集まった武者たちは、東国勢が圧倒的に多く、とりわけ相模から安房(あわ)、上総・下総にかけての南関東勢が圧倒的でした。 
なぜかと言うと、義朝の4代前の「頼義」の時代から 、東国には源氏の譜代が多かったことに加え、「義朝」自身も若い頃は上総に住み、「上総の御曹司」といわれるほど坂東と関わりが深かったからです。

しかし、保元の乱時点では常陸佐竹をはじめ、常陸平氏一門の名はまだ見えません。
かろうじて、義朝が下野の受領となって以来の主従関係のある、藤原流の中郡氏と関氏の名が見える程度でした。

ウィキペディア:国芳 名高百勇傳 源義朝 より

常陸佐竹氏は、なぜ義朝側につかなかったのか

 保元の乱の少し前、常陸へ伊勢平氏が進出して来ました。久安3年(1147)、忠盛次男の平家盛が常陸介となりました。その1年前久安2年(1146)には、同じく忠盛嫡子の清盛が安芸守(現在の厳島神社周辺の広島県)となっています。
 そして久安5年(1149)からは、弟の平頼盛が常陸介となります。この後頼盛は、保元の乱まで、常陸介を務めました。 

 信太荘などの所領は、元々は常陸平氏嫡流の多気直幹の支配地でした。頼盛は、常陸介在任中、鳥羽上皇の寵姫美副門院得子に目をかけられ、得子の八条院別当に任じられました。そこで頼盛は、多気氏から得た常陸の下の方(南の方)の信太荘や村田荘を八条院に寄進します。
 常陸大掾など常陸平氏は、このようにして中央の平家勢力の家人化の道を歩んでいました。常陸大掾と二重三重の血縁関係で結ばれた常陸源氏佐竹一族も、源氏ですが平氏の家人化の道を歩みます。
 平氏本流の平家と、常陸平氏多気氏と深く結びついていた常陸源氏佐竹氏ですから、同族ではあるけれど義朝勢に加わらなかったのは当然だったのです。

佐竹氏の下総進出

保元の乱、平治の乱後、中央は平清盛が主導権を握ります。これによって平氏は全国の知行国の多くを獲得しました。常陸も、頼盛の後は教盛(のりもり)と平氏の受領が続きます。
 この時点では、佐竹昌義の選んだ「平家に随従する」という路線は成功したと言えます。この当時の王朝国家体制では、中央権力と結び付くことが生き残るためのポイントでした。朝廷や上級貴族から荘園を預かる預所職(下司・げす)という立場を保障されることが、政治的・経済的に自家の勢力を発展させる最良の方法となったのです。
 院や院に関係する女子(例えば八条院)、または摂関家や寺社に地方の土地を寄進することで地方の土地は「荘園」として認められます。

 佐竹は、下総の有力者に自分の娘を嫁がせ下総国にも進出します。
さらに次男の佐竹義宗を上洛させ皇嘉門院に仕えさせました。そこで佐竹義宗は、侍長となっています。

佐竹義宗、藤原親政(ちかまさ)と知り合う

 皇嘉門院に仕えていた時、佐竹義宗は藤原親政と知り合いになります。藤原親政は、平忠盛の女婿です。
 親政と知り合いになり平治の乱を乗り切った佐竹義宗は、永暦2年(1161)に、下総国の相馬御厨の所有権を主張しました。この地の下司職は、千葉常胤でした。「千葉氏に向かって、この土地は俺の土地だからよこせ」と主張したわけです。
 この一件が、のちに佐竹に災難を招きます。

義宗が、千馬常胤所有のはずの相馬御厨の所有権を主張した理由

 相馬御厨があった辺りは、相馬郷、布施郷と言われた所です。ここを下総の権介平常重がを伊勢神宮に寄進したことで相馬御厨となりました。その後は常重の子の常胤が下司職(現地の管理者)として管理していました。
 しかし、色々とゴタゴタした挙句、下総守藤原親通は常胤から取り上げて親通の私領としていました。

前下総守だったのは、佐竹義宗が皇嘉門院に仕えた時に知り合った藤原親政の父親、親通でした。その親通が子の親政に、相馬御厨の土地権利書を譲り、親政がその権利書を佐竹義宗に譲ったというのです。
 義宗は、自分が権利書を持っているのだから、「相馬御厨の所有権は自分にある」と主張したわけです。

 義宗は、この相馬御厨を平治の乱の混乱を利用して、まんまとせしめてしまったのです。
 当然、常胤ら千葉平氏は、先祖伝来の権益を佐竹に奪われることになり、深い恨みを抱きました。そして、千葉氏のこの恨みが頼朝を佐竹征伐に動かしたのです。

本家職、領家職、預所職(下司)はどういう関係か

摂関政治から院政の時代に入ろうとするこの時期、律令体制による税制が崩れ、人頭税から地税への移行が進んできました。
 国から派遣された国司(受領)に税を納めるのではなく、自分で開発した土地の利権を守るため、開発領主たちは、中央の上級貴族たちに土地を寄進するという方法を見出したのです。
 どちらにしても、税は納めるのですが、荘園分の税の納め先が国司(受領)でなくなることで、開発領主たちは、その土地の実質的な支配権を得ました。
 さらに中央の貴族は、その土地の所有権をさらに上の院などに寄進し、自分達もさらに上の地位や権利を得ることを狙いました。このような二重の寄進によって、やや複雑ですが、『本家』→『領家』→『預所・下司』といった土地の支配体制が成立しました。

源頼朝旗揚げ前、治承4年(1180)の状況

  頼朝旗揚げのわずか、6年前の治承4年(1180)平清盛は、太政大臣となり栄華の頂点を極めていました。清盛の栄華と共に、常陸佐竹も常陸国全域を掌握する勢力となりつつあったのです。
 さらに、佐竹とも血縁関係のある奥州平泉でも、三代秀衡が嘉応2年(1170)に鎮守府将軍となり、平泉藤原氏として全盛期を迎えていました。
 このような中、承安4年(1174)佐竹昌義は亡くなり、隆義が佐竹2代となりました。

しかし、治承・寿永の頃から「奢れるもの久しからず」、平家追い落としが始まります。

荘園を支えた女院たち

建春門院 慈子
平 滋子は、日本の第77代天皇・後白河天皇の女御、皇太后。女院。高倉天皇の母。院号は建春門院。 後白河太上天皇の譲位後の妃。桓武平氏高棟流、いわゆる堂上平氏の生まれ。父は兵部権大輔・平時信、母は中納言・藤原顕頼の娘、祐子。兄弟に時忠・親宗

八条院 暲子内親王(しょうし/あきこないしんのう)初めて后位を経ずに女院となり、八条院(はちじょういん)と号した。鳥羽天皇の皇女で、母は美福門院(皇后・藤原得子)。
終生、未婚

ウィキペディアより

皇嘉門院 聖子(せいし) 
崇徳天皇中宮。父は関白藤原忠通久安6年(1150)院号宣下保元の乱後、出家した

 女院たちの広大な地方の領地は、地方の武士達の生活を支えていました。さらに、巨大領主となったのは、寺社勢力です。
 佐竹義宗の中央デビューは皇嘉門院領との結び付きからでした。

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