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国学の四大人の一人『賀茂真淵』の国学とは、そして復古神道とは

賀茂真淵は「度量の広い人」と言われる。本居宣長のわがままを許し、主である田安宗武とも平気で論争する「ますらおぶり」。小気味よい人物であり、日本の宝の一人と言って間違いない。

目次

1.賀茂真淵の生涯

賀茂真淵(かものまぶち)は遠江国(とおとうみ)浜松の加茂明神(かもみょうじん)の神職の三男として元禄10年(1697年)に生まれた。犬公方で有名な五代将軍綱吉のころのことである。江戸時代の一番華やかな時代であった。

水戸の光圀が亡くなったのが元禄13年(1700年)。また赤穂浪士の討ち入りは元禄15年(1702年)。賀茂真淵は、このころの生まれで、幼名は三四。一二三四の「三四」であり、幼名から受ける印象だと、家族からはあまり期待されていなかったか。

生家は経済的に貧窮していたという。優秀であったので望まれて養子に出されている。まず最初は、義兄のところに養子に出たが、義兄に実子ができたのですぐに実家に戻された。20代で婿養子となるが、すぐに若い妻と死に別れてしまう。この最初の妻との死別が彼の生き方に大きく影響した。

次の養子先は脇本陣を代々営む家だった。二番目の妻との間には子も生まれ、真淵も家のためによく働いていた。だが、学問への情熱は中年を迎えてますます高まっていた。

真淵は、実家も養子先も多くの者が歌学を通して国学を学んでいた。その影響で真淵も少年期・青年期を通して学問の人であった。

10歳で有名な国学者、荷田春満(かだのあずままろ)の弟子となっている。30歳のころ、妻や子をおいて養子先を出て京都に行き、荷田春満のもとで学ぶ。39歳の時、春満が死去すると浜松に戻った。

その後、江戸に出て私塾を開き歌学などを教えていた。
転機は50歳の時。8代将軍吉宗の実の子で田安家に養子に出ていた田安宗武に召し抱えられ、田安家の和学御用掛となる。

田安宗武には、64歳まで仕えてから引退。引退後は、著作に勢力を注ぎ多くの著作を残した。

66・7歳の時、伊勢松坂の彼の宿に本居宣長が訪れた。この出会いは「松坂の一夜」として知られ、以後、両者の間で文通がなさる。実際に面と向かっての出会いはたった一度であったが、本居宣長は1764年に、68歳になった賀茂真淵に弟子入りしている。

5 賀茂真淵が生きた時代 

封建社会の終わりの始まりの時代

元禄時代は、江戸時代が最も華やかな時代だった。しかし水面下では、ひたひたと封建社会崩壊の足音が忍りつつある。発展のもたらす貨幣経済と封建経済(米による年貢社会)の矛盾が顕著になりつつあった。

幕府は力を増しつつある町人社会(貨幣経済社会)を、武士社会にとどめることを目指し、いわゆる江戸3大革命などを実施した。

八代将軍吉宗の享保の改革は、封建社会の崩壊を50年遅らせたとも言われる。だが貨幣経済社会への移行を止めることはすでに出来なかった。世の中は、少しずつだが確実に近代(「封建社会」崩壊)への歩みを進めつつあった。真淵の生きた時代は、まさに『封建社会の終わりの始まりの時代』である。

このような時代背景の中、幕藩体制維持のために生み出された江戸幕府の官学である日本朱子学に対し、支配体制を拒む学問が生まれてくる。

その1つが国学である。そして国学に大きな影響を与えたのが賀茂真淵であった。国学は、契沖荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵を経て、本居宣長、そして平田篤胤へと続く。

朱子学の時代

江戸幕府は朱子学を官学としていた。
当時の歌学は朱子学(儒教)にのっとり、『大学』にある誠意和歌の心、つまり心髄であるとして、幽玄(ゆうげん)を重んじ「技巧を凝らす歌風」が「よし」とされていた。

しかし、これでは『歌に込めたい心を率直に表すことなどできない』として、賀茂真淵は「古道」を説く。つまり、和歌を本来のあるべき姿、古の姿に戻すことを主張した。

賀茂真淵の理想

賀茂真淵は、自分では「契沖以来樹立されようとしていた国学の大成を終生の目的」とした。しかし、実際は国学者としてより、歌学者ないし歌人として評価されている。
結果的に真淵は「歌人」ないし「歌学者」であり、「真淵の国学は未完」として終わっている。

だが、国学を大系だった学問としてではなく、国学を考える上での「思想的な運動(復古神道)」と見るとき、賀茂真淵は、思想的に重大な影響を与えたことは間違いない

🔶ますらおぶり

賀茂真淵が理想としたのは、男性的でおおらかな万葉調の歌風だ。この男性的なおおらかさは、真淵国学では人間のあり方の理想でもある。

真淵は、古代の精神を求め『万葉集』の研究を行った。
真淵は万葉の世界には、『高く直き心』が歌風から感じられると評する。対して、平安時代以降は「たおやめぶり」や「からくにぶり」(中国伝来の儒仏思想の影響)が加わり、古代の純粋さが失われたと批判した。

🔶高くなおき心

『高く直き心』とは、真淵が『万葉集』研究から見いだした『古代日本人の素朴で雄渾な精神』を指す。私欲をもたず、素朴で高貴な心で、「高き」の中に「みやび」が、「直き」の中にたくましさ、「雄々しき心」があるとする。
対して、儒学の『理』の教えは、理屈に走り人為的でせま苦しいと批判した。

賀茂真淵の学問と和歌

真淵は『万葉集』の研究者だが、自分では、「国学」の大成を志していた。

国学は、契沖(けいちゅう)・荷田春満(かだのあずままろ)が創始し、真淵によって思想的な研究が進み、本居宣長(もとおりのりなが)、平田篤胤(あつたね)と続く。

国学の四大人 

国学の先鞭をつけた荷田春満、古語の研究に真摯に取り組んだ賀茂真淵(県居の大人)、『古事記伝』を著し国学を大成させた本居宣長(鈴屋の大人)、国学を宗教的情熱で普及発展させた平田篤胤(気吹舎の大人)を、国学の四大人と呼ぶ。

 真淵は、特に『万葉集』の研究に心をくだき、その研究は、『万葉集遠江歌考』『万葉解』『万葉考』にまとめられている。

 他に真淵の著述として、『冠辞考(かんじこう)』『語意考』『歌意考』『にひまなび』『国意考』『祝詞考(のりとこう)』などがある。

 真淵の和歌は1000首ほどあり、それらは、『賀茂翁家集』[村田春海(むらたはるみ)撰]などで読むことができる。

真淵の思想を現す著書

真淵は、『国意考』(1806年)で、日本古来の歌道を根拠として日本固有の精神を説き、儒教思想を批判している。

🔶歌意考

契沖から始まる《万葉集》尊重の立場は、賀茂真淵にも受け継がれた。真淵は、彼の雇い主である田安宗武と歌論について論争している。

雇い主といえども臆すること無く論争できる主従関係が、いかにも真淵らしい。
田安宗武賀茂真淵主従間では、その〈歌論〉について論争はあったが、『権威主義の否定(権威主義的堂上歌学の否定)』,『万葉尊重』では、一致していた。

🔶源氏物語

当時、物語の本質論や文芸的理解となると,儒仏思想(功利的な教戒)に左右されがちであった。そのような物語の理解の仕方に対して、賀茂真淵は《源氏物語新釈》を表して、「物語とは、そんな教訓じみたものではありませんよ」と、文献学的実証を志向し,物語の本質は〈もののあはれ〉すなわち「理屈では無い、そこはかとない感情の揺れ動き」、「純粋抒情にあるんですよ」、とする画期的な論を示し、中世の功利主義的物語観からの脱却を図った。

しかし、弟子の本居宣長以後は幕藩体制下,儒教倫理による《源氏物語》誨淫(かいいん)説の横行によって,その研究もふるわなくなった。

🔶国学

契沖に深く傾倒した伏見の神官荷田春満(かだのあずままろ)が,その万葉研究を受けつぐ。春満は、『古語通ぜざれば古義明らかならず,古義明らかならざれば古学復せず』と述べ,契沖の文献学的方法復古主義を加えた。

この立場は,弟子の賀茂真淵に受け継がれ、国学としての最初の体系化がこころみられる。

真淵は主著《万葉考》を執筆のかたわら,国学の思想体系の一助となる《国意考》《歌意考》《文意考》《語意考》《書意考》のいわゆる〈五意〉の著した。

🔶誠

復古神道荷田春満(かだのあずままろ)は人情のまことを重んじ,その弟子の賀茂真淵心に思うことを理・非理にとらわれることなくそのまま表現すべきだという〈歌の真言(まこと)〉説を主張した。

真淵のまこと説は、以後真淵門下を中心に広く継承される。

復古神道とは?

荷田春満 (かだのあずままろ) ・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤 (ひらたあつたね) らの国学者によって提唱された神道説を「復古神道(古神道)」と呼ぶ。

儒教・仏教などの影響を受ける前の、日本民族が固有にもっていた精神(古の神道の精神)」を指す。

いわゆる「神道」とは何か

神道(しんとう、しんどう)は、日本の宗教。
西洋の神が一神教なのに対し、日本の神は八百万の神。多神教であり、自然や自然現象なども神となる。

一神教の神は、創造神であり絶対者だ。
対して、日本の神は、どれだけの神々がおいでになるのかさえ分からない。どの神を信じてもかまわないというおおらかさ。

一般に宗教は、「救い」のための手段が用意されているが、日本の神道にはそうしたものがない。ある人が『神道は「ない宗教」なので、言語化して説明するのがとても難しい宗教だ』と述べたが、まさにその通りで、外国人にはわかりづらい。

だが、日本人はなんとなく理解できてしまう。教典や具体的な教えはなく、開祖もいない宗教だが、日本人にとっては違和感がない。

自然と神とは一体として認識される。神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀。その祭祀を行う場所が神社。神社は聖域であり、古代はおそらく建造物も無いただの山でったり岩であったり木であったりしただろう。

このような神道がいつしか社をもった。
また、仏教の影響を受け仏教と神道が融合していく。

そして、明治維新後、第二次世界大戦終結までは、政府によって事実上の国家宗教となった。
この時期の神道は『国家神道』と呼ばれる。

古神道は他の宗教の影響を受けていないものを指す。
いわゆる「神道」は欽明天皇(おそらく6世紀のことか)のころに日本に入ってきた仏教の影響を受けている。また儒教、キリスト教など様々な宗教とも混ざり合っている。

本地垂迹(ほんじすいじゃく)

一番大きな影響を受けているのは仏教。
大日如来(仏教)は日本の天照大御神(神道)であるとし、阿弥陀如来(仏教)八幡神(元々は辛国の神だが、応神天皇と習合して神道の神となる)神道の神様と仏教の神様は同じという考え方が定着する。
この説を本地垂迹(ほんじすいじゃく)説と呼ぶ。

復古神道(古神道)と垂加神道

国学者らにより復古神道が唱えられたころ(江戸時代)に、もうひとつ「垂加神道」という神道解釈が起こる。

垂加神道

江戸時代の山崎闇斎が提唱した神道の解釈の一つ。朱子学、陰陽学、易学を取り入れた神道。
『垂加』とは伊勢神道の神道五部書の一つ、「倭姫命世記(やまとひめみことせいき)」の一節にある「神垂以祈祷為先冥加以正直以本」から来ており、この言葉は「神の恵みをうける(垂る)ためには祈祷が第一で、神慮が加わる(冥加)ためには人として正直をもってするのが根本である」という意味。

垂加神道は、天照大御神に対する信仰を大御神の子孫である天皇が統治することが神道であるという「尊王思想」を内在している。

またこの神道は「敬」という行為が最も大切だとする。「敬」とは「正直」であること、「敬」を行えば、天地と合一できる「天人唯一の理」であると、唱えている。
つまり、この考えは「理」の思想である儒教(朱子学)の延長上にある。

復古神道の歴史背景

「復古神道(古神道)」と「神道」が区別されるようになったのは、実は明治時代からだ。

明治時代、日本は国家として西欧諸国に対抗することに迫られていた。
脆弱な日本を一つにまとめるためには、天皇を中心とする日本独自の宗教を確立させる必要があった。その結果、神道を日本の宗教(国家宗教)として扱うという国家戦略が生まれた。

その流れの中で、「復古神道(古神道)」と「神道」が区別されるようになった。

平田篤胤(ひらたあつたね)

契沖・荷田春満・賀茂真淵・本居宣長の後を受け、江戸時代後期の国学者で、復古神道を大成したのが平田篤胤

本居宣長から跡を継ぐ形で、儒教や仏教などの海外からやってきた思想(外来思想)を習合させた神道を批判する。

賀茂真淵・本居宣長から受け継いできた古道説を、神道の新たな形「復古神道」として大成させ、幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えることとなった。

平田篤胤:(ウィキペディア)

賀茂真淵ゆかりの地

賀茂真淵翁顕彰碑

昭和56年(1981年)浜松市制施行70周年記念として、真淵誕生の地に建てられた。

“賀茂真淵誕生の地”・”主著”(真淵の主な著書)・
“九月十三夜県居(ながつきじゅうさんやあがたい)にて”
の碑などがある。

縣居神社【賀茂真淵が祭られている神社】

縣居神社(あがたい神社)【賀茂真淵が祭られている神社】

境内には、真淵の歌碑や浜松城主水野忠邦(みずのただくに)の”縣居翁霊社(おうれいしゃ)”の碑などがある。

賀茂神社【賀茂真淵の先祖が祭られている神社】

賀茂神社【賀茂真淵の先祖が祭られている神社】

境内には、”賀茂神社献詠歌”(荷田春満の和歌と真淵の長歌)・”縣居神社遺址(いし)”の碑がある。

万葉歌碑 引馬野に(ひくまのに)

万葉歌碑引馬野に」は浜松市中区利町(とぎまち)の五社公園の中にある。浜松市制施行85周年と賀茂真淵生誕300年を記念して、平成8年(1996)に建てられた。
歌碑の文字は真淵翁直筆の『万葉集遠江歌考』から拡大転写したもの。

賀茂真淵の墓

東海寺 大山墓地
文化財 国指定史跡 

賀茂真淵の墓
遠州(現静岡県)岡部生れの国学者。荷田春満の門に入り、師の没後の研鑚により名声も高く、田安宗武に招かれて和学御用を勤める。万葉集研究を主とし、多くの著作がある。本居宣長らとともに、国学の四大人と称された賀茂真淵の他、以下の著名人の墓もある。

沢庵・西村勝三・井上勝・渋川春海・賀茂真淵の墓、煉瓦職人の墓、島倉家の墓、服部南郭(柳沢吉保に仕えた儒学者)。

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