茨城県は、「いばらき」と読みます。濁りません。ちなみに、大阪府の茨木市も「いばらき」です。どちらも濁りません。では、どうして「茨城」も「茨木」も濁らずに「イバラキ」と読むのでしょうか。実は、「茨城」の古代の読み方「牟波良岐」に由来します。
『茨城』は「茨(イバラ)で造った城(キ)」のことだと言います。はたして本当でしょうか。「茨城」には、隠された別の意味があるのです。それは何でしょうか。
『常陸』よりも古い『茨城』
『常陸』が読めない人は、日本人の約6割!
若者の半数は、『常陸』を読むことが出来ないのだとか。
日本人の20代~30代の若い人に、『常陸』を何と読むか尋ねると、
『読めません』
と応えるといいます。
『ヒタチ』ですよネ。
天気が好い地方だから『ヒタチ』だとか、
古代の道としては、交通の便が良く、ひたすらに道が続くから『ヒタミチ』
そこから転じて『ヒタチ』だとか、
平地が続き、天をよく見渡せるから、『日を高く見ることが出来る』ということで、
『ヒタカミ』から、『ヒタチ』だとか、
いくつか説がありますが、とにかく『常陸』の読み方は『ヒタチ』です。
『茨城』は、イバラキ
同じように、常陸の国より古くから郡(こおり)名として存在し、現在県名となっている『茨城』も、3割から4割の人が正しく読めないのだそうです。
こちらは「イバラキ」です。
『いばらぎ』ではありません。
『茨城』はなぜ「イバラキ」と読むのか
常陸国(ひたちのくに)風土記の記述
ヒタチノクニ・フドキ(常陸国風土記)には、朝廷側の人間が、ヒタチ(常陸)の現地人を征服するときに茨(いばら)で城(キ)を築いて討ち滅ぼした。
ー常陸国風土記・意訳ー
という物語が載っています。
茨の城(キ)で、征服したからこの地を茨城と言い、茨城の読みも「イバラキ」だと言うわけです。
お話としては、面白いですよね。
「イバラキ」という読み方が先にあって、漢字は後から宛てた
茨城県は、古代は、新治・筑波・那珂・久慈・多珂という郡に別れていました。
これらが一つとなって『常陸国』となるのは、少し時代が降ります。
『古事記』には、イバラキのクニノミヤツコ(茨木国造)の祖として、アマツヒコネ(天津彦根命)の名があります。
『古事記』のこの箇所では、茨城を茨木と表記しています。
茨城郡庁があったのは、現在の石岡市茨城あたりです。
面白いのは、石岡市には『茨木』という地名もあります。
つまり、古代にも現代にも、地名として茨城も茨木もあったのです。
そして、どちらも『イバラキ』と読みました。
これは何を意味するでしょうか。
実は、とても面白い意味を含んでいます。
それは、「言葉が先にあった」
茨城とか茨木という漢字は、後から「当て字」として付けられた、ということです。
地名を調べる際に注意すべき点
新井白石の言葉
江戸時代の学者新井白石は、著書『国郡名考』の中で、次のように言っています。
「その、尊(とうと)むところは、ひとへにその辞(ことば)にありて、異朝の如くその尊むところ文字にあらず。」
つまり、地名を調べるときには、漢字を重視してはいけませんよ。あくまで『そこの地名を何と言うのか』、『言葉』を重視しなければいけません。
と、述べているわけです。
柳田國男の言葉
また、著名な柳田國男先生も、『和州地名談』で、こう述べています。
地名の音声とこれを表す文字とは、たいていの場合には時を同じくして生まれてはいない。というよりもその間に相応に隔たっている。
元来、地名は長い間、代々の人の口から耳に伝えられていたもの。
その地名が出来た当時、文字はありませんでした。
地名が初めてできたときと、文字でそこの地名を表記するようになった時の間には、たいていの場合とても長い年月の経過があります。
そして、時の経過とともに、『なぜその土地が、○○』と呼ばれるようになったのか、その記憶が曖昧になり、時には誤って伝えられたりします。
さらに時代による発音の変化・転嫁も有り得ます。
だから現代の時点で、振り返ると「無理な当て字」がいくらもあります。
また、本来の意味とは、全く異なり意味不可解になってしまった地名すらあるわけです。
(柳田國男の地名の研究より)
新井白石や、柳田國男先生がおっしゃっているように、「茨城」や「茨木」という漢字にとらわれるのでは無く、『言葉』そのものに注意する必要があります。
では、古代「茨城」は、どのように発音されていたのでしょうか。
『牟波良岐』をどう発音するか
和銅6年(713年)に、風土記撰上令(ふどきせんじょうれい・「風土記をつくって提出しなさい」)が出されました。
そのお達しには、「郡郷の地名は、好い字をつけること」という命令が含まれていました。
そこで、常陸国(ヒタチノクニ)では、それまで、「牟波良岐」と表記していた郡名を「茨城」として、中央に提出しました。
では、『牟波良岐』を、どう発音していたのでしょうか。
仮に「ムバラキ」とか、「ウバラキ」と発音していたとします。
和名抄という本があります。
この本が参考になります。
和名抄から、「牟波良岐」の発音の仕方を考える
和名抄を見ると、『牟』という文字または『無』という文字で「mu」、「m」または「n」と発音していたことが分かります。
①『牟』をそのまま読む読み方
牟奈加多・ムナカタ(筑紫国宗像郡の郡名)
加牟良・カンラ (上野の国甘楽郡の郡名)
②『牟』や『無』で口を閉じて「ム」と小さく発音し、後ろの音を濁音化させる読み方
加牟波良・カムバラ (越後国蒲原の郡名)
加無止・カムド (出雲国門の郡名)
③mとかnと発音はするが、後ろを清濁音にする読み方
伊無倍・インベ (美作国大庭郡の郡名)
加波無土・カハンド (丹波国桑田郡川人郷の郷名)
④「牟」や「無」を発音せず、後ろを濁音化する読み方
於保無波・オホバ (美作の国大庭郡の郡名)
伊奈無波・イナバ (上総国海上郡稲庭郷の郷名)
波牟布・ハブ (下総国埴生郡の郡名)
ここまでになると、「無」は次に来る語を濁音にするという、記号として用いられているようですネ。
これらのことから考えると、牟波良岐が仮に「むばらき」とか「うばらき」と読まれる以前は『バラキ』と発音されていたと考えられます。
常陸の現地民は、「ばらき」を「ぱらき」と発音した
日本語には、「語句の最初に濁音は来ない」という原則があります。
だから「ばらき」という言葉は、日本語としては違和感があります。
ということで「ばらき」より、もっと前があったと考えられるのです。
「ばらき」という変な日本語について説明が出来る言葉があります。
それは、いわゆるアイヌ語です。
当時茨城の地には、山の佐伯・野の佐伯といわれる人々が住んでいました。
この人たちは、ときには土蜘蛛ともいわれます。
おそらく、縄文人の住居である竪穴式住居に住む人々だったのでしょう。
この人たちの言葉が、古代の「茨城」のもともとの言葉でした。
この人達が使ったと予想される言葉を元に、「ばらき」について考えると、
おそらく元々はアイヌ語で語句の最初に使用されることが多い「p」音が使われていたと思われます。つまり「パラキ(paraki)」と発音したと思われます。
その「p」音が、奈良時代までに「f」音に変化し「ファラキ」となります。
そして、「バラキ」に変化したと考えられます。
そして、漢字を宛てるようになって、濁音の前に「牟」を付けて「むばらき」とか「うばらき」となったわけです。
茨城は「茨の城」ではない!
茨城に住んでいた現住民のことばが「パラキ(paraki)」なら、当然「茨城」の意味は「茨の城」ではなくなります。
では、一体「パラキ」にはどういう意味があるのでしょうか。
「para」は「広い」
アイヌ語で、「パラ(para)」には、「広くある」「広くなる」という意味があります。
そこに「ki(ケ・ケイ⇒キ)」、「ならしめる」「あらしめる」という言葉が突くと、
「パラキ(PARAKI)」は、「広くならしめた所」、つまり「開墾地」・「開拓地」を指す言葉になります。
つまり「パラキ」・「フィラキ」・「バラキ」・「ウバラキ」・「茨城」とは、「ヒラキ」です。
補足:欽明天皇の和名
継体書記という書物に、継体天皇に一人の皇子が生まれたことが記されています。
長じて、この皇子は天皇になります。(当時は大王でしょうか)
天皇の和名は『天国排開広庭尊(あめくにおしはらきひろにわのみこと)』と言います。
我が国に仏教が入ってきた時の天皇、欽明天皇です。
この欽明天皇の和名の「開」について、注釈が書かれています。
開、これをば、波羅企(ハラキ)と云う
そして、国土を押し広げた天皇(大王)と記されます。
茨城の撥音は、この「波羅企」と同じ発音となる「波良岐」であり、意味は、「押し開いて開墾した土地」茨城県の読み方は、なぜ「いばら『き』」なのか:茨城の本当の意味は何という意味になるでしょう。
まとめ:茨城県の読み方は、なぜ「いばらき」なのか:茨城の本当の意味は何
「茨城」は、「茨で造った城(キ)」だから、イバラキと読みます。
これでも、間違いではないのですが、本来は…、
「茨城」は、当て字、もともとは「開拓された土地」という意味をもつ「開」が語源。
読みとしては、「パラキ」から転じて「バラキ」。
漢字を宛てるようになって、牟波良岐(ウバラキ・ムバラキ)
「開(ヒラキ)」がもともとの意味なので、「ぎ」ではなく「き」と、
濁らずに発音するのが正しいわけです。
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