林羅山は、日本の儒教(朱子学)を定着させた人物。また、昌平黌などの学校をつくり、日本の教育改革を行った人物。日本文化を語る上では欠かせない人物である。この『本朝通鑑』を完成させる上で羅山が提唱した神道が『理当心地神道』であり、「天皇家の祖先は中国人だった」という受け入れがたい主張だった。林羅山が提唱した『理当心地神道』とは、どのような神道だったのか。
林羅山が提唱した「理当心地神道」
皇室の祖先は、中国人の太伯だと考えた羅山
日本古来の神道というものは、儒教において理想的な政治のあり方とされる王道が、日本に伝わって一変したものにほかならないと羅山はいうのである。この「王道一変して神道に至る」という羅山の神道論の根底には、太伯皇祖論という歴史認識かあった。
(江戸幕府と儒学者p69)
林羅山は次のように述べている。
『日本の皇室は、太伯という人物が中国の古代の国の一つ「呉」を建国し、その後に日本に渡来して、天皇家の祖先となった』と。
この説は、林羅山のオリジナルではなく、南北朝時代の五山の僧「中巌円月(ちゅうげんえんげつ)」によって唱えられたという。
羅山は「神武天皇論」(『羅山林先生文集』巻二十五) において、日本神代の天孫降臨神話の背景には太伯の日本渡来という史実かあるとし、私的には太伯皇祖論に賛成の立場を表していた。聖人周公の大伯父太伯が、中国大陸から儒教的な王道というものを日本に伝え、それが日本の「上古の淳直」(『本朝神社考』羅山自序) なる「国俗」にしたがって変化したものが神道だと羅山は考えた~
(江戸幕府と儒学者p69)
羅山は、このように皇室の祖先は中国人であり、日本に渡来してきた人物だと言う。その史実が「天孫降臨神話」になったのだと、主張した。
近年のDNA解析により、羅山の考え方は概ね否定されている。
神儒一致の神道「理当心地神道」
羅山は、「本地垂迹説など神の本来の姿は仏である」などという神道は、「仏教」によって汚されてしまった神道だ、と批判した。こうした神仏習合の神道を批判し、「原点に返れ」と主張した。
羅山のいう、原点とは、『儒教の聖人の周公の伯父の太伯が、中国からもたらしたころの神道』だ、というわけだ。つまり神=儒教、神授一致の神道のことで、その神道を「理当心地(りとうしんち)神道」とした。
羅山に言わせれば、国常立尊(くにのとこたちのみこと)は、朱子学で言う「太極」であり、万物は、国常立尊(太極)から生成した。つまり、国常立尊は「天理」であり、一人一人の心の中の「本然の理」と繋がっている。
羅山の唱えた理当心地神道の論理構成が、朱子学の存在論や心性論に基づいて成り立っている。
(江戸幕府と儒学者p72)
羅山の考え方の根本は、『遠い古代に、太伯という中国人が渡来して日本の天皇家の祖先になった』という考え方が元になっている。
林羅山は、偉人ではあるが彼の思想の根本は受け入れがたいこのような思想にあった。
当時から批判が根強かった、太伯皇祖論
確かに神儒一致説は、論理としてうまくまとまっている。
だが、この説が成り立つには、どうしても「皇室の祖先は、中国からの渡来人の太伯」である必要が生じる。
だが、「皇室渡来説」は当時でも、受け入れがたいものだった。例えば水戸光圀も羅山のこの説を批判している。
大学者であり、日本らしい秩序の基を築いた人物である林羅山が「皇室渡来説」を唱えてしまうのはなぜだろうか。
羅山が、中国の学説を学ぶ学者であったことが原因だろうか。
「思想史的に中国が日本を圧倒的にリードしている」という、偏見から抜けきれなかったのだろう。
まとめ:羅山の提唱した神道は「理当心地神道」
羅山の提唱した神道は、「理当心地神道(りとうちしんしんとう)」という。
羅山の神道は、「皇室の祖先が、呉の太伯」だったという考え方を根底としている。
「呉の太伯」が、儒教の心髄を日本に伝えた。つまり、神道の心髄は儒教だと考えた。つまり、『神儒一致』というのが、羅山の神道の心髄。
「本地垂迹」などという考え方は、羅山にとっては、「仏教に毒された神道」と映った。
儒教(朱子学)を日本に広めることを自らの役目と考える羅山は、『儒教が一番』という主張を幕府に認めさせるためには、『太伯、天皇家の祖先論』を推し進める必要があった。その一環として生み出されたのが「理当心地神道」であった。
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