日本人は、災害に遭ったときでさえ、慎ましやかに列を作り、列を崩さずに待つことができる。この「慎ましさ」は、どのようにして日本民族に培われたのか。江戸初期の思想家、林羅山の功績が大きい。
朱子学を江戸幕府に定着させた『林羅山』
林羅山の概要
林羅山の生きた時代は、1583年(天正11年)~1657年(明暦3年)
藤原惺窩に朱子学を学び、惺窩の推薦で江戸幕府に使えることとなった。(1607年・慶長12年より)
家康、秀忠、家光、家綱と4代の将軍に仕える。
「武家諸法度」を起草した。
朱子学が幕府の官学になる礎を築いた。
林羅山は、『理の学』である朱子学を幕府の政治倫理に位置づけた。
これにより、長い戦乱の世、荒廃しきった世から、社会に安定を与える思想体系を培った。
林羅山は、一字名なので帰化人かと思われることもある。しかし、もとは加賀で林業を営む家だったので、職業の関係で「林」を名乗った。
加賀から紀伊に移住し、苦しい生活を送る中、羅山の父の時代に大阪、そして京へ移住し町人となった。
13歳の時に、建仁禅寺に上った。
江戸時代は、なぜ260年以上続いたのか
中学生の追究課題として、「なぜ江戸時代は260年以上も続いたのか」と、提示したことがある。
この課題に対して、「農業政策」「大名統制政策」「諸外国対策」「思想対策」という追究するための面、つまり観点を示した。
「思想面」の追究対象として、「武家諸法度」「朱子学」などを入れておいた。
長い戦国の世が終わり、平和な世の中が訪れたとき、その平和を維持するためには、「人々の考え方をどう変える」必要があったか、戦乱を義とする思考から、平和をよしとし、平和を望む思考に変える必要があったわけだ。
それが朱子学であった。
思想家「林羅山」が、日本民族に与えた影響
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、その3年後、慶長8年(1603年)に征夷大将軍となった。しかし、長い戦国の世が終わったばかりの天下は、まだまだもろい。油断をすればすぐにでも戦乱の世に逆戻り、ということが十分に考えられた。
そこで、家康は、この天下が長く続くよう、爪をかみながら考える。
戦のない世の中を創るために
人々の考え方を変えねばならん。
それには、人々は、「秩序を重んじるようにする」ことだ。
そのためには、さて「どうする家康!」
幕府護持のための学問
家康は、自らの政権を守るため、平和の世を維持させるために幕府を守るための学問として「朱子学」を採用した。
日本「朱子学」の祖と言われるのは「藤原惺窩」と弟子の「林羅山」
日本朱子学の祖と言われるのは、林羅山の師である藤原惺窩(ふじわらせいか・1561年~1619年)
惺窩は、相国寺で仏教を学んでいた人物だ。
江戸初期ごろは、儒学は禅宗の僧侶や公家が学ぶ教養としての学問だった。その儒学を僧の教養という位置付けから独立させ、『個別の学問分野』とするきっかけをつくった人が藤原惺窩であった。
藤原惺窩殿が出るまでは、
世に『儒学者』というジャンルの人はいなかった。
「儒学」は、儂ら禅僧を中心とした僧や、公家の方々の教養であった。
林羅山は、その惺窩の弟子であった。
羅山も、幼いころから建仁寺に属し、朱子の書を読み、朱子学を志していた。
21歳の時に惺窩の弟子となり、惺窩の推薦により24歳の時に幕府に仕えることになった。
採用時、羅山は、なんと「儒学者」としてではなく、「僧侶」として採用された。羅山が、儒学者として、朱子学を大成し、朱子学が幕府の学問となるまでには、実は相当の年月を要している。
林羅山の「思想」
羅山は、「武士の人間関係」、「人間としての在り方」について説く。
一言で言えば『身分秩序を正統化』するための思想。
「上下定分の理」
天は尊く地は卑し、天は高く地は低し。上下差別有るごとく、人にも又君は尊く、臣は卑しきぞ
春鑑抄
羅山が1629年(寛永6年)に自分で著した、『春鑑抄』である。意訳すると、次のようになる。
天が上にあって地が下にあるは、あらかじめ定まっていることで、それと同じように、身分にも上下がある。
これによって、身分秩序を正当化した。
「在心持敬」
常に心の中に敬を持ち、また上下定分の理を身をもって体現する
「敬」とは、「うやまう」という意味ではなく、「つつしむ」という意味。
心の中の「私利私欲」を戒め、常に「つつしむ」心をもちなさい、と説く。
「春鑑抄」に、
国をよく治めるためには、「序」(秩序・序列)を保つために、「敬」(つつしみあざむかない心)と、その具体的な表れである「礼」(礼儀・法度)が重視されるべきだ
と説き、
特に身分に対して『持敬』(心の中に『つつしみ』をもつこと)を強調した。(存心持敬)
われわれ日本人は、林羅山の朱子学を意識するしないにかかわらず、「つつしみ」の心に、共感する。共感するだけではない。そのように行動する世界に冠たる民族だ。
日本民族に、このような「慎み深さ」が植え付けられたのは、当時の武士のみならず、識字率の高い庶民を含めて、羅山の朱子学を学び身に付けたからだろう。
元禄3年(1690年)綱吉の援助で昌平坂に林家の私塾がつくられた。後の、昌平坂学問所であり、幕府公式の学問所となった。
朱子学の根本『理を極める』
宇宙の原理は「理」
その「理」が、人の心に備わり、
まだ、働き出さない状態が「性」
藤原惺窩は、
宇宙の原理は「理」であり、それは感覚的には捉えられない。
「理」が、人の心に備わっているが、まだ「事」に応じて、働き出さないでいる状態が「性」である、という。
人間に備わっている「性」が、「理」と一致する状態を、明徳(道心)と呼び、『性』と『理』が一致した状態の人を『聖人』と呼んだ。
そして、『聖人』となるためには、『君臣・父子・夫婦・徴用・朋友』の五倫を重視して、自らの心(人欲)を磨くことが大切だと言う。
格物致知
『敬』の修養の為に、必要な事がある。
それは、自分が合一すべき『理』とは何かを知らなければならない。
事物の『理』を究明して『知識』を得るためには、自分自身で試さなければならない。
長岡藩の河井継之助も大切にした『格物致知』だ。「物をただして、知をいたす」
『格物』とは、『理』に合うように行動を正すことを指す。
さらに、
『物』とは、「自らの心」を指す。つまり、自らの『心』(性)を正すことも意味する。
常に自らの行動を省みて、「正しかったか」と問う精神は、このようにして培われたのだろう。
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