笠置シズ子は、養父母の勧めで三歳から日本舞踊や三味線を習い始めた。このあたりは、ブギウギの花田鈴子でも忠実に描かれている。幼児期から始めたこの芸事が、笠置のその後の人生を決定づけた。そして小学校を卒業した年、松竹楽劇部の音楽部部長・林嶽男との出会いによって松竹歌劇団に入ることができた。
静子、松竹歌劇団に入る
静子が、松竹歌劇団に入る入るきっかけ
笠置が幼い頃から芸日本舞踊や三味線などの芸事を習っていたのは、養父母の教育方針によった。
養父母は、義理と人情と芸事好きな夫婦だったようだ。
笠置本人も後年語っているが、「勉強はそこそこだったけど、歌うことや踊ることが大好き」な、少女だったのだ。
静子が小学校に入った頃、義父音吉は、商売を米屋から風呂屋に替えている。
大正から昭和にかけて大都市の人口が急激に増えたこと、それと共に庶民の衛生観念が高まったことで、銭湯の需要が増えた。この需要の高まりが、音吉に転職を決意させたのだった。
この風呂屋の脱衣場が、幼い静子の歌や踊りの舞台となった。
風呂屋に集まる客を相手に、脱衣場で歌や踊りを披露する鈴子。
そして、鈴子の歌声や踊りは近所の評判となっていた。
近くに小屋をかけた老境劇団に見込まれ、子役の舞台を踏んだこともあった。
このような幼少期を過ごした鈴子は、小学校を卒業した1927年(昭和2年)に、当然のように宝塚少女歌劇団を受験する。
歌や、踊りは申し分ない。
だが、最後の身体検査で身長が足りないことを理由に不合格になってしまう。
失意の内に、阪急電車に乗り大阪に戻る静子。
とぼとぼと歩きながら家に帰り着くと、近所のおばちゃんが、
「すずちゃん、道頓堀でも宝塚みたいなのやってまっせ。」
と教えてくれたのだった。
鈴子は、その足で道頓堀の松竹座に向かう。
後先考えることなく鈴子は、松竹楽劇部に駆け込んだ。
ブギウギの橋本じゅん演じる、林嶽男(史実の松本四郎)との出会い
「わては宝塚でハネられたのが残念だんね。こうなったら意地でも道頓堀で一人前になって、なんぼ身体がちっちょうても芸にかわりはないところを見せてやろうと思いまんね。どんなことがあっても辛抱しますさかい、先生、どうかお願い申します!」
歌う自画像より
静子の必死の思いは、奥で聞いていた音楽部部長の松本四郎に伝わる。
松本四郎は、ブギウギでは橋本じゅんが演じる梅丸少女歌劇団の音楽部長・林嶽男(たけお)のモデル。
この人と鈴子の出会いは、ある意味その後の鈴子の人生を決定づけた。
「ようしゃべるおなごやな。そないしゃべるのやったら、身体もそう悪いことないやろ。よっしゃ、明日かあら来てみなはれ」
歌う自画像より
「ほんまだっか?」
「しょうがないがな。そない言うてやらんと、あんた、いつまでもいなんやろがな」
ブギウギで、音楽部長林嶽男が、ウイスキー瓶から何か得体の知れない液体を飲んでいた。
林が、その瓶を劇中の鈴子や、鈴子の同期生に示し「これは血だ。飲んでみるか」と言う場面があった。
実はこれは史実。
体の小さかった笠置のために松本は、屠牛場(とぎゅうじょう)から牛の生き血を瓶に詰めてきて、飲ませたという。
静子の初舞台
静子の初舞台は、その年の夏。
ブギウギでは、3人の同期のうち一人だけがデビュー出来ることになっている。
ということは、ブギウギの同期三人組のうち選ばれるのは『鈴子』になるのだろうか。
10月13日のブギウギを見たら、なんと3人一緒に同時デビュー。
よかった、よかった。
このときの演目は、「日本新八景おどり」
もちろんちょい役だった。華厳の滝の水玉の精を演じた。
芸名がついた。「三笠静子」
ブギウギでは、「福来すず子」
そして、本日(10月13日)で子役の澤井梨丘(さわいりおか)ちゃんの鈴子は終了のようだ。『流石に700名を越えるオーディションを通って選ばれただけあった。明るく、活力溢れ、やさしさに満ちた鈴子役、お疲れさまでした。』
明日からは、いよいよ趣里さんの鈴子が登場らしい。
静子、劇団で認められる
鈴子が、劇団で認められ出すのは、入団5年目(1927年)の「春の踊り」でコミックソングを歌った頃からだった。
劇中では、顔を真っ赤に塗った道化の娘・ポンポンサーという役。
いわゆる三枚目という役どころだが、この役は笠置にとって当たり役、まさに適役。
だが、舞台できちっとした役をもらうまでには、それこそ涙ぐましい努力の日々があった。
役を得るためには、ときたま訪れる代役の機会をモノにしなければならなかった。
そのためには、誰が休んでも代役ができるように、『その舞台の全ての役を頭に入れていた』と、笠置は後年述べている。
それでも、『抜擢されるたらされたで、同級生から憎まれたり、ねたまれたりしたのよ』
とも語った。
現実の世界でも、ブギウギで描かれた鈴子や同期生同士の確執があったのだろう。
静子、初上京する:後の男装の麗人『水の江瀧子』との出会い
笠置(このときは三笠静子)が初上京したのは、1929年(昭和4年)。
この年、東京松竹楽劇部が発足している。笠置が歌劇団に入って2年目のことだった。
笠置は、この年の年末に開催される東京松竹の旗揚げ公演の『西の応援組』として上京した。
このとき東京松竹楽劇部生徒養成所第一期生の水の江瀧子と出会った。
水の江瀧子は、これから数年後、『男装の麗人』と呼ばれる。
そして、笠置は戦後に『ブギの女王』となる。
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