矢田部教授は、
ここの書物も、好きに閲覧したまえ。土佐の好学の士を東京大学植物学教室は、歓迎する。
と言う。富太郎は、東京大学植物学教室への出入りを許されたのだった。
しかし、やがてこの矢田部教授(「らんまん」中の要潤さんが演じる田邊教授)は、富太郎の東大への出入りを禁じてしまう。
だが富太郎が苦境に立たされたとき、手を貸してくれたのが仲間がいた。その仲間とは。
藤丸次郎のモデルは誰か
東京大学の植物学教室への出入りを許されてから、1年が経とうとしていた。
東京大学で知り合いになった学生、市川(田中)延次郎(のぶじろう)と染谷徳五郎が、富太郎の借家を訪れた。
二人は、富太郎の借家を見て、
「人間が住んでいるとは思えない。これは動物の巣だよ。」
と述べた。
「家主の女将さんから、狸の巣のようじゃ。虫がわいたらどうしてくれると怒られる。大学は青長屋で、下宿は狸の巣。おまんらと、ちょうど釣り合いがとれちょらあ。」
市川と染谷は、この後富太郎と共に、植物雑誌を出すことになる。
ところで、市川延次郎と染谷徳五郎は、「らんまん」の誰に当たるのか。
市川延次郎が、劇中の「藤丸次郎」のモデルの一人
「らんまん」で、前原瑞樹さん演じる藤丸次郎のモデルが、市川(田中)延次郎。
「らんまん」の中で、藤丸が「実家は、酒問屋」と発言している。
実際の市川延次郎も、江戸の酒問屋に生まれているので、藤丸のモデルは、市川だろう。
ただし、藤丸のモデルはもう一人いる。藤井健次郎博士。
市川と藤井が加味されて、藤丸次郎となっていると思われる。
富太郎の狸の巣のような下宿に3人はあつまり、雑誌の構想を練る。
時には、市川の実家の酒屋に集まって食事をしながら話し合うこともあったようだ。
藤丸のモデル「市川延次郎」は何をした人か
市川(田中)延次郎は、明治22年(1889年)に「日本菌類図説」を出版した菌類学者。
「らんまん」中の藤丸は、英語が出来ず精神的に弱さを感じさせる青年として描かれている。
実際の市川延次郎は、東大の選科生だった。本科生と違い一部の科目だけしか履修できないため、本科生からは一団低く見られていた。
市川は、自費でドイツのミュンヘン大学に留学している。ドイツでは、酵母などの研究をする積極的な一面を見せ、帰国後、2年ほど東京帝国大学理科大学の講師を務めたが、やがて、就職先が無くなり精神を病んでしまう。
最後は明治38年(1905年)に、精神病院内で死去した。
藤丸のもう一人のモデル「藤井健次郎」は何をした人か
藤井健次郎は、植物学者・遺伝学者。
人材育成に意欲を見せるが、研究論文についてはあまり意欲をみせていない。
留学は、明治34年(1901年)にドイツとイギリス。
帰国後、明治44年(1911年)に東京帝国大学教授になっている。
藤井が育てた人物としては、篠遠喜人、桑田義備、田原正人、大賀一郎などがいる。
上記の4人は、大正7年(1918年)に開催された「細胞学を基礎とする遺伝学講座」(小石川植物園内)の受講者だった。
篠遠喜人(科学史家、東京大学名誉教授。国際基督教大学元学長)は、遺伝学者として有名。
桑田義備(植物細胞学者、京都大学名誉教授、私立徳川生物学研究所の所長)は、染色体の研究者として有名。
田原正人(八高教授、東北帝大教授を歴任し、横浜市大教授)は、キク属の染色体研究で知られる。
大賀一郎(第八高等学校教授)は、「古ハスの果実の研究」で知られる。
藤井健次郎の学問的業績
藤井健次郎の学問的業績としては、昭和元年(1926年)に、細胞の染色体が二重螺旋構造になっていることを突き止めている。藤井博士が60歳の時だった。
後に、電子顕微鏡が発明され、藤井博士の定昇された「二重螺旋構造」が、正しいことが確認された。
また、「geneome」を「遺伝子」と翻訳し、最初に使用したのも、藤井博士だった。
昭和2年(1927年)には、東京帝国大学を退官したが、退官後も死ぬまで研究を続けている。
昭和4年(1929年)には、国際細胞学雑誌「CYTOLOGIA(キトロギア)」を創刊した。
この雑誌は、遺伝子や細胞内の分子の働きなどを研究するもので、日本初の欧文専門雑誌(ヨーロッパで通用する英語で書かれ、国際的に発表できるように配慮された雑誌)だった。
この雑誌は、現在も発行が続いている。
藤井先生は、昭和27年(1952年)に亡くなられている。
らんまんでは、「藤丸が綾と竹雄とタッグ」を組む
史実では、竹雄(志尊淳)と綾(佐久間由衣)のモデルは醤油の醸造を行っている。らんまんではそば打ちの修行をし上京してきた。
東京で二人が開いた屋台では、故郷佐川の味が食べられるとあって、万太郎(神木隆之介)と虎鉄(濱田龍臣)は大喜びだ。宴に集まった高知の味初心者の、藤丸次郎や波多野泰久も舌鼓を打っていた。
寿恵子(浜辺美波)も、高知のヤマモモの甘露煮に感動だ。
これが、寿恵子の待合茶屋の屋号「山桃(ヤマモモ)」につながる布石。
竹雄は、波多野(前原滉)と藤丸(前原瑞樹)に、自分たち夫婦の夢が「新しい酒を造る」ことで、そのために「醸造の研究をしている先生を探している」ことを話した。
ここで、「こうきたか」という展開にストーリーは展開する。
「酒をもう一杯飲んでから返る」と、一人屋台に残った藤丸。
綾から、「何を飲みます」と問われた藤丸は、
「注文は新しい酒がいいです。綾さんと竹雄さんの。それを飲みたいです」と言った。
「すみません。俺、きっと無理なんですが…無理なのに思ってしまって。酒造りの研究…俺がやりたいって」
「俺は、菌類ならなんでも好きなんです!」
菌類の研究と醸造は全く別の学問。だから、藤丸も覚悟が必要だ。
藤丸は、「最初から勉強をする」、と決意を述べる。
そして、勉強の具体的な道筋を綾たちにしめした。
「今の日本に教授がいない。だが、外国では研究されてるかもしれない。そういった本を読むことなら俺にだってできる!」と。
「必要とされるの、いいなって。俺のこれまでの時間、何にもなかったとは思いたくない。俺だって何か果たしたくて!」と熱い思いを伝えた。
綾は「新しい酒のご注文、承りました。きっとうまいです。私らの学者先生と造るがですき」と笑顔を見る。
竹雄も「藤丸さん、よろしゅうお頼申します」と頭をさげたる。感動的だ。
「いいぞ、藤丸!よくいった。」
この三人の物語は、全く史実と離れていくが笑顔あふれる結果を描いて欲しい。
」のモデルは誰か
前原滉(こう)さん演じる、波多野泰久は、藤丸と一緒に劇中の万太郎と最初に仲良くなった仲間の一人。
この波多野のモデルも、二人いる。
染谷徳五郎と、池野成一郎だ。
実際の富太郎と最初に植物雑誌をつくった仲間は、染谷徳五郎だった。
「らんまん」の波多野は、近眼でメガネをかけている。染谷も極度の近眼だったという。
藤丸次郎とコンビで登場することが多く、劇中の万太郎と最初に親しくなったのは、藤丸と波多野の二人だった。
富太郎博士と一緒に植物雑誌をつくった染谷徳五郎
染谷徳五郎も選科生。
市川も染谷も選科生ということで、本科生からは一段低く見られていたので、学生でも無いという点で境遇が似ている富太郎と相通じるモノがあったのだろう。
三人は、よく集まって、すき焼きを食べたり、富太郎の下宿に遊びに来たりもしていた。
このような人間関係の構築から、三人は明治20年(1887年)に植物学雑誌を刊行することになった。
染谷は、東大を出た後は、東京高等女学校の先生になっている。
波多野泰久のもう一人のモデル、池野成一郎
波多野のもう一人のモデルが池野成一郎。
池野については、富太郎は自ら書いた自叙伝の中で「親友」と呼んでいる。
池野は、東京帝国大学理科大学の植物学科に入学した本科生。
市川や染谷と同じように富太郎の下宿に遊びに来たり、一緒に植物採集に行ったりする仲だった。
後に、東京大学を追い出されることになった富太郎を救うのが、この池野成一郎。
苦しいときに助けてくれた人物こそ、「親友」の名に値する。
池野成一郎の植物学者としての業績
明治39年(1906年)には、ドイツ、フランスに留学。
帰国後農科大学の教授となった。
池野成一郎は、細胞レベルの研究に取り組む。他にも育種学、遺伝学を研究した。
オオバコ属やヤナギ属など「種類の違う植物を掛け合わせ、どのような植物ができるか」と、いうような研究も行っている。
日本遺伝学の先駆者とも言える存在。
「学問上の偉人」というだけでは無く、「学校を卒業していない」という理由で迫害を受ける牧野富太郎を助け続ける、尊い人格をもった富太郎の大親友だった。
コメント